燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









ならば、僕は外側から
君達をその箱に閉じ込めよう



Night.43 神の名を問う









むっとした、噎せ返るような錆の臭いに包まれた。
と、思った瞬間、体が床に叩き付けられる。

「い……ってぇ……!」

思わず呻いたラビの腕の中で、リナリーが顔を上げた。

「ご、ごめん、ラビ」
「あーうん、平気平気」
「わっ、ラビさん!」

チャオジーの叫びに顔を上げると、本棚の隙間から黒い塊が飛んでくる。
慌てて身を引いた瞬間、金と白、その後を追う傘を目にして、あ、と声を上げた。

!」
「アレンくん!」

直前のラビ達と同じような格好で、二人が床に打ち付けられる。
の腕の中から、アレンが素早く身を起こした。

「兄さん、すみませんっ」

咳き込んでいた彼が、アレンの手を借りて立ち上がる。

「ん、大丈夫。皆いるか?」
「うん」

リナリーが頷きながら、怪訝な顔で辺りを見回した。

「この部屋、何だろう……」
「う、えぇっ」

混乱していた先程までと異なり、少し落ち着いてきたからだろう。
錆のような、鉄のような、ひどい臭いが鼻につく。
溜め息の反動で思いきり息を吸い、チャオジーがえずいた。
ラビやアレンとて、顔を顰めずにはいられない。

「見た目は……医務室、みたいですね」

アレンが呟く。
見渡した部屋の中は、先程の部屋と同様、壁中が本で埋め尽くされている。
しかし床には、永久に消えることの無さそうな黒い染みが散らばっていた。
漂う臭気を思えば、その染みの成分は知れる。
長机のような台には、未だ乾いていない赤黒い液体。
そして部屋の至るところに、薄氷。
が重い音を立て、福音を携える。

「(そうだ、まだ方舟を出た訳じゃないんさ)」

状況はまだ飲み込めていないが、脅威が去っていないことを思い出す。
部屋の中に、「扉」は見当たらない。
ならば、本棚の隙間。
あそこから外に出れば、またもとの階段に戻れるだろう。
恐らくはあの階段の繋がる先が、「ゲーム」の正しいルートだ。

、あそこ……」

ラビは呼び掛けて、言葉を止めた。
引き結んだ彼の唇が、蒼い。
一瞬、手を伸ばすことを躊躇った。
自分を鼓舞しながら、の背に触れる。

「どうした? 

見た目では分からないほど小さく、体が震えている。
彼は表情を曇らせ、呟くように言った。

「……寒い」

ラビは唾を飲み込むだけの間を置いて、頷いた。

「俺もさっきから息が真っ白さ。ほら」

が此方へ目を向け、微かに笑う。

「そうだな」

きっと彼の寒さの原因は、部屋の温度だけではない。
前の部屋での傷も、何より江戸での戦いが未だ、尾を引いているのだろう。
此処に至る階段でも、先を行くはずっと肩で息をしていた。
階段を上ることに専念していたリナリーも、出会って間もないチャオジーも気付いていない。
アレンも話し続けていた様子を見ると、恐らく、気付いていないのだろう。
けれど、ラビの目は誤魔化せない。
嫌な予感を振り払いたくて、方舟に入ってから此処まで、ずっと見ないふりをしていた。
神田の肩を借りて、出口を探していた時も。
彼が手を重ねるのを躊躇したように見えたあの時も。
神田と別れた時も、磔にされた時も、「はまだ大丈夫」と、信じたかった。
そして彼も、そう信じさせてくれていた。
筈だった。

「(早く、此処から出ねェと)」

いい加減に、無理も度が過ぎている。
しかし未だ休ませる余裕も、立ち止まる時間もない。
歯痒い思いを内に閉じ込めて、努めて明るく、ラビは彼の肩を叩いた。

「誰も居ないみたいさね、戻ろーぜ」

自身も槌を番えながら、皆を促す。
最中、その言葉に被せて、小さな声が聞こえた。

「……はやく、出るレロ」

がレロを見上げた。

「レロ?」

傘がアレンと神田に武器を向けられた時と同じくらい青ざめて、縮こまっている。

「早く……っ、ここは……!」

言い澱む声を背景に、一歩踏み出した時、目の前を氷の蝶が横切った。
室温が下がる。
部屋中の氷が軋む。

「ラビ!」

の怒声。
後ろから強く腕を引かれる。
床に、銀色のメスが深く突き刺さっている。









「あの双子も、なかなか間が抜けていますよねぇ」









驚きも動悸も治まらない内に、突然聞こえた声。
槌を構える。
横ではアレンが構えをとり、が福音を発動させていた。
声の元を辿る。
あの本棚の隙間から、江戸でを狙った、あの白衣の男が入ってきた。
氷が音を立てて、彼のための足場を作る。
その上を悠々と歩いて、男は立て掛けられた梯子の上に座った。
長い銀の髪へと、蝶が還っていく。

「折角の遊びの機会をふいにして、」

瞬時に色を変える肌。
額に浮かぶ聖痕。
金色に輝く、冷めきった瞳。
男は愛しげに、白いタイを留める蝶の飾りピンを撫でた。
その背後に浮かぶ、幾つもの氷柱。

「こんなに多くの生き物を、壊し損ねるとは」

氷柱が飛び出す。
鋭い切っ先全てが、チャオジーを狙っている。
反射的に、ラビは判を呼び出した。

「火判!」

炎の大蛇が、氷柱を飲み込む。
そのままノアを飲み込もうと口を開けた大蛇は、しかし、腕の一振りで凍り付いた。

「っ!」

同時に放たれた氷柱が、執拗に此方を狙っている。
ラビの隣で、福音が火を吹いた。
一つの爆発が、複数の氷柱を巻き込んで、溶かす。
ラビはそこに紛れ込んだいくつもの銀のメスを、横から凪ぎ払った。
アレンが後ろで二人を守りながら、道化ノ帯を伸ばす。
降り注ぐメスが、それをいとも容易く切り裂いた。

「そう焦らずとも。物事には何事も、順番があるでしょう?」

ノアが薄い笑みを浮かべて、手に持つメスでチャオジーを指し示した。

「まずは、分を弁えずに足を踏み入れた者を」

銀色の切っ先がラビに移る。

「次に、偽りの神を作り、崇め続ける者共を。そして」

ぴっ、と指先でまっすぐに投げられたメスを、が福音で弾いた。

「自らを神と偽る、傲慢で自惚れたそこのニンゲンを」

恍惚ともとれる笑みを浮かべて、ノアが両腕を掲げる。

「一人ずつ、存分に弄んで殺して差し上げますよ。
嬉しいでしょう? 生という穢れを棄てられる、まさに絶好の機会ですね」
「み、ミザぴょん」
「(ああ、……『ミザン』さ)」

確か、ティキがそう呼んでいた。
放っておけばどこまでも喋り続けそうな「ミザン」へと、レロが恐る恐る声を掛けた。

「おや、レロではありませんか」

ミザンの表情がころりと変わった。
笑顔の中にも冷酷さを湛えていた瞳が、温かな色を纏う。
慈しむような眼差しで、チャオジーの背に隠れたレロを見遣った。

「ああなるほど、伯爵様のおつかい中でしたね」
「そ、そうレロ。ミザぴょんは……ミザぴょんも、ティッキー達と一緒に遊んでるレロか?」
「ロードと、です。それに私は、決して遊んでいる訳ではないのですよ」

優しげな微笑みが、再び狂気を孕む。
剥き出しの刃にも似たぎらついた瞳が、ぐるりと場を見渡した。
歓喜と嫌悪を纏って濡れた舌に背を嘗め上げられるような、酷い悪寒がラビ達を包む。

「私の全ては伯爵様の為にあるのです。
遊びなんて生易しい言葉で貶められては困ります、レロ。宜しいですか?」

ミザンがうっとりと頬を緩ませた。

「天地創造の神とは、ただの概念です。七日で世界を創った? ふふ、それは不勉強な人間の妄想ですよ。
イノセンスは『神の結晶』……なるほど? 許容はしませんが、まぁ理解してあげても良いでしょう。
伯爵様に仇なす矮小で分不相応な者達が、自らを奮い立たせる呪文として、ね」

室温がまたいっそう冷え込む。
壁じゅうに張り巡らされた薄氷が、軋んで音を立てる。

「そして、赦しを導く『教団の神』。傑作だ、人間が人間を赦すなど、出来る筈がないのです。
人間ほど愚かで罪深い者もいなければ、人間が人間を棄てきれる訳もないのですから」

氷柱が、メスが、またもノアの背後に浮かび上がる。
三度目だ。

「この世の神は、千年伯爵様、ただ一人。私はあの方の憂いを払う、その為に在る。だから、」

降り注ぐ凶器。
風を切る音に紛れて、呪いのような声が聞こえた。

「死ね」

繰り返されるこの攻撃を、躱すだけで精一杯なのも事実だ。
一本一本が錐のように尖っている上に、数を把握しきれない。
向かってくるものを打ち壊し、撃ち壊す。
埒が明かない、そう思った時に、アレンがリナリー達の元を離れて飛び出した。

「十字架ノ墓!」

ノアを目掛けて攻撃を放つ。
浮かぶ十字のマーク。
けれど崩れた本棚の横、宙に氷を浮かべた足場に、ミザンは未だ立っている。

「分かりませんか、愚図が。生きているモノに用は無いと、言っているのです」

ラビは槌を振るい、大蛇を放った。
襲い掛かる無数の氷柱から、アレンが自分の身を守る。
宙に燃え上がる蛇の向こうで、ミザンがにた、と笑った。
が瞬時に振り返る。
彼の体が、否、乾ききらない血が輝く。
ラビは叫んだ。

「待て、!」

制止は無駄だった。
リナリーとチャオジーの背後に聳える、半透明の黒い盾。
盾が氷柱を破壊する、耳障りな音が聞こえる。
背後からの攻撃を防ぎ、壊して、彼は此方に向き直った。
帳が液体に戻り、粒となって宙を漂う。
がノアを睨み上げる。

「……要は、俺が気に食わないんだろ」

彼の低い呟き。
前の部屋で負った傷から、次々に漆黒が浮かび上がった。
その血がゆらりと纏う輝きは陽炎のようで、彼の感情の昂りを如実に示している。

「だったらぐだぐだ言ってないで、俺だけ殺せばいいじゃないか」
、待てって!」
「っ、兄さん!」

ラビとアレンの声を無視して、彼は進み出て声を投げた。
ミザンはク、と喉の奥で笑って、肩を揺らす。
やがて天井を仰ぎ、哄笑を響かせた。

「ハハハハハ! そうですよ、貴方を殺すことが出来ればそれでいい。
貴方のことは思う存分いたぶってやりますよ、勿論、それが道理でしょう? 神を騙る愚か者」

すらすらと、澱みなく。
ミザンは嗤う。

「けれど、その前を妨げる玩具達は、きちんと『お片付け』しなければ」

書棚に寄り掛かり、血塗れた白衣の裾を軽く揺らした。

「私は『裏切り』のノア、ミザン・デスベッド」

ミザンの口元が歪む。
きん、と空気が冷え込んだ。
空中に無数の雹(ひょう)が生まれる。

「さぁ、カミサマ。貴方の世界にお別れを」

瞬間、ラビの目の前に黒の盾が聳え立った。
急降下して一時に襲い掛かる氷の礫は、「帳」をぴくりとも動かさない。
空気が引き絞られる。
黄金から放たれるのは、殺気に似た怒気。
裏切りのノアにも劣らない、凍り付くような視線。

「ふざけるなよ。お前には、誰も触らせない」
「おや、怖い怖い」

打って変わって、毅然とした声が場を渡る。
福音の歯車を回し、彼はラビを仲間の方へと押し遣った。

「先に行ってて」

が真っ直ぐ前を見据える。

「俺が残るから」
「ッ、馬鹿言うな!」

彼の手首を掴み、強引に振り返らせた。

「何考えてんさ! 置いていける訳ねェだろ!」
「じゃあ、此処で全員、足止め食らうのか?」
「それは……」

三人に動揺を与えないよう抑えられた静かな声が、余計にラビを焚き付ける。
彼の言いたい事はよく分かる。
理解している。

「……、だけどっ!」

彼が離れたら、チャオジーの士気が落ちるのは目に見えている。
リナリーの不安を煽る事も。
兄の制止が無いために、アレンが必要以上に向こう見ずになるだろうことも目に見えている。
何よりも彼自身が、どれほどの消耗を強いられるだろう。
最も付き合いの長い神田が、あそこまで注意深く気遣っていたのだ。
今だって、この一瞬だって、「聖典」に蝕まれているというのに。

「先に方舟を出て、元帥でも連れてさ。ユウとクロウリーを助けに来てくれよ」

がラビの手をそっと外した。
盾越しにミザンと対峙する。
銀色を再び冷たい目で見上げ、けれど穏やかな声音のまま、言った。

「頼りにしてるぜ、ラビ」

漆黒の盾に片手をついて、彼が肩越しに振り返る。
内も外も傷だらけのその状況で何故、と。
そう、ラビが戸惑う程に。
はいつもの微笑とは違う、華やかな笑顔を浮かべた。

「俺は大丈夫。追いかけるよ」

ティキの誘いに乗るときも、今もそうだ。
余すことなく願いを叶えようとする君が、その一端をしがないこの身に預けると言う。
それが。

「(心配、してる筈なのに)」

それがこんなにも、嬉しいなんて。
ラビは拳と槌の柄を握り締め、精一杯の非難を込めて、呟いた。

「――っ、卑怯さ、は」









   BACK      NEXT      MAIN



130312