燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
もしも、自分が本当に
天上の存在であるならば
思うがままに現実を挿げ替えて
何度でも、何度だって
あの時をやり直すことが出来るのに
Night.40 纏わりつく
ぐい、と引かれる感覚に、寒気を覚えた。
振り返る間も無く、体に太い縄が巻き付く。
腕に、首に、肩に、胸に、腰に、脚にまで。
そして抵抗も出来ないまま、体が持ち上げられた。
「!?」
クロウリーの慌てた声が聞こえる。
「(大丈夫)」
自分に言い聞かせるように、は息をついた。
まだ何もされてはいないし、焦ったところでこの縄は解けそうにない。
叩き付けられた先は、見なくても分かる。
両腕を持ち上げられて、脚を一つに括られたこの格好は、どう考えても。
「『カミサマ』×『十字架』、ハリツケだよ! ヒヒッ」
耳許から、気配がする。
「オレ達のとっておきだぜ? ありがたく思えよ!」
言葉と共に、右の脇腹に何かが突き立てられた。
団服を破り、痛みが食い込む。
「……っ、ぐ……」
「!」
足許からラビとリナリーの悲鳴が、際立って聞こえた。
声を漏らせば、仲間が不安がる。
かといって、奥歯を噛み締めて堪えれば、今度は震えた体を太い縄が締め付けた。
けれど本来の刑罰の十字架ならば、もっと支えも少なく、酷い苦しみを味わう筈だ。
脇腹の傷も、抉られたという訳ではない。
ならば、まだ害がないと言うべきだろう。
福音も未だこの手にある。
「、待ってろ! あーもー、この目のペイント、全然とれねェさ!」
「なんでレロまで、なんでレロまでっ」
「あっ、オレの服で拭くなよ、敵めっ!」
「くそっ、面倒くさい敵だ!!」
ジャスデビの気配は、笑い声と共に離れた。
硬質な音がして、刺さっていた槍が自重で落ちたことを知る。
喉も押さえられて、声を張れないことが癪ではあるが、は取り敢えず苦笑した。
「迷惑かけて、ごめん」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
ラビが此方を仰いで、首を振る。
「いいんだ、落ち着けよ。俺は大丈夫だから」
「でも、お前、」
先程までと打って代わって、目に見えて狼狽する彼に、微笑みかけた。
「大丈夫。それよりラビ、鍵を早く」
落ち込むアレンの横で、リナリーが騙しメガネの構造に感付いている。
要はこの鍵の山の中に、たったひとつ、本物の鍵が交ざっているのだ。
騙している側の二人が見えないのは、あくまで副次的な効果なのだろう。
ラビが頷いた。
「……分かった、任せろ」
「お前らは出口に辿り着く前にここで全滅だぜ!」
室内を転々と動いていた気配が一ヶ所で止まった。
デビットの声が響く。
宙に浮かぶ、八つの火球。
「「死んでっちまえ!」」
「!! はち……っ」
火の玉が、五人とレロを目掛けて飛んでいく。
――聖典――
開放していない今、八つ全てを防ぎきることは出来ない。
けれど防ぐ術のない者を守るくらいなら、出来る。
脇腹の傷が火照る。
血が意思を持ち、滴り落ちる。
「(『帳』)」
リナリー、チャオジー、そしてレロを守れるようにと広げた漆黒の壁を、炎が舐めた。
「どわあっ!!」
反対側で、何とか火球を回避したラビが叫ぶ。
同じように炎を逃れたアレンが、此方を見上げた。
物言いたげな視線を寄越しながらも、弟弟子はきっ、と表情を引き締めて顔を背けた。
「この部屋のどこかにいるなら、引きずり出してやる! 爪ノ王輪!!」
アレンのイノセンスが、鞭のように部屋を蹂躙する。
は詰めていた息を細く吐き出した。
意識の外に追い遣った筈の、胸の痛みが蘇る。
内から、外から、締め付けられる圧迫感。
浮かぶ汗を拭うことは、出来ない。
乱れた呼吸だけ、何とかリズムを取り戻す。
不意に、クロウリーが此方を見上げた。
毅然とした、けれどどこか迷いのある目付き。
まさか、と思い至る。
「(……奴らの位置を、感じ取れるのか?)」
彼のイノセンスは肉体の能力を飛躍させる。
乗じて感覚が鋭敏に研ぎ澄まされたとしても、不思議ではない。
しかし本人にはまだ、自分の感覚に確たる自信が無いのだろう。
だからは、頷くように一度瞬いた。
クロウリーの瞳から、逡巡が消える。
彼が頷き返して、リナリーを制した。
隙なく周囲に目を走らせている。
「アレン、この『騙しメガネ』はオレが解いてやるさ」
それとは別に、ラビも動き出した。
次期ブックマンの記録の目をもってすれば、こんな鍵の山など造作もないはずだ。
クロウリー達を守れと言われ、アレンが頷く。
そして、を振り仰いだ。
「この場は僕が守ります、兄さん。だから聖典の発動を止めてください」
「(そういうことか)」
やっと先程の視線の意味を知る。
は一瞬躊躇って、そして力を抜いた。
漂っていた血の雫が、音を立てて床に落ちる。
本当なら、アレンはもっと先まで何もさせずに温存したかった。
こんな未知の敵でなく、せめて遭遇した経験があるというティキやロードと出会うまで。
けれど。
「(アジアで何を聞いてきたんだか)」
再会してからのアレンは、やたらと自分の事を気にしているように思えた。
が不甲斐ない姿ばかり見せていたのも、勿論理由の一つだろう。
どちらにしろ嬉しくはない。
きっとこのままではアレンもまた、喪った人々と同じ道を辿ってしまう。
だとしても。
弟弟子があれほど決意を滲ませて此方を見るのだ。
苦笑以外の何が出来るだろうか。
「……頼むな」
声を落とすと、アレンが決然と頷いた。
「はい!」
目を閉じると、痛みと動悸をありありと感じ取れる。
だからといって俯くと、今度は縄に喉と胸を絞められる。
結局、細く、長く長く息を吐き、感覚を紛らせるしか術がない。
「(糸を、切らすな)」
考え方を変えれば、そのお陰で今、意識は保たれていた。
此処を出るまでは、決して気を抜けない。
そういった意味で非常に助かる。
は眉根を寄せて、目を開けた。
レロが肩辺りの団服に顔を擦り付けて頻りに目を拭っている。
「災難だな、お前も」
声を掛けると、傘は大袈裟に体を震わせ、に顔を向けた。
「な、何レロ」
「ん? ほら、俺らと一緒に、攻撃されちゃって」
「全くレロ。全部お前達のせいレロ」
そうだな、と小さく返し、は続けて問う。
「なぁ、レロ。……お前一度、誰かと、俺達のこと、偵察してただろ」
「なっ!? 何で知って……ハッ」
図星である、と自ら露呈してしまったレロが、慌てて口を噤む。
しかしもう遅い。
余りにもあっさり、うっかり喋ってしまうものだから、はつい笑った。
「わわわ、笑うな!」
「ごめんごめん……ぷっ」
「笑うなレロォ!」
怒る様も面白い。
レロから視線を外し、気を落ち着けて、息をついた。
時間が経つほどに身を戒める力が増すように感じる。
恐らく、ノアの能力とは関係がない。
「(アレンが、気を使ってくれたんだから)」
発動は止めた。
だから、大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、再びゴーレムへ視線を戻した。
「あの時、誰と一緒に、居たんだ?」
「誰がお前なんかに! 絶対言わな、」
「俺は、『ロード』だったんじゃ、ないかなって、思ってるんだけど」
「……何で? 何で知ってるレロ……レロは教えてないのに……こいつ怖い……」
うんうん唸りながら、レロが自問自答する。
ティキ、ミザン、スキン、ジャスデビ。
あの時レロの傍にあった気配は、出会ったノアの誰とも違っていた。
彼らの仲間が何人いるのかは知らない。
名を知っていて、見たことのないノアが、残る『ロード』だっただけだ。
苦笑してそう呟けば、傘は顔を上げて捲し立てた。
「卑怯レロ! せめて知らないフリくらいしてくれたっていいレロ! 怒られるのはレロなのに!」
「ああ、そうか……ごめんな。『ロード』って、そんなに怖いんだ」
「怖くないレロ! 失礼な! ただ……ちょぉっと、たまーに意地悪な、だけで……」
「……だんだん、フェードアウト、してるけど?」
「きっ、聞き違いレロ!」
むきになって言い返すレロが、微笑ましい。
味方だったら、きっと仲良くなれるのに。
たとえゴーレムとはいえ、レロは敵だ。
馴れ合いそうになるが、敢えて心に一線を引く。
引いたその上で、真っ向から視線を向けた。
「レロ、教えてくれ」
「……何レロ」
声音の変化に気付いたのか、レロが殊更素っ気なく応じた。
「ミザン、って、どんな奴なんだ」
「仲間の情報は渡さないレロ」
「分かってるよ。……お前の印象で、いいからさ」
教えてくれないか。
問えば、レロはまた小さく唸って、首を傾げるような仕草をする。
「……優しい、レロ」
「優しい?」
「レロには、いっつも優しくしてくれる」
アレンとクロウリーが、ジャスデビを捕らえたらしい。
そちらを見つめて、レロが続けた。
「ミザぴょんは、生きてないものには優しいレロ。きっとお前は、信じないけど」
「信じるよ。折角、教えてくれたんだから」
嘘臭いレロ、と訝しげに呟き、傘はちらりとを振り返った。
「ミザぴょんの神様は、伯爵様だけレロ。……お前なんか、やられちゃえばいいんだ」
レロの言葉は、敵として正直すぎる。
正直で、尤もな言葉だ。変な清々しさを感じて、はふ、と微笑う。
「そうだな」
「……ちょっとは言い返したらどうレロ」
ぽそ、とレロが呟いた。
「リナリーさん!」
チャオジーの声。
視線の先で、リナリーが動いた。
はっと意識をそちらへ戻す。
「アレンくん! クロウリー!」
泥に飲み込まれたアレンとクロウリーの元へ、彼女が駆け出した。
「行くな! リナリー!」
出せる限りの大声で叫ぶ。
泥の中の二人にも聞こえたのか、アレンが続けるように叫んだ。
「来ちゃダメだ、リナリー!!」
リナリーが転ぶ。
イノセンスの影響を受けている脚が縺れたらしい。
「うごいて……動いて…っ、私の足でしょ…っ、動け!!」
自分の足を叩く彼女の動きが、不自然に止まった。
ふわりと浮き上がり、透明なボールに、包まれる。
「お姫さまゲーット!!」
一見何もない空間から響く声。
怒りよりも先に、視界が揺らぐような不安に襲われた。
「リナリー! ……っ、の、ヤロ……!」
いくら力を籠めて体を揺すっても、縄は解けず、繊維が切れる気配もない。
息苦しさだけが増していく。
いっそ、聖典を発動をさせてしまおうか。
否、まだ右手に、福音がある。
「『笑ってる』×『けど』×『実はすっげー怒ってる時の』×『千年公』!!」
眼下では作り物と思われる「伯爵」が、アレンとクロウリーを襲っている。
は腕を内側に回してみた。
剥き出しの手首が縄と擦れる。
構わず手首を返し、十字架の足元を狙うように銃を構えた。
「(ダメだ、届かない)」
あと少し内側を狙えたら、十字架自体を倒す事が出来るのに。
あとほんの少し内側を狙えたら、リナリーを包む膜を破ることが出来るのに。
舌打ちして、腕を戻した。
もう一度、息を切らすほど力を籠める。
縄を切るどころか、弛めることすら出来ないうちに、手首を傘の柄が捕らえた。
「レロ、離せっ」
「嫌レロ! お前がジャスデビたまに攻撃するつもりなら、絶対離さないレロ!」
「あそこから、リナリーを出すだけだ! だから離せ!」
「いーやーレーロ! 大体、敵の言うことを聞く義理もないレロ!」
柄をいっそう強くの手首に絡ませて、レロが歯を剥き出した。
リナリーがボールの中で叫ぶ声が聞こえる。
「イキがってバカみたい! あなた達のやってることなんて、ただの幼稚な遊びだわ。
命の重みを知ってるアレンくんの方が、ずっとずっと強いわよ!!」
空気が変わる。
ジャスデロとデビットが、膜越しにリナリーを殴打する音が聞こえる。
聞こえるだけで、何も出来ない自分がもどかしく憎らしい。
手首に巻き付くレロの柄を、自分の腕ごと十字架に叩き付けた。
「ぎゃーっ! 何するレロ!」
がむしゃらに前へ、渾身の力で腕を動かす。
縛られた足を動かす。
体を揺さぶる。
「そんなことしても無駄レロ!」
「っ、うるさい!」
縄が軋む。
十字架が軋む。
息が弾む。
「やめるレロ! お前が疲れるだけレロ!」
背で十字を叩く。
反動で縄へ力を掛ける。
息が途切れる。
縄が鳴く。
「……っ、先に進めなくなったらどうするレロ!」
視界が、橙色に染まる。
「そんなこと、どうだっていい!」
絞り出すように叫び、力を入れ、歯を食い縛って閉じた。
瞼の向こう側に、強い光が見えた。
目を開ける。
モニュメントに扉が開く。
吹き上げる風。
吸い込まれる、伯爵の偽物。
「(……ラビ……)」
鍵を見つけたのだと、レロの顔を見て気付いた。
だまし眼鏡が消えている。
いつの間にやら、気配だけでなくはっきり目視できるジャスデビの姿があった。
アレンとクロウリーがすかさず殴りかかる。
――もう、「妹」は心配ない
ふ、と体から力が抜けた。
首が縄に食い込む。
鼓動が耳元で聞こえる。
レロの声が、遠い。
「」
一瞬。
ほんの一瞬途切れた糸が、再び結び直される。
喉の違和感を無くしたくて、数回咳き込んだ。
呼吸を整え目を開けると、眉間に皺を寄せたクロウリーの顔がすぐ傍にあった。
「大丈夫か」
十字架に片手を掛け、を反対の手で抱えている。
は息をついて、小さく笑った。
「……ああ。ありがとう」
「ふん」
軽い音と共に、クロウリーが十字架から飛び降りる。
やっと床に足をつけることが出来た。
クロウリーを見上げる。
「迷惑掛けたな。伯爵とか、キツかったろ」
「まぁ、訳のわからん手品には手こずったが、あいつら自体は簡単だ。餓鬼共め」
「そっか」
ぶっきらぼうな答えに、笑みを返す。
チャオジーのほっとした顔が目に入った。
近くでは、アレンがリナリーをボールから出そうと、声を掛けている。
「ガキガキって、マジナメてね……?」
そしてその向こうから、地を這うような低い声。
「すいません、リナリー! 今出します」
「ア、アレンくん……」
青ざめたリナリーが呟く。
アレンはまだ、気付いていない。
空気が澱むのを感じる。
は、チャオジーの袖を引き、背に庇った。
「遊びはやめた………マジで消しちゃうわ……」
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