燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









金色とは、自由と解放の象徴で
紫色とは、信頼と未来の象徴で
けれど伸ばした互いの手は
触れ合うことなく、空を掴んだ



Night.47 メモリー









ホームへ駆け込んできた銀色に、目を瞠った。
肩で喘いだ彼が、顔を上げる。

「フィル!!」

彼の伸ばした手が、歪んで見える。
あの美しい紫色の宝石が、歪んで見える。
震える体を叱咤して、手摺を掴んだ。
精一杯身を乗り出し、手を――伸ばさず、振った。

「またな!!」

出せるだけの声を張り上げて、弾けるように笑って、溢れそうな涙を隠した。

――さよなら、ミザン









「おっはよー!」

今日も朗らかに背中を叩かれる。
ミザン・デスベッドは当然のように噎せた。
考え得る最大限に顔を歪めて、振り返る。
眩しい金色。

「フィル、いい加減にしろ。毎朝毎朝……っ」
「ごめんごめん。目、覚めた?」

少しも悪びれず、フィルが笑った。

「とっくに覚めてる」
「知ってる。おはよ、ミザン」

ミザンはふん、と鼻息も荒くそっぽを向いた。
けれどどことなく気まずくなって、おはよう、と呟く。
直後、ぷふっと吹き出す音が聞こえた。

――これは、私の子供じゃないわ!!――

生まれついた銀髪と紫の瞳を、資産家の両親も親戚も、隣人も級友も、誰もが煙たがった。
上流階級の子息にはありがちな、金目当てで近付いてくる輩さえいない。
そんなミザンにただ一人、フィル・グレイスという少年だけが進んで関わり合った。
成績上位者であるという、その一点で在籍を許されている、貧しい家の少年。
主席でありながら、誰にでも余りにも朗らかに接するものだから、友人からの信頼も篤い。

「ミザンのその目、すっごく綺麗だな!」

そんなフィルが何の気紛れか、ミザンに声を掛けてから。
二人は、行動を共にするようになった。
育った環境も、取り巻く人間関係も正反対の二人はそれ故に、何かと気が合った。









ミザンはふと隣を見た。
草むらに寝転んだフィルが、いつになく重い溜め息をついた。
明るい金色の髪が風に揺れる。
いつもリボンで結わかれている襟足は、今は彼の首の下で地面に押し付けられていた。

「どうした」
「ん? ……んー」

彼は少し眉を上げて此方を見る。
ほんのりした笑みと共に、その視線は逸らされた。

「マリッジブルー? マタニティーブルー? みたいな?」
「は? ……しっかりしろ、お前は男だろ」
「あはは、そうだった」

軽い笑顔に呆れて、今度はミザンが溜め息をついた。
言いたいことはうっすら分かる。
自分達は間もなく今通っている学校を、二人が出会ったこの場所を巣立つのだ。
そして医者になることを目指し、共に新たな学校へ進学する。

「……フィルなら、大丈夫だ」

ミザンは小さく、けれど確信を持って呟いてやった。
見上げられる気恥ずかしさに、ついと目を逸らす。
フィルはきっと、知らないだろう。
彼が話し掛けてくれて、ミザンがどんなに救われたか。
生みの親にも、家の使用人にすら存在を認められなかった。
ただ家の体面を保つためだけに学校へ通わされ、ただそのためだけに医者を志せと言われた。
家業を、家を絶やす気かと責められて。
けれど例え医者になれたとしても、お前の元を誰が訪ねるだろうと罵られて。
その上でミザンがその道を進もうと思ったのは、フィルに出会ったからだ。

――ただ、俺は、人間が好きなんだ。だから、助けたい、って思う――
――俺に救える命なんて、世界から見たらちっぽけなものかもしれないけど、それでも、――
――守りたいんだ――

閉ざされた世界に突如降り注いだ太陽の光が、眩しかった。
人を好きだと言い切れる彼に憧れ、彼のようになりたいと願って、到底無理だと悟って。
それでも、彼のように誰かを救える存在になりたいと願った。
そうすればいつか、誰かがミザンを認めてくれると、信じて。

「お前なら、良い医者になれると思う」

ミザンはフィルをまっすぐ見下ろして、確信を持って言い切った。
フィルの瞳が、ミザンを見つめ返す。

「俺が保証する」

二人の間に流れる時が、鎮まり返る。
遠くから、子供の声が聞こえた。

「……それは俺の台詞だろ」

フィルが呟く。
首を傾げたミザンを見上げ、彼は微笑んだ。

「ミザンは、優しいから」
「……俺が?」
「うん」

俺、知ってるよ。
そう言ってフィルが身を起こした。

「俺が言えないようなことも、お前は簡単に言えちゃうんだ」

深い青が。
見たこともない深海のような、深い青がミザンを包む。

「ミザンはさ、茶化したりしないから。怖いって言う人もいるけどさ。でも、」

けれど光の届かない海底と異なるのは、この青がきらきらと希望に輝いているということ。

「だからこそお前は、相手の為になると思うことはきちんと言うし、やるだろ」

優しいって、そういうことを言うんだぜ。
フィルがにこりと笑った。

「(フィル、)」

俺に希望を見出だしてくれるのは、いつだってお前だけだ。
熱くなった目頭も頬も恥ずかしくて、ミザンはまた顔を背ける。

「照れんなよ!」
「照れてない!」









準備と勉強に明け暮れていたミザンは、それでなくとも滅多に使わない筋肉を必死で動かした。
同じ町に住んでいるのに、何故かフィルから手紙が来たのだ。
今日、違う町へ引っ越すという。
ミザンと共に通う筈だった学校を蹴り、引っ越し先の学校へ通うということ。
そして、言い出しにくかったのだという謝罪が書かれていた。
ミザンは手紙を握りしめ、屋敷を飛び出した。
駅を目指して、ひたすらに走り続けた。

「そういう、こと、こそ……っ、あの、馬鹿っ!」

切れ切れに悪態をつきながら、それでも走る。
汽車が大きな汽笛を鳴らした。
最後の気力を振り絞って、ホームに駆け込む。
肩で息をして、キッと顔を上げる。
最後尾の柵に凭れていた金色が、深い青を瞠った。
彼の唇が、小さく「ミザン」と零した。
ミザンは怒鳴った。

「フィル!!」

怒りたいのか、引き止めたいのか、見送ってやりたいのか。
全部当てはまるのかもしれない。
自分のことなのに、よく分からない。
汽車が動き出す。
溢れる思いを、彼へと伸ばした右手に託した。
一拍置いて、フィルが手摺に身を乗り出した。
そしていつものような。
ミザンを一番安心させる、あの弾ける笑顔で、彼は大きく手を振った。

「またな!!」

汽車が走る音にも負けないその明るい声が、ミザンが最後に聞いた、彼の声だった。









難解な勉強に励むミザンには、フィルと出会う以前の日常が返ってきた。
それでも唯一の違いは、ひと月に一通、彼から手紙が届くということ。
どうやらうまくやっているらしい。
なるほど、あの箇所は自分も理解に苦しんだ、などと思い返しながら、ミザンはペンを執る。
自分も順調に過程をこなしていること。
フィルが手紙で見越した通り、人付き合いは上手くいっていないこと。
けれど毎日充実していること。
何を書こうか考える時間が、ポストに入れる瞬間が、僅かな楽しみだった。

『ミザン、俺も頑張ってるよ。休みが出来たら、一番に会いに行くからな!』

それを最後に、フィルからの手紙が途絶えた。
いくら手紙を書いても、返事が返ってこない。
もしかしたら、勉強に詰まってしまったのかもしれない。
否、フィルに限ってそれはないだろう。
ならばもしかすると、学費を払えなくなってしまったのかもしれない。
その方が余程真実味がある。
家が没落でもして、自分がフィルの立場になったとしたら、とても打ち明けられないだろう。
そうして半年後、ミザンは一人汽車に乗った。
地図を頼りに、フィルの住所を訪ねる。
フィルの家は町外れ、という言葉では表せないほどに寂れた、林の入り口にあった。
思わず、ミザンは呟いた。

「……な、んだ、此処は……」

見るからに薄い、板の壁。
半分穴の空いた屋根。
雨戸は取れかけて、外壁と地面の境目には雑草が生い茂っている。
いくらなんでも、こんな家で人が住める訳がない。
ミザンは引き返した。
町まで駆け戻り、息も絶え絶えに、道端に居た主婦の集団に声を掛けた。

「っ、聞かせて、欲しい……!」

主婦達が怪訝な顔で振り返り、ぎょっと目を剥く。
知っている。
この紫色の瞳を奇異に感じているのだろう。
この銀色の髪を、奇異に感じているのだろう。
そんなことは、知っている。
この瞳を好いてくれたのはたった一人だと、知っている。
その一人は今、何処に。
普段のミザンなら、この時点で関わり合うのを避けていた。
けれど、今は。

「林の、入り口の……あの家はっ、いつからあんな……っ」

林の……ああ、あそこ。
いつから?
結構前よね?
もう一年くらい経つかしら。

「息子の療養のために越してきたって聞いたけど……ねぇ?」
「きっと夜逃げだと思うわ」
「私もそう思う」
「間違いないわよね」

何の話だ。
ミザンは呆然と立ち尽くした。

「療、養……?」
「ええ。でも一年くらい前かしら、その息子が死んで、その後は夫婦も行方知れず」

礼をするのも忘れて、ミザンはまた、林の前に駆け戻った。
建て付けの悪い扉をこじ開けた。

「げほっ」

室内には、埃や砂が溜まっている。
台所には、罅の入った三枚の皿と、縁の欠けた三つの器。
台所から続く狭い居間の片隅に、二人分の薄い毛布。

「(嘘だ)」

ミザンは唇を噛んで、居間を出た。

「(フィルが、死んだなんて)」

その正面に、もうひとつだけ部屋がある。
きちんと閉ざされたその扉に手を掛け、開けた。
粗末なベッドと、小さな机。
机の上には、はみ出すほど大きな箱が乗っている。
開けてみようと箱を手にした時、傍らのベッドの上の、二枚の紙に気付いた。
そして、その紙とシーツに広がる黒い染み。
インクの色とは明らかに違う、それ。
ミザンは紙を持ち上げた。
震える指先に力を込め、シーツから引き剥がす。

『ミザンへ』

余りに見慣れたその文字が、砂と、黒ずんだ血と共に、紙の上でミザンを待っていた。
その紙を手に持ったまま、奥歯を噛み締め、机の上の箱を開ける。

『フィル・グレイス様』

書いた覚えのある宛名が、何通も、何通も、束になって収められていた。
ミザンはふら、と後退り、座り込んだ。
震えながら、手紙に目を通した。









今まで書いた手紙の内容は、嘘だったこと。
本当は、卒業の前に肺を病んでいたこと。
治療費の為に、家と僅かな農地を売ったこと。
けれど、医者を目指していたことは真実だった、と。
ミザンと共に医者になろうと思っていたこと。
見送りが、本当に嬉しかったこと。
もう一度、会いたい。
まだ時間が掛かるけれど、必ず治してみせるから、先に頑張っていて欲しい。
必ず、追いかけるから。
必ず、もう一度会いに行くから。









「……何が、追いかける、だ……」

ミザンは手紙を握り締め、胸に抱いた。

「置いていきやがって!! フィル!!」

彼以外に、この世でミザンを認めてくれる人など、いないのに。
ミザンはこの世で、一人きりになってしまうのに。
肯定される幸せを知ってしまった今、昔と全く同じ世界を耐え抜くことなんて、出来ないのに。
どうやったって、出来やしないのに。
こんな別れが待っていたのなら、始めから出会わなければ良かった。

「どうしてお前がっ、どうして……」

否、そうではない。
何故、どうして自分は、彼の異変に気付けなかったのだろう。
与えられた幸せに酔っていた。
それがどれほど大切なものだったか、貴重なものだったか、忘れていた。
傍に在るのが、当たり前になっていた。

「……フィル……ッ!!」

俺だって、もう一度会いたかった。









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