燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









希望に置き去りにされた少年は
新たな家族に
自らの世界に
終世の守護を誓った
神に魅入られ
神と謳われた少年は
やがて
終焉に魅入られ
終焉を吟いだす



Night.5 あの日――神に魅入られた少年









それは、二年ほど前のこと。

「これで全部か?」

声を掛けられ、はハッとした。
先程まで、自分が異常なほど興奮していたのが、はっきりと分かった。
否、自分は多分、落ち着いていたのだ。
暴れ回ったのは、「聖典」。
いつもの使い方では守れないと思ったから、自分はいつもより少し、そう、焦っていた。
寄生型の同調率は感情に左右されると聞いてはいたが、このことか。
普段から鈍くは無い感覚も、おかしいくらいに鋭敏だった。
発動を解いた今は、最近悩まされていた発動後の体調不良も無い。
けれど。

「(なんか、疲れたな)」

やっぱり、疲労感だけは変わらなかった。
ふと神田の声を思い出して、は辺りを見回す。
こんなところで油を売ってはいられない。
散らばるアクマの残骸。
その数は、計り知れないほど多い。

「そう……みたいだな」

は応えながら「福音」を腰のホルダーに仕舞った。
左腕からは血が――黒い血が流れている。
腕を伝って地面に落ちたそれは、小さな水溜りのようにも見える。
と違ってアクマの返り血を浴びている神田が、ちらりとこちらを見た。
「六幻」が鞘に納められる軽い音。
次いで舌打ちが一つ。

「……俺のことなんか、庇わなくたっていい」

は小さく笑った。

「まあまあ。いいじゃん、お前が怪我しなかったんだから」
「代わりにテメェが怪我してんじゃねぇか」

神田に睨まれたところで、は全く怯まない。
月明かりの下、二人は近くで血の盾に隠していた探索部隊のもとへ歩き出した。

「俺は怪我したくらいで寿命縮んだりしないんだから、いいんですー」

いつものように飄々と答える。
並んで歩き出した神田には、また舌打ちをされた。

「ちっ。……他の部隊は無事だと思うか?」
「お」

意外な人からの意外な発言に、は神田の顔を覗き込んだ。
二人は今、十六歳。
十八歳の二人の身長は大して変わらないが、この時はまだ神田の方がはっきりと高かった。

「お前がそんなこと言うの、珍しいな」
「今回のアクマの数は明らかにおかしかったろうが」
「それでビビったって? ちょっと見ない間に弱くなったんじゃねぇの?」
「テメェが強くなったんだろーが」

返された言葉で、は笑顔をひきつらせた。

「そりゃ……修行してるようなもんだったんだし」

が、師であるクロス・マリアンに連れられて教団に来て、約三年が過ぎていた。
二つのイノセンス保持者「神の寵児」として、入団当初から周囲の期待は大きかった。
休む間もない任務と期待に応えるように、代名詞ともいえるイノセンス「聖典」は着々とその力を上げた。
やがて囁かれた「神に魅入られた存在」という呼称。
「寵児」ではなく、自身が「神」と呼ばれるまでになったのは、入団して僅か半年での出来事だ。
をそこまで育てたのは言うまでも無く、師・クロス。
ある日突如姿を消したクロスに呼び出されたのは、彼の失踪から四日後のことだった。
弟弟子が出来たから修行に付き合えという命令により、は約一年本部を離れて教育係に従事した。
そして今度は、エクソシストが足りないという本部の命令により、先日帰還したのである。

「弟弟子か……フン、やってらんねーな」

神田がつまらなさそうに呟いた。
いつの間にか彼の方が半歩、抜きんでている。

「そうか? 可愛いぜ、弟」
「どこが」

ガキは五月蝿くて嫌いだ、と神田は吐き捨てるように言った。
忌々しそうに眉までひそめている。

「大体、あいつらときたら、人のことからかうしか能が無い」
「はは……俺達だって、似たようなもんじゃねぇか……」

――何だろう

話しながら感じ始めた違和感は、すぐに体中を駆け巡った。
一歩、二歩とは確実な遅れを取り始める。
やがてぐらりと視界が揺れ、立っていられずにその場にしゃがみこんだ。
頭の奥がガンガンと痛む。
まるで世界から自分だけを引き抜こうとするかのように、脳裏、記憶の底から、懐かしい声が近付いてくる――









「オイ」

ついてくる気配のないに若干の苛立ちを覚えながら、神田は振り返った。
二人きりの暗い道の先で、うずくまる彼の姿。
元来た道を少し戻って、神田は様子を窺うように傍らに膝をついた。

「どうした?」

問いかけに、が首を横に振る。
蒼を通り越して白く見える顔色。
震える、息。

「……分かん、ない……」

は日頃、決して人前で弱みを見せない。
その彼のただならぬ様子に、流石の神田も気持ちが焦る。
取り敢えず探索部隊と合流しようと思い立った。
癖になっている舌打ちをひとつ、神田はに背中を向け、しゃがんだ。

「ほら、乗れ」

肩越しに見えるは、小さく首を横に振っていた。

「俺が背負うって言ってんだから、早くしやがれ」

強い口調で言い放ち、神田は前方の暗がりを見つめて待った。
少しの間を置いて、の左手が力なく肩にかかる。
右腕がかかり、体重が背中に落ち着いたところで、神田は立ち上がった。
体勢を整えて歩き出す。
二人分の重みが、地面を強く踏み締めた。

「……ごめん」
「ちっ」

神田は呟きに、いつもよりいくらか気弱な舌打ちを返した。









神田が歩く一定の速度を感じながら、は意識の底へと落ちていく。
断片的な記憶。
方々から聞こえる声。
自分を呼ぶ、声。



それは彼にとって、何よりも大切で。
彼にとって、何よりも愛おしく。
それは彼にとって、彼の世界にとって、存在する理由の全てであり。
彼にとって、この世と引き換えにしてでも取り戻したい、永遠のものであり。









――お兄ちゃん――



お兄ちゃん、あのね

お兄ちゃん、行こう

お兄ちゃん、どうして?

お兄ちゃん、ありがとう

お兄ちゃん、大好き!

お兄ちゃん、死んじゃ嫌だよ

お兄ちゃん、助けて……



――お兄ちゃん――



妹の声に囲まれながら、ああ、とは心の中で呟く。

「(に応えた時が……それが、)」

――お兄ちゃん――









「室長!」

コムイは素早く人差し指を口にあてる。
傍らのベッドにはが横たわり、いくらか落ち着いた寝息を立てていた。
扉を閉めながら、リーバーは肩を竦め、そっと部屋の中に入る。
ちらりとを見て、そして厳しい視線をコムイに向けた。

「室長、どういうことっすか」
「だから」

コムイは読んでいたファイルをぱたんと閉じた。

「今回のことはただの体調不良とかじゃないってことさ」
「……寄生型の、副作用?」
「リーバーくん、クロス級の科学者になれるよ」

あの人も一年前、そのことを言ってた。
そう続けると、リーバーは訝しげに眉をひそめた。

「分かってて失踪したって、ことですか? 分かっててコイツだけこっちに?」

コムイは曖昧に頷いた。
あの男の真意は分からないが、表面だけ見ればそうだ。
あれほど目を掛けていたのに――その疑問は後に回して、コムイはファイルを閉じた。

「これから、こういうことが増えるんだろうね」

今回、伯爵側の猛攻で多くの殉職者を出した教団。
その中で、この少年が膝をつくということは、戦力以上に、団員の精神面に大きすぎる影響を与える。
今のリーバーの表情が全てを物語っていた。

「あんなに、使ってたのに……どうして今になって!」

長い脚を組みなおして、コムイは椅子の背もたれに寄り掛かる。
すっかり青ざめて、それでも考え込むリーバーに、不意に声を放った。

「時が、来たからさ。……悔しいけど、今より状態が悪くなることも、充分に予想できる」

帽子の下から、腹心の部下を斜めに見上げる。

「『聖典』に記された神は、ボクらが思っているほど優しい神ではないらしい
いや、世界にとっての神って点では、あながち外れではないのかな」

話しながら、その醜悪さについ顔を顰めた。

「……どっちにしろ、救われるのはボク達だけだ」
「それって、どういう――」
「――使うたびに、命を削るって、こと」

二人は驚いてを見た。
軽く目を閉じ、彼は微笑む。

……っ」
「分かってて、使ってた」

リーバーが息を呑んだ。
静かな声が、呟く。

「ごめんね」

伏し目がちに目を開ける
二の句の継げない二人に、変わらない穏やかな声が、言った。

「でも俺、『聖典』を使うのを、やめる気はないよ」
「お前……っ!」

リーバーがやっとのことで、首を左右に振った。
コムイは思わず立ち上がり、声を荒げた。

「キミは……キミは、もっと自分の立場を理解するんだ! 何でキミが『神』と呼ばれると思う!?
何物にも揺るがずに、いつも前に立っていてくれるから……だからボク達は挫けないでいられる!
いいかい、キミはボク達の希望なんだよ……!」

頭がかっとなって、自分でも心の奥底を吐き出してしまったように思う。
けれどこんな酷い言葉さえ、深い漆黒の瞳は力強く、それでいて穏やかに、受け止めてくれるのだ。
全てを、赦してくれるのだ。

「――だから、さ」

分かっていた。
彼が、誰の為にそう答えたかなんて、分かっていた。
自分達が彼にその道を強いたのだと、分かっていた。








嗚呼、神様……








福音と聖典
人間と救世主
破壊者による穏やかさ
神による確かな厳しさ



世界を救う、神
彼は
その身を犠牲にして
神に赦しを乞い願う









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