燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
神が与え給うた箱を
ある人が、開けた時
災厄が飛び散り
希望だけが残った
Night.42 彼に出会う日
兄弟子が瞳に浮かべた途方もない憤怒は、彼が自分自身を罰する為のものに思えて。
嗚呼、この人でもこんな表情をすることがあるのか、とアレンの迷いを消した。
仲間を信じて、時には運命に身を任せなければならない瞬間もあるのだ。
理不尽の全てを覆すことは、神の領分。
彼は願いの体現者で、けれど「教団の神」は全知全能ではない。
いくら優しい兄弟子で、偉大なエクソシストであったとしても。
・は人間なのだと、今、やっと身に染みた。
中国にて。
イノセンスを破壊され、窮地のアレンを保護してくれたのは、黒の教団アジア支部だった。
地下に広がる巨大な支部の一室。
アジア支部長バク・チャンが、蕁麻疹のために布団に寝かされていた。
寄生型と装備型の違いを教えてくれた彼が、濡れタオルをずらして笑う。
「まぁ、これも全て、キミの兄弟子の受け売りなんだが」
「兄さんの?」
「ああ。いつだったか、話してくれたことがあってな」
「そうなんだ……」
彼の教えほど分かりやすく的確なものは無い。
アレンはぐっと右手を握った。
出来るかもしれない。
消えかけた希望が、蘇る。
「……安心したか?」
「え?」
「あいつのことを言った途端に、キミが微笑ったものだから」
肩を竦めてバクが苦笑する。
アレンは頬を掻いた。
「いやぁ、あはは……心強いなって思って」
補佐役のサモ・ハン・ウォンが、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「分かります。我々もそうして、彼の言葉に救われてきましたので」
「兄さんは、よく此処に来るんですか?」
「ええ。年に何度か、立ち寄って下さいますよ」
ウォンは頷き、僅かに首を傾ける。
「支部には、エクソシストが常駐している訳ではありません。
けれど噂だけはいくらでも届きます。良いものも、悪いものであっても」
バクがふいと顔を逸らした。
濡れタオルで目を隠す。
その仕草すら優しい目で見守って、ウォンが噛み締めるように言った。
「また来る、の一言だけで、我らはこの場所で、安心して居られるんです」
本部から遠く離れたこのアジアの地でさえ、言葉ひとつで、は誰かを救っている。
何だか誇らしく思えてついはにかんだアレンに、ぽつりとバクが呟いた。
「キミにとっても、は『神』なのか?」
ぱん、と風船を割られたように我に返る。
小さく唸って首を傾げ、アレンは答えた。
「……うーん、僕にとっては、修行の時の印象が強いので……」
思い返せば、アレンの頭には先に「兄弟子」としての印象があった。
「教団の神」に関する話は、後から聞いたのだ。
「何より、憧れの存在です。エクソシストとしても、人としても」
「……そうか」
「でも、『神様』っていうのもぴったりですよね。後で聞いて、凄く納得しましたもん」
そう言ってにこりと笑うと、バクが唇を引き結んだ。
もの言いたげに唇が動き、小さく開かれる。
「……似合いすぎたんだ、思った以上に」
「え?」
「最初にあいつを『神』と呼んだのは、ボクだ」
タオルを腕で押さえて、心底苦しそうに。
詰まるような声音で、バクは絞り出した。
「ボクがあいつに、押し付けた」
守り神から派生したアジア支部の番人、フォーが怒鳴る。
「ダメだダメだ!! 一旦休憩! お前、ちょっと頭冷やしてこい」
「っ、どうしてですか! まだやれます!」
「あたしがダメだっつったらダメだ!」
イノセンスを復活させるために、フォーとの激しい鍛錬を繰り返していた最中のこと。
早く仲間の元へ、と急くアレンへ、彼女は鋭く厳しい目を向けた。
「鏡見てみろよ。どんな顔してるか分かってんのか」
「どんなって……!」
「だから。頭冷やせって言ってんだ」
腕を鎌の形から元へ戻して、フォーが長く溜め息をついた。
腰に手をあて、俯いて、吐き捨てる。
「お前、何しに仲間のところに戻るつもりだよ。戻って何するつもりなんだ」
「そんなの、……そんなの、アクマやノアと戦って、仲間を守るに決まってます」
「本当か?」
イノセンスと同化できないからといって、そんな疑いを掛けられるのは理不尽だ。
アレンが思わず言い返そうとしたその先を、フォーが制した。
「あっちに合流して、それでまた、あいつに頼り切るだけじゃねぇのか」
あいつ――それが誰のことか、言われずとも伝わった。
アレンは言葉に詰まって、口を噤む。
「土壇場になったら甘えて、頼って、寄って集って、神だって。崇めるだけじゃないのかよ」
そんなことない! そう、怒鳴り返したい。
けれど、出来ない。
あの黄金を前にして、全てを委ねてしまうのではないか。
そう問われてしまえば、否定が出来ない。
胸の真ん中を串刺しにされたような、苦い気持ちで唇を噛む。
「まぁ所詮、ここの奴らもあたしも同じだ。だからお前も、理不尽に思うだろうけどさ」
少し語気を弱めて、フォーが言った。
悔恨の響きを纏って、静かな声が空気を渡る。
「それでも、敢えて言うぜ、ウォーカー。……頭を冷やして、よく考えろ」
朱色の苛烈に燃やして。
「もしもお前が、あいつの命を搾り取るつもりなら。何があろうが、向こうには遣れない」
低く、厳かに、フォーは言った。
「あたしが、やらない」
「僕も諦めてません。足掻いて足掻いて、絶対全部守ってやるって思ってます」
扉を振り返るリナリーの、頬を手で挟んで宥める。
にっと笑って、アレンは言った。
「いつも強いリナリーらしくないですよ。僕より、お姉さんでしょ?」
「オニーサン達も諦めてねーさ!」
「うわっ」
とチャオジーをぐいと引っ張り、ラビが二人を覗き込んだ。
「クロちゃんには、ちょめ助から貰った血の小瓶が三本ある。やる男だぜ、クロちゃんは!」
だから信じろよ、リナリー。
ラビは言う。
きっと強がりだ。
けれど朗らかな笑顔に、リナリーの表情も変わった。
が心底迷惑がった顔をして、ラビの腕を抜け出す。
もう、瞳に怒りの色はない。
否、隠されているだけなのかもしれない。
彼はリナリーを見つめ、微笑った。
「進もう。後ろで頑張る二人のためにも、俺達は退路を作っておかなくちゃ。だろ?」
「……うん」
穏やかに頷き返して彼は先を歩き始めた。
今度は廊下ではなく、暗闇に延々と階段が続いている。
ラビがリナリーの手を引いて、チャオジーと気紛れに話しながら上っていく。
アレンはとんとん、と階段を駆け上がり、の隣に並んだ。
「兄さん」
が、アレンを振り返る。
「僕、アジア支部で匿われてる間に、フォーと手合わせしました」
へぇ、と兄弟子は呟いた。
「どうだった?」
「どうもこうも……全っ然敵わなくて。
お前は本当にの弟弟子かー! って、怒鳴られっ放しでした」
アレンは苦笑する。
楽しそうに肩を揺らして、が笑った。
「強いからなぁ、フォーは。俺だって、引き分けが限度だよ」
「いやいや、引き分けまで持ち込めればいい方ですよ」
笑いながら、が遠くを見つめる。
「ウォンには……バクにも、会ったのか?」
アレンは頷いた。
支部の面々を思い出す。
支部員の優しさを思い出す度に、彼らが向ける「エクソシスト」への期待を。
「アレン・ウォーカー」への思いやりを。
そして「教団の神」と「・」への入り乱れる思いを、同時に思い出す。
「ウォンさんは怪我を診てくれて、」
は、彼らの思いを知っているのだろうか。
彼らを、恨んではいないだろうか。
否、祀り上げたのが誰であれ、崇め立てたのは誰でもない「みんな」だ。
「バクさんは、僕のイノセンスのこととか、凄く真剣に考えてくれました」
もしかして彼は、教団を恨んでいるのではないか。
ふとよぎる疑い。
視線が落ちる。
隣を歩く彼の視線が、アレンの首もとに注がれているのを感じる。
言い様のない不安に覆われたこの胸の内さえ、見透かすような視線。
アレンがごくりと唾を飲み込んだとき、空気が動いた。
勇気を出して目を上げる。
が、何の気負いもなく、ふわりと表情を崩した。
「いい奴ばっかりだっただろ」
彼と同じ歳の、普通の青年が浮かべるような。
神々しくも何ともない幸せな微笑みに。
「(言えるんだ)」
――呼吸が、止まった
「あそこ、落ち着くんだよな」
「(……この人は、言えるんだ)」
きっと、恨みも怒りも生まれないほど。
躊躇いもなく、行き過ぎるくらいに。
どこまでもまっすぐに「家族」を愛しているのだ。
神のように誰も彼もを眺めている訳では無いのだ。
愛しているのだ。
神と崇められてしまっても、ただ一心に家族だけを愛し続ける「人」なのだ。
「兄さんはさっき、『俺を神だと思うなら、願う権利がある』って言いましたよね」
階段を二段、上る度に大きく息をして、がアレンを見た。
「僕は、そうは思いません」
アレンは漆黒を見つめ返す。
「……でも一つだけ、願っていいですか?」
「ん?」
向けられる優しい微笑み。
果てまで突き詰めた愛情に、泣きたくなる。
けれど飲み込んで。
堪えて。
「もう一度、アジア支部に行きたいです。今度は、兄さんと一緒に」
アレンは彼に、笑い掛けた。
「フォーに会って、本当に兄弟弟子なんだって、認めてもらわなきゃ」
兄弟子が僅かに目を瞠り、ほんの少し、唇を開いた。
そして沈黙のまま、は微笑った。
つい先程、円になり手を重ねた時と同じ、微笑みだった。
その笑みが、ふと消える。
アレンの心に燻る名残惜しさもすぐに消えた。
が上階を振り仰ぐ。
「……何の音だ?」
背後のラビも、リナリーも気付いたらしい。
チャオジーとレロが、不安そうにエクソシストを見回している。
「風、さ? ……いや、違う?」
ラビがを見上げ、がラビを見下ろした。
アレンはリナリーと顔を見合わせる。
レロがチャオジーの傍を離れ、の元へ飛んでくる。
音が近付く。
リナリーが声を上げた。
「あれは、扉?」
それらしき影が落ちてくる。
レロが戸惑ったように叫んだ。
「でも、ロートたまのいつもの扉じゃないレロ!」
後ろには、引けない。
進む決断も出来ず、立ち止まった一行の頭上、丁度階段を折り返した辺りで、扉は止まった。
重い音。
両開きのその扉が、開いた。
「……ッ!?」
髪も団服も揺らす、竜巻のような突風が吹き荒れた。
「何さ……コレ……ッ!!」
風は扉に吸い込まれていく。
腰を落として踏ん張らないと飛ばされてしまいそうな強風に、思わず目を細めた。
が此方に手を伸ばす。
押さえ込むように、首を抱き竦められた。
二人分の体重を以てしても、気を抜くと足が浮き上がりそうになる。
「きゃあっ!」
「リナリー!」
「リナリーさん!」
リナリーの悲鳴。
浮き上がった彼女に手を伸ばしたラビが、チャオジーが、竜巻に巻き込まれる。
アレンとは思わず顔を上げた。
重心が上へ向かう。
「ラビ! うわっ、あっ!」
「っ、アレン!」
兄弟子にしがみついた、と同時に、体があっという間に浮かび上がった。
扉に吸い込まれる。
目を瞑っているのに、世界が回る。
感覚としては、一瞬の出来事。
一瞬の後に、二人は床に叩き付けられた。
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