燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









蓋を開けないで
手を、伸ばさないで
行かないよ
希望が詰まった世界の中に
僕の光は残されていないから



Night.44 壁を震わせる声









盾が溶けた。
瞬時に新しい盾が生まれ、彼とラビ達の間を遮る。
後ろから、乱暴に肩を掴まれた。

「ラビ! 何で止めてくれないんですか!」

アレンが叫ぶ。

「お兄ちゃん待って! ダメ!」

リナリーが叫ぶ。
けれど頼もしい、しかし華奢な背中は、軽やかに遠ざかる。

「出してください、兄さんっ! 僕が行きます!」

降ってくる雹を避けながら、が火炎弾を放つ。
ミザンの哄笑。

「貴方を見ていると、苛々するっ」

紡がれる言葉は表情とは全く裏腹で、激しい憎しみが滲み出ている。

「随分、理不尽な言い分だな」

ハッ、と小さく息を継ぎながら、が苦笑した。
けれど彼の瞳も、穏やかなその表情とは全く噛み合っていなくて。

「理不尽で結構。しかし、……ふふっ、貴方もおかしな人ですねぇ」

ミザンが懐に手を入れる。
雹に混じって飛び交うメス。
防ぎ切れないのだろう、の体に新しい傷が幾つも付けられた。

「こんな玩具達に、情けを掛けるとは……」

が、腕と銃身で雹を薙ぎ払う。
一歩下がって、両手で銃を構えた。
轟音が二発、二ヶ所に弾幕が下り、床を丸く窪ませる。
埃の向こうから飛来した氷柱を、黄金が避ける。
晴れた視界の中で、傷ひとつ無いままのミザンが笑った。

「ねぇ、カミサマ。それは本当に守る必要があるモノなんですか?」
「『玩具』とか、『モノ』とか言うの、やめろよ」

が福音を構え、引鉄を引いた。
ミザンの真横の壁が爆発し、その破片が敵の頬を掠める。

「それに、これは情けでも何でもない。俺のエゴだ」
「おや、それは失礼」

不意にミザンが笑みを消した。
に向かって飛んできた一本の氷柱が、何もしないうちに溶けた。
払い除けようとしていた彼の左腕を、水が濡らす。
パチン、と。
指を鳴らす音がした。

「五」
「っ!」
?」

彼が息を飲む。
何が起こったのか、ラビは咄嗟に、把握出来なかった。

「四」
「っ、ぅあ……!」

が福音を落とし、左の腕を押さえた。
その肘から先が、無い。

「三」

否、包帯のように解けた「腕」が、押さえた先にぶら下がっている。
リナリーの言葉にならない悲鳴が耳を抉る。

「二」
「兄さん! 兄さんっ!」

アレンが帳に縋りついた。
左腕から止めどなく溢れる漆黒が、盾の外側に上塗りされていく。

「一」
! 出せ!!」

堪らず、ラビは怒鳴った。
ミザンが歌うように、最後の言葉を口にする。

「零」

そのカウントと共に、するるる、と彼の腕が見る間に「巻き戻る」。
もとの形に収まった左腕を見つめ、が荒く息をついて膝を落とす。
最初の一度だけで呻きを飲み込んだ彼が、喘ぐように呼吸をしていた。
信じられないというように、何度も手を握り、開いている。
それを見下ろして、ミザンが心底嬉しそうに笑った。

「貴方の世界を『恐怖』の一点で停めてあげましょうか、カミサマ。ほら」

ミザンが投げた雹が溶け、の右肩に降りかかる。
再び、指を鳴らす音。

「五」

カウントが始まる。
濡れた部分が、包帯のように解けた。

「――ッ!!」
「四」

浮き上がる血液。
今度は肘の先が原型を残している。

「三」

体を固く縮めたを、そしてラビ達を守る帳を狙い、氷柱が浮かぶ。

「二」
様!」

チャオジーが涙の混じった声で叫んだ。
その声に突き動かされるように、が、解けた右腕を乱暴に蹴って振り払った。

「一」

落とした福音を左手で拾い上げ、瞬時に構えを取る。
歯車が回る音が、ここまで聞こえる。
を狙った氷柱は、全て撃ち落とされた。
残りは盾にぶつかり、砕け散る。

「零。なかなかにお見事ですね」
「……、っ、なめんな」

アレン達のように気遣う声を上げることもできず、彼を見つめて、ラビは唇を噛んだ。
先に、進まなければ。
このまま留まり続けることは、彼の負担にしかならないのに。
残された時間も減っていくのに。
それなのに、踏み切れない。

「(早く、行かなきゃ、いけねぇのに)」

白銀の背後に無数の氷柱が生まれる。
黄金が構える銃からは絶え間なく弾が飛ぶ。
襲い掛かる氷柱の半数が撃ち落とされ、残る半数は帳に当たり、砕けた。

「ひ……っ!」

チャオジーが息を飲み、アレンに詰め寄る。

「何とかならないんスか? 様を置いていくなんて……!」
「僕だって、そんなこと出来ません!」
「ほら、聞こえます? 貴方に助けられていることを、彼らは理解しようともしない。
どうです、報われないでしょう? 悔しいでしょう?」

傷が増える度に、漆黒が舞い上がる。

「此処では取り縋っているけれど、彼らはいずれ恩も忘れて、」
「いいんだよ、それで」

短い呼吸を繰り返し、が顔を上げて笑った。
歯車が回る。

「誰も恩なんか売ってない。回転!」

降り注ぐ雹とメスを、第二開放の威力で連射弾が追った。
ミザンが手を延べる。

「充分な恩義だと思いますけどねぇ。今なら私が、全部壊して差し上げますよ?」

ノアの唇が、瞳が、三日月を描く。
それに合わせて、氷柱が形成され、ラビ達に向けられる。
空気がぴしりと強張った。
が拳を握る。
溢れ出す血が輝き、「帳」へと幾重にも上塗りされていく。

「おや、私を憎みますか? 仮にも『赦しのカミサマ』が? フ、ハハハハ! まさか!
さあ、私を赦して御覧なさい! 神を騙るというのなら、それくらい造作も無いのでしょう?」

延べられた手が、真っ直ぐに盾を指差した。
が肩越しに振り返る。

「っ、ラビ!!」

怒声のような、彼の声。
その体目掛けて、氷柱が動いた。
ラビはハッとしてチャオジーを引っ張った。
迷っている場合じゃない。
俺は、彼から仲間を預かったのだから。

「えっ!?」

咄嗟の事で戸惑う彼を左手で、右手でリナリーの背を押す。

「ラビ!? どうして!」
「いいから早く行くさ!」
「何馬鹿なこと言ってるんですか! 兄さんを、」
「オレらが居たらいけないんさ!」

自分達が此処に居れば、彼は決して「帳」を解かないだろう。
それは長引けば長引くほど、彼に負担を掛けてしまう。
第一、此処に「帳」を張るということは、彼は武器の一つを封じるということなのだ。
怒鳴ってから、一度大きく息を吐いて、ラビは顔を上げた。

「――っ、火炎弾!」

刺さった氷柱を引き抜いて、が再び引き金を引く。

「福音一つでも、は強い。でも、オレ達が行けば、あいつはもう一つ武器を使える」

分かるだろ、とラビは笑ってみせた。

「大丈夫、すぐ追い付くさ。だってだぜ、……信じられるだろ?」

下りる沈黙。
チャオジーはそれでもまだ納得できない表情をしている。
時間が惜しい。
問答無用で二人を扉に押し込もうとしたとき、リナリーが意を決したように頷いた。

「行きましょう、チャオジー」
「リナリーさん……」
「お兄ちゃんのことを信じられないなら、……私達は、他の何も信じられないわ」

彼女はちら、と帳の向こうを振り返り、チャオジーの手を引いて、本棚の隙間に飛び込んだ。
やり取りは聞こえていただろうが、彼はこちらを振り向かない。
ミザンがニタリと嗤う。

「ああ、本当に……人間は罪深い! 可哀相な人ですねぇ、貴方!」
「何がだよ。俺が、そうしろって言ったんだ!」

荒々しく投げられた声。
盾に背を凭れ、が襟元を少し開けた。
上下する、肩。
アレンがそれを見つめ、大きく深呼吸した。

「……先に、行きます、兄さん」
「ああ。二人を頼むな」
「はいっ」

勢い込んで返事をして、アレンが隙間に身を踊らせた。
ラビは間髪入れずに、扉へ足を掛けた。
方舟の崩壊は進んでいる。
もう二度と、合流出来ないかもしれない。
これは、教団から神を奪う決断だったのかもしれない。
けれどそんな不安も、きっと彼なら取り除いてくれると。
最後にもう一度信じたくて、ラビは大声で言った。

「ちんたらしてんなよ! !」

が左手を上げる。
盾が消え、玉となって宙に散った。
横顔には、強い笑みが浮かんでいた。

「当たり前だろ」









生きているモノを、逃してしまった。



ミザンは歯軋りして、しかしそれを気取られぬように顎を上げて金色を見下ろした。
あの、黒い壁が邪魔だった。
何度も水で濡らしてやった筈なのに、あの炎の蛇とも、白いマントとも違う。
一向にミザンの能力に屈しようとしない。

「(これが、イノセンス)」

なんと忌々しい。
これが伯爵様を苦しめているのかと、ますます憎らしくなってくる。
金色が、動いた。
向けられる銃口、ミザンは足場の氷を溶かして逃れる、放たれた技。
先程までミザンがいた場所に、またも大きな窪みが出来ている。
あの技に捕まったら、一巻の終わりだ。

「(捕まれば、伯爵様への忠義を尽くせない)」

宙にある水の時間と温度を止めて、数えきれない氷を、そして懐から取り出したメスを構える。
つい先程までは人間達を苦しめたその技が、今度はいとも簡単に阻まれた。
あの金色の周りで、黒い血液が無数に飛び交っている。

「磔!」

金色が唱え、液体が釘のように形を変えた。
向かってくるそれを氷で撃ち落とすと、間隙を縫って銃弾が襲い掛かる。

「……金、色はっ」

――裏切られる

「金色は、ダメだ」

呪いのように、その思いが頭を巡る。
ぐるぐるぐるぐる、あの金色が目に入る度に。

――裏切られる
――裏切られる
――あれは、裏切りの、色

「何がカミサマだ、悪魔め!」
「呼びたいように呼べばいい!」

球体になった血液が、ミザンの手を捕らえる。

「牢獄!」

が手を握り、払えば、ミザンの手首から先がひしゃげ、潰れた。

「き、さま……!」

部屋中の水分から雹を生み、四方からを狙う。
ミザンは足場を蹴った。
ひしゃげた手に氷を纏わせ、鋭く短い剣を作り上げる。
黒い釘と銃弾で応戦する黄金を目掛けて、切りかかった。

「っ!」

が銃で剣を防いだ。
防戦の傍ら、釘がミザンを狙う。
それを雹にぶつけ、ミザンは一筋、の肩に傷をつけた。

「殺し尽くしてやる!」

二度と立ち上がれないほど、二度と口を利けないほど。
二度と目を開こうとも思わないほど、二度と息をしたいとも思えないほどに。
二度と、生きていたいと思えないほどに。
心まで壊して、切り開いてくれる。

「……私の、能力は、『存在した世界の停止』。貴方が最も愛する『世界』へ、連れていってあげますよ」
「何を……っ」
「存分に楽しませてあげましょう、そしてそのまま、其処で果てればいい!」

あの金色の世界を、止めてやる。
あの中に、世界が存在した証があるのなら。
隈無く切り開いて、奥底に潜む世界を引っ張り出してやる。
ミザンは、潰れた手を掲げた。

「愛情の深さと、喪失の痛みは比例する」

氷の板が六角柱に組み合わさって、檻を形作る。
息を乱して宙を仰いだ黄金を取り囲むように、その檻を落とした。

「幸せでしょう? もう戻らない者達を、もう一度目にすることが出来るなんて」

ミザンは檻の中を見つめながら、本棚に寄りかかる。
檻の中から、此方は見えない。
氷に触れて状況を掴もうとしていたが、突然顔色を変え、後退って首を振った。

「死にたいでしょう? カミサマ。それが、もう戻らないモノだからこそ」

無駄だ、何処を見回しても出口はない。
その人の負の情念が、最も色濃く残る過去の一場面を、永遠に繰り返す鏡の檻。
持っていた刃物で、首を切り裂いた者もいた。
何も持たず、氷に頭を打ち付けて死んだ者もいた。
狂ったように笑い続けた者もいた。
思いが強い者ほど、檻の中で自死すら図れず壊れていった。

――貴方は、一体どのようにして、壊れるのでしょうね

やめて、やめてやめて! やめてくれ!!
叫ぶ声が聞こえる。
否、それはほんの一瞬前のことだ。
既に叫びは絶叫に変わり、明確な言葉を持ち合わせないまま、氷の壁を震わせた。

「……当然の、報いだ」









突如降ってきた、氷の檻。
その中では、軽く息を整えた。
何があるか、分からない。
分からないまま、敵の能力の直中に置かれてしまった。
胸の痛みを気にしている場合ではない。
冷たい壁に、手を触れる。
確かに氷の感触、けれど、向こう側は見えない。
まるで鏡のように、六枚あるすべての壁が、天井と床が、を映している。

「(これは……)」

どのようにして破れば良いのだろう、そう考えを巡らせた矢先。
映る自分の姿が、歪んだ。
何が起こるのか、身構えた体が、そのまま固まった。
見覚えのある、居間。
見覚えのある、老婆の後ろ姿。
扉。
聞き覚えのある、はしゃぎ声。

ー。お絵かきやめて、早くおいでー」

言った覚えのある、言葉。

「おばあちゃん行っちゃうよー」
「待って待って、待ってー!」

は、ふらふらと後退った。
壁に背がぶつかる。
呼吸が早まる。

「……や、めて、」

目を閉じても、開けても、風景が変わらない。
知っている。
知りすぎるくらいにこの先を知っている。
だってこれは毎晩毎晩、毎晩見る夢の、始まりの部分だ。
いつもと違うのは、今見ている「夢」は、飛び起きても終わらないということ。

「やめて、やめてやめて! やめてくれ!!」

いってらっしゃい、おばあちゃん。
何も知らない自分が、言う。

「や、ぁああっ、いや、嫌だ、ああ、」

、いい子にしてるー。
何も知らない妹が、笑う。
ずっと、夢は途中で捩じ切ってきたのに。
嫌だ、見たくない、思い出したくない。
恐い、恐い恐い、この先を見てはいけない、見なくてはならない、忘れてはいけない。

「いやっ、いや、ぁあ……、はっ、あ、ああぁぁあ、」

覚えている。
何があったか、色も、匂いも、音も感触も、飲み込んだ唾の味さえも、全部覚えている。
覚えている。
忘れられない罪を、突きつけられる。

「っ、うあぁぁ、あああっ、あ、あぁああああああ!!」









どれだけ声を迸らせても。
橙色の記憶は、消えない。









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