燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









それは、もう戻れない、冬の黄昏



Night.45 弔いの鐘









朝から晴れているのに、前日までに降った雪は未だ、溶けていない。
玄関で、教会へ向かうアンナがしっかりとマフラーを首に巻いていた。

「いってらっしゃい、おばあちゃん」
、いい子にしてるー」
「はい、行ってきます。早く帰ってくるわね」

二人で手を繋ぎ、笑顔でアンナを送り出す。
扉を閉めると、がぴょんぴょん跳びはねた。

「ね、ね。パパ、まだかな!」

は苦笑して、彼女の頭に手を置く。

「おうちでジャンプしない。大丈夫、もうすぐだよ。ほら」

窓を指差して、笑った。

「夕焼けが来るから」

プレイベルに着く最終の汽車は、ロンドンを昼前には出発する。
そして、ちょうど夕焼けの始まる頃に到着するのだ。
線路の上の雪は、村の大人たちがある程度片付けてくれている。
今日も晴れていたのだ、きっと大きな遅れもなく、汽車はやって来るだろう。

、お部屋の片付けしてきた?」
「あっ! ……やって、くる……」
「うん、行ってらっしゃい」

二人の部屋の片付けは、の担当。
他の部屋はの担当。
は気掛かりなことがあると、何も手が付かなくなる性分らしい。
逆には、こういう時ほど普段以上に細かい所が気になってしまう。
ぐるりと辺りを見回し、はっとしてを追った。

「待って!」
「え?」
「ちょっと待ってて」
「えー、なぁにー?」

妹の声を背に、慌てて部屋へ入り、扉を閉める。
机に書きかけの手紙を残したままだった。
さっとかき集めて紐で括り、その場にあった辞書の間に隠す。
扉を開けると、が頬をぱんぱんに膨らませて立っていた。

「ごめんね、もう良いよ」

謝ってもなおの機嫌は直らない。
どうしよう、と思っていたら、彼女の方から、唐突に視線を動かして笑顔になった。

「あ、見て見て! ゆうやけ!」
「え?」

振り返ると、の背後にあった窓から、橙色に変わり始めた空が見えた。
青から白へ、黄、そして橙へ。
一つの視界に、何色もの色が混じり合う。
明日も、きっと晴れるだろう。

「ねっ? きれいだね、お兄ちゃん!」
「うん……きれいだ……」

すっかり見惚れていた二人だったが、ふと顔を見合わせた。
夕焼けの始まりは、確か、汽車の到着時間。

「きゃー!」
「わああ!」

は部屋に駆け込み、は急いでダイニングへ引き返す。
落ち度は無いはずだ。
ディナーはちゃんと四人分あるし、マシュマロもつまみ食いせずに残してある。
父さんは喜んでくれるかな、今日のサラダはが作ったんだ。
ベッドも綺麗に整えた。
ああ、すぐに暖炉に薪を足さなくちゃ。
この薪は僕が割ったんだよって言ったら、褒めてくれるかな。
あとは、そうだ、お湯を沸かして、お茶を入れる準備をしよう。
あとは、あとは、あとは――



リリン、



ベルが、鳴った。
は驚いて玄関を見た。

「(あれ?)」

村人は全員教会にいるのだから、このベルを鳴らせるのは、今日帰ってくるだろうモージスだけ。
駄目だなぁ、僕。
しっかりしなくちゃ。
は一人、苦笑する。
夢中になって考え事をしていたから、きっと汽笛も聞こえなかったのだ。
仕方ない、だって、

――父さんに会える

だって、それだけで、胸がいっぱいだった。

!」

呼ぶと、ダダダダダ、と駆けてくる音。
当然片付けは途中だろうが、そんなことを気にするのは後でいい。
久々に叱られるのも、いいかもしれない。
二人でノブを掴み、勢いよく引いて開ける。

「パパ!」
「父さん!」

おかえり!
声を揃えて抱き着くと、確かに抱き返される。

「……ただいま」

懐かしい声。
疲れているのだろうか、いつもより声に力が無い。
に目配せをして、モージスから離れる。

「父さん、お茶入れるよ」
「パパ、座って! こっちこっちー!」

先にリビングに入ると、後から二人が着いてきた。
は食器棚で半分仕切られたキッチンへ進む。
楽しそうなの声に、思わず頬が綻んだ。

「あのね、ね、パパの……?」

声が止む。
ん? とは顔を上げた。









ガシャン、硬く、重い音。
聞いたこともない、甲高い、悲鳴。
それを掻き消す爆音、吹き飛んだ、真横の壁。

「ッ、!? お父さ――」









「……おに、ぃ、ちゃ……」

大きな機械。
父の顔のようなものがついた、大きな機械が、部屋の中央に佇んでいる。
その前に、血とペンタクルに彩られた、愛しい「世界」の姿があった。

「――え、」

訳が分からない。
体の真ん中に大きな穴を空けたが、黒ずんでいく。
自分とよく似た黒い瞳には、涙。
こちらに伸ばされる、小さな黒い手。

「……たすけて……」

茫然と立ち尽くしたの目の前で。
パキン、と。
穴を空けたままの服を残して、の体が、砕け散った。

「ぁ……、……?」

訳が分からない。
何?
何のこと、何が、何があって、――いま、何が。

「人間……殺ス……」

機械が喋った。
コレは、何?

「とう、さ、ん?」
「…………」









――違う
父は決して、自分を愛称では呼ばない









は、どこに行ったの
父さんは、どこに行ったの
人間って、砕けるものだっけ



あなたは、だれ



は……はどこ?
僕の「世界」は、どこ?



沸騰したような思考。
混乱して、上手く立てない。
食器棚に手をつくと、暗くなりかけた視界の端に、キラリと光る十字架が見えた。

「……殺ス…………殺ス……」

機械が、呟く。
父がどこに行ったのか、分からない。
けれど、たった一つ。
理解してしまったのは。



僕の家族が、もう、この世にはいないこと



は、どこにいったの
父さんは、どこにいったの
人間って、砕けるものだっけ、ねぇっ!



僕の、守るべき「世界」は、



怖いとも、いけないことだとも、思わなかった。
勢いよく食器棚の戸を開けて、「全てを壊すモノ」を、手に取った。

――守れなかった

その術はこうして、授けられていたのに。
頬に涙が伝う。
熱く跳ねる、心臓。
手に取った漆黒の物体から、鼓動が伝わる。

――守れなかった

「……っ、く……」

怖いとも、いけないことだとも、思わなかった。
ただ悲しみと悔しさで、ガタガタと手が震えた。

「ひっ……く、ぅ……っ」
「ニンゲン……殺ス……」

十字架が輝き、鉄の塊がグンと重さを増す。
歯車が三つ、腕の周りを回っている。

――守れなかった

「人、間……殺ス」

――守れなかった



――嗚呼、どうして、その呼び方は



――ねぇ言ってよ、嘘だって
「世界」を壊したのは、世界を壊すのは――

「……っ、あああああああああああ!!」

涙で見えない視界へ、引き金を、引いた。







爆音の中で、その声だけが、耳に届いた。









肩で息をする。
漆黒の重さに引かれるように、膝をついた。
空気が、足りない。

「……、っ……は、……」

あの大きな機械と、の漆黒のせいで、家は随分と壊れてしまった。

「……、なん、で……」

外から吹き込んだ冷たい風が、涙の伝う頬を撫でる。

「どうして……ッ、おかあさん!!」



――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん、たすけて――



「ぁ、……ぁあ……っ」



ごめんね
君を守る方法を、知って、いたのに
ごめんね
お母さん、お父さん
僕が、駄目だったから
だから僕を、責めに来たんだ
そう、なんだよね
分かってる、そうなんだよね
ごめんね
これは罰だ
みんな、僕のせいなんだ
だから誰も悪くない、悪い筈がない
ごめんね

、ごめんね
呼ばれた声に、応えてもやれなかった
手さえ伸ばしてあげられなかった
ごめんね、ごめんね、
……ごめんね
僕が壊した、僕の「世界」

「――――ッ!!」









空を埋めるのは、夕焼け。
さっきまで、二人で、見つめていたのに。

――僕は、どうして
――僕は、どうしたら

転びそうになりながら、漆黒を握り締めて、は走る。

――神様

十字の建物へ、ただ、ひた走る。

――神様
――神様、

教会には、全ての村人が居る。
椅子が並び、その先には夕焼けを映す大きな窓。
それを背にした、大きな十字架。
神の鎮座するその場所へ、はただ、走る。
神様、僕は「世界」を守れませんでした。
母の言いつけを破りました。
きっと、父を失望させたでしょう。
妹に触れようと、手を伸ばすことも出来ませんでした。
四人が、いいえ、家族が愛した大切な場所で、僕は何てことを。
神様、神様神様、僕を、どうか僕を、僕、

「っ、はあっ、はっ、はぁっ」

崩れそうな膝。
焼き切れそうな喉。
壊れたように息をして、取っ手を握る。

「はっ、はあっ、っ、は、」



荒れた呼吸を止めたのは、劈く悲鳴と、地鳴りのような轟音。



どちらも、教会の中からは聞こえる筈の無い音で。
涙も枯れた目に、またも水の膜が張る。
あの大きな機械が、脳裏に蘇る、その時。
ぞわり、と。
まるで舌で背中を舐められたように。
ざわり、と。
自分の周りを取り囲む、空気の存在を感じた。

「――あ、」

風の動きが、空気の動きが、手に取るように分かる。
今、駅舎の看板が揺れた。
トーマスの家の前にある木が揺れた。
村長さんの家のベルが揺れた。
お店の看板が揺れた。
再び、轟音。
制御出来ない涙が、頬に零れる。

「あ……ぁ……っ」

――ああ、どうしよう

教会の中の様子が、分かってしまった。



それでも。
感じた全てを、嘘だと信じたくて。
扉を、押した。









目に飛び込んできたのは、橙色の光。









轟音が響く。
ビシャ、
錆びた臭い。
顔へ掛かった飛沫を、茫然と触れる。
見なくとも分かった、
温かな液体と、柔らかな欠片の感触。
視界を染め上げる、橙。
壁が崩れていく。
黄昏の中に唯一聳えるのは、十字架。
それ以外の何も、無い。
見える筈の、長椅子も。
そこに腰掛けている筈のアンナも、村人達も。
祭壇の前に立っている筈の、村長の姿も。
脇に控える筈の、聖歌隊の姿も。
何も、無いなんて。

「……ぁ、……や、だ……」

どこ、だなんて。
どこ、だなんて、はもう、聞けない。
視線を下げたくない。
必死に天井があった筈の場所を見上げる。
けれど、ここはの「空気」の領域。

「やだ……っ、やだ、ぁ……」

否応なく、感じてしまう。
空気は、言う。
何も無いよ、と。
君の知っているものはもう何も、無いよと告げる。
震えながら下ろした視線、視界に映るのはさっき見た、信じられないあの光景と同じ、

――広がる、服と砂の絨毯

「あレー」

間の抜けた声。
視界に、先程とは違う、大きな機械があった。

「まだ居ター」
「、っ!」

何を思うでもなく、ただ反射的に、腕を上げた。
漆黒の歯車の中に機械と十字架を捉える。
引き金を、引いた。
歯車に捕われた世界が、歪む。

「ギャアアアアアア!!」

耳が、頭がおかしくなりそう。
機械の断末魔。共に歯車に捕われてひしゃげ、砕け、跡形も無くなった十字架。
吹き抜けた風が砂を巻き上げ、轟きと共に全てを崩した。
そして、静寂に満たされたこの場所で。



ゴーン、ゴーン、ゴーン……
弔いの鐘が、鳴り響いた。



太陽が沈む。
血の赤に彩られた服の絨毯を、一番強い橙色が染め上げる。
頬に付いていた誰かの血液を、風が、撫でた。
アカと共に頬に触れた、あの、柔らかな欠片は。
弾けて飛んだ、



誰かの、――



「――ッ!!」

思わずその場に蹲った。
喉に競り上がってくる物を、口に手を宛てて押さえ込む。
強い風が吹く。
砂が、体中に降り掛かった。

――いやだ

キモチワルイなんて。
キモチワルイなんて、思いたくない。
アレは確かに、の大好きな「誰か」だったモノなのだ。

――いやだ

立ち上がり、よろけながら。
逃げるように教会を出る。
出た所で、座り込んだ。
体が震えて、震えて震えて、どうしようもなくて。
がたがたと視界まで揺れるほど震えて、もう、一歩も動けない。

――いやだ

キモチワルイだなんて、思いたくないのに。
唾と一緒に飲み込んだものは、酷く熱くて酸っぱくて、苦かった。

「……っ、ぁ」

――いやだ

この村に、何が起こっていたのだろう。

「や、……いや、……いやぁ、ああああっ、あ、あああ、」

夢なら、醒めて

「ああぁああああぁぁあああああああああッッ」









かみさま
ぼくの世界を、かえして









まもるべきものが、もう、どこにもない









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