燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









物事には表と裏があり
人は皆
そのどちらかしか見ていない
けれどそれ故に
彼らは、神に対峙し得る存在なのだ



Night.38 月の裏側









最後に部屋から出たが、扉を閉める。
しん、
静まり返った廊下。
誰もが動かない。
否、動けない。
一秒、時間を経る毎にドクドクと聞こえる自分の心音。
必ず此処から出ると、誓ったばかりなのに。

「(なんと情けない……っ)」

震えが、止まらない。
クロウリーは唇を噛んだ。
江戸での戦いを思えば、憎まれ口を叩いたあの神田が実力者であることは容易に知れる。
決して守られるつもりはないが、それでも、離れ離れになるのは心細い。
この先も、扉ごとに仲間達は別れていくのだろうか。
別れた仲間は追い付くだろうか。
最後の扉に辿り着ける人が、何人いるだろうか。

「(本当に、辿り着けるのだろうか)」

じわり、じわり。
夕闇のように襲い来る不安が、足を地面に縫い付け、心を竦ませた。
周りを窺わなくても分かる。
皆、一様の表情を浮かべ、顔を俯けていた。



――コッ



その時、静寂を切り裂いた、音。

――コッ

クロウリーの脇を、黄金が通り過ぎた。

――コッ

風が、クロウリーを包み込む。
立ち止まっていた誰よりも先に、彼は歩き出した。
落ち着き払った足音が、空気に、心に、活力を与える。
眼前を覆う不安から気を逸らした、その一瞬で、暗雲は風に浚われた。
晴れた視界。
目は自然との背中を追い、いつの間にか、顔も進むべき方向を向いていた。
彼を追って、ラビが歩き出した。
早足で隣に並び、肩に触れる。


「ん?」
「肩貸すさ」
「いや、大丈夫。一人で歩ける」

二人の会話につられるように、クロウリーの足が重たい前進を促した。
が進んでいる。
ならば自分も、後に続かなければ。
ただただ、彼の背中を見つめ、足を上げたとき。
未だ動けずにいた様子のチャオジーが、強く拳を握ったのが見えた。

「っ、様!」

クロウリーと同様に、今まさに歩き出そうとしていたアレンとリナリーが。
そして、先行く二人が振り返る。
叫ぶように彼を呼び止めたチャオジーは、固く目を瞑り、バッと頭を下げた。

「オレを、置いていってください……!」

が首を傾げる。
ラビも不思議そうな顔でチャオジーに尋ねた。

「何さ、いきなり。どうした?」

体勢を変えず、チャオジーは握った拳を震わせる。

「……『教団の神』が、神の使徒でもないオレなんかに手を伸ばしてくれた」

ぽたり、ぽたり、
地面に透明な雫が落ちた。

「勿体無いくらい、嬉しいっス。でも、戦えないオレは、皆さんの足を引っ張る。
……皆さんが此処から出られなかったら、オレは、アニタ様達に顔向けが出来ません!」

果ての分からない空間に、叫んだ声の余韻が残る。
それに重ねるように、チャオジーは決然と言った。

「オレを置いていってください、様」

リナリーが目を瞠って息を呑んだ。
彼女を支えながら、アレンが声を強張らせる。

「そんなこと言わないで、チャオジー。一緒に此処から出ましょう」

チャオジーが、首を左右に振った。

「無理ッスよ……こんな、こんな所、オレが進んで行ける訳……っ」
「チャオジー」

静かな声で、が呼び掛けた。

「俺を見ろ、チャオジー」

空気が、操られる。
クロウリーは直接言葉を向けられた訳ではない。
手を触れられた訳でもない。
にも関わらず、彼に頬を支えられているかのように、空気に顔を動かされる感覚に囚われた。
チャオジーは勿論、ラビまでもが彼を見つめている。

「貴方にとって、『俺』は『何』?」

――私にとっての、「君」は……

まるでこの場の全員へ与えられた命題のように、脳の隅々にまで、彼の問い掛けが染み渡る。
直に問われたチャオジーが、訥々と答えた。

様、は……アニタ様も待ち望んだ、『神様』……です」
「傍からの見物を極め込む存在を、貴方は『神』と呼ぶのか?」

畳み掛ける彼の言葉に、チャオジーは答えない。
否、応えられない。

「貴方は『神』に、そう在ってくれと望むのか?」

違うだろう、と言外に彼は問う。
漆黒の瞳は光を帯びて、一人一人へ向けられた。

「皆から見える『此処』で。皆の声が聞こえる『此処』で。願いを叶えることが、俺の望まれた役目だ」

彼の眼差しが、ゆっくりと、チャオジーへ立ち返る。

「だから、チャオジー。俺を『そう』呼ぶなら、貴方には願う権利がある」

が微笑んだ。

「諦めるな。願って、いいんだ」









縋りつくチャオジーの背を撫でて、彼が微笑めば、一行を包む空気の色が塗り替えられる。
気付けばリナリーも、アレンもラビも、勿論クロウリーも、つられるように笑っていた。

――進むんだ、進めるんだ――
――絶対、此処から出るんだ――

つい先刻までは上辺だけだった言葉が、意味を持つ。
何故なら彼が、内に押し込めた不安さえ、その微笑で拭うから。
掻き消されそうな希望さえ、眩い黄金で掬うから。
絶望の中で、それでも願うことを赦し、包んでくれる深い深い漆黒。
変わらず輝き続けて先に立ち、行くべき道を示してくれる黄金。
まるで、彼自身が、

「(そうか)」

クロウリーは息をついた。
それが如何程の重圧か、理解していた筈のクロウリーでさえ飲み込んで。



――まるで、彼自身が、人の願いのカタチのように



人々の願いが、「教団の神」というカタチをとって、この世界に在るかのように。
彼は微笑む。
温かな双眸に奔ったあの光は、きっと、彼の決意の表れなのだ。

「(今だけ、今だけだ)」

自分達は、絶対に生きて此処を出なければ。
だから、今だけは。
申し訳ないと思う気持ちを押し込めて。
彼の堅く揺るぎない決意に、甘えさせてもらおう。

「(今だけだ、)」

今だけ君を「神」と呼ばせてもらう。
此処を出たら、必ず一人で立つと、誓うから。









そうして進み始め、もうどれほど経っただろう。
先頭を行くラビががっくりと肩を落とした。

「長ェさ、この廊下ー」
「っスね」

その斜め後ろで、チャオジーが眉を顰めて頷く。

「いつになったら次の扉があんだぁ?」
「焦ったって仕方ないだろ」

が肩を竦めた。

「あの部屋の出口は一つだったんだ。この道を行けば、何処かには出る。多分」
「やめて! 多分、とかやめて!」
「も、もしかしてからかってるっスか、様!」
「あ、でも、途中で道が枝分かれしてたら、どーする?」
「ラビさんまで!」

前方の三人は、何かと皆の気を紛らわせながら。
横を歩くリナリーは、足許を見ながら慎重に。
そして最後尾のアレンは、時折リナリーを励ましながら歩いている。
最年少ながら殿を務める少年を頼もしく思い、クロウリーはアレンにそっと視線を遣った。
クロウリーの視線にも気付かない様子で、少年は兄弟子の背を真剣に見つめている。
声を掛けようとした、その時。
アレンが不意に背後を振り返った。

「どうしたである? アレン」
「なんか今、うしろから音がしたような……」
「音? どんな?」
「何かが割れるような音で」

ピシ

「す」

言葉の狭間に、確かに、何かが割れる音。

「ん?」

その音は轟音となって迫り、一瞬でクロウリーとアレンの許へやって来た。

「わああ何!?」

二人の立つ床が、割れる。
割れた。
崩れる。

「――止まるな! 走れ!」

の鋭い声。
我に返って、驚愕に縮み上がった体を叱咤する。
クロウリーは、咄嗟にリナリーを抱き上げた。
不自由な脚では、このスピードからはとても逃れられない。

「来る来る来る来る来るぅ!!」
「いつまで続くんだよこの廊下ぁーっ!!」

涙声で叫ぶラビとチャオジーが、先頭を疾走する。
クロウリーがやっとに追い付いた時、鈍い音がした。

「あっ」
「道化ノ帯!!」

転んでしまったチャオジーを、すかさずアレンがイノセンスで救う。
迫る崩壊。
クロウリーは腕の中に声を掛けた。

「リナリー、私のポケットにちょめ助からもらった血の小瓶があるである! 取ってもらえぬか?」
「えっと、……これ?」

大切な小瓶だ。けれど此処で使わなければ持っていても意味が無い。
ごくりと飲み下せば、瞬時に力が漲った。
並ぶを、そして先を行くラビとアレンを抱える。

「突っ切るぞ。掴まっていろ、ガキども」

イノセンスの力を借りて、廊下を一気に駆け抜けた。
轟、と鳴る空気に負けない声で、ラビがクロウリーを囃す。

「ヒュウ、さっすがクロちゃん!」
「サンキュ、クロウリー。助かった」

息を弾ませながら、が笑った。

「おい! 何でお前まで乗ってんだよ!」
「ケチケチすんなレロ」

後ろの方からチャオジーの声が聞こえる。
守ったつもりのないレロが、何故か自分に掴まっているらしい。
けれど今は構っていられない。

「あっ、あそこ見て! 廊下の終わりだ!」

アレンが前方を指差した。
ぼんやりと見えてきた光。
クロウリーは、足に力を入れ、強く床を蹴った。









「イテッ! 乱暴だぜ、クロちゃーん」

ラビやアレン、チャオジーと共に、床に落とされる。
は埃を払いながら立ち上がった。
未だダウンロードされていないこの部屋は、まるで書庫のような造りだ。
床から天井まで、壁という壁が全て本で埋め尽くされている。
壁だけではない。
棚に入りきらなかったであろう本が、何冊も床に積まれていた。
そして、気配。

――お兄ちゃん――

は、福音を握り直す。
部屋の中央、大きなオブジェ。
その上で二人の少年が、互いに銃口を向け、やたらと気怠く腰を下ろしていた。

「よぉ、エクソシスト」

髪の短い方が、口許を歪める。

「デビットどぇっす」

金の長い髪をした方が、にた、と笑う。

「ジャスデロ。二人合わせてジャスデビだよ、ヒヒッ!!」

これはまた、ティキともスキンとも、ミザンとも毛色の違ったノアである。
顔の模様はメイクだろうか。
隈にしては、いやに濃い。
そしてレロにとって、彼らの登場は予想外だったようだ。
傘は目を丸くして、ひどく驚いた声をあげる。

「ジャスデビたま!? あれ? 仕事は?」
「「だまれ」」

瞬時に向けられた二人分の銃口。
すっかり縮み上がったレロが、チャオジーの背後に避難する。
ラビが唸った。

「またファンキーな奴来たな……アンテナついてんぜ」

ああ、そうだな。
生返事を返し、は目を眇めた。

「(仕事……)」

レロへの反応から見るに、どうやら上手くはいっていないようだが。
彼らも、ティキやスキンのような「仕事」を担っているのだろうか。
ならば狙いは?
デビットが身を乗り出し、思考を邪魔する。

「オレら今、ムシャクシャしてしょうがねーんだわ」

呟いた彼の目が、とアレンを捉えた。

、アレン・ウォーカー。テメェらにゃ何の怨みもねェが!」
「クロスに溜まったジャスデビの怨み辛み、弟子のお前らに払ってもらうよ!」
「……は?」

思わず気の抜けた声が出てしまった。
と思ったら、二人が同時に銃を構えた。

「天誅!!」

咄嗟にアレンの腕を引く。
跳び退ると、まるで弟子二人と残りの仲間との間に境を引くように、銃痕が残されていた。
仲間達が、とアレンを案じて声をあげる。
けれど、そちらに目を向けている場合では無い。
は体勢を整えながら目を瞠る。
どうにも、聞き捨てならない言葉だった。

「ちょっ! 師匠が何て言いました!?」

焦った声で、アレンが聞き返す。
デビットが負けじと怒鳴り返した。

「師匠のツケは弟子が払えってんだよ!」
「ツケ? 何の話だ!」

お前らが追っているのは、クロス・マリアンなのか、と。
問い詰めたいのは山々だが、途中で聞こえた言葉に、つい反応してしまった。
聞き覚えのありすぎる単語だが、少なくとも、今、敵から聞くものでは無い筈だ。
彼らは、問いには答えなかった。

「「装填、青ボム」」

ナイフに手を伸ばしたの視界を、白い何かが覆う。

「駄目です、兄さん」

横を見れば、弟弟子の首許に、仮面。
進化した彼のイノセンスに守られたのだと、咄嗟に理解した。

様! アレンさん!」
「!? 銃の威力が変わった!?」

イノセンスの外からは、此方を気遣う声や、驚いた声が聞こえる。
それに答えるデビットの声は、いやに冷静だった。

「銃じゃねェよ、弾が変わったんだ」

弟子以外に興味は無いということだろうか。
考えの途中、視界が晴れた。
覆いが取り払われ、初めてそれがマントのようなものだったのだと知る。
そして、自分を庇ったアレンの肩が、凍らされていることも。

「悪い。痛むか?」
「いいえ、へっちゃらです。それより……」

弟弟子が、笑って答える。
は、それを信じて頷いた。
その言葉の真偽を問うより先に、後悔するよりも先に。
敵に、聞かねばならないことがある。
二人揃ってジャスデビを睨んだ。

「……キミ達、師匠を追ってるノアですか?」
「それが何だよ。あ?」
「だったら『弟子』としては、素通り出来ないだろ」
「まぁ、僕達にウサ晴らしに来るってことは、元気みたいですけどね、あの人」

目配せと同時に、アレンがイノセンスを振るった。

「道化ノ帯!!」
「イテッ」
「ウヒッ」

ノアが転ぶ。
仲間の元へ戻れば、クロウリーが心配そうに二人の名を呼んだ。

! アレン!」
「何? ピンポイントで二人狙い!?」
「らしい。ったく、八つ当たりかよ」

怪訝そうなラビに、は溜め息をつきながら答えた。
彼らの言う「ツケ」が、師に手酷くやられた「ツケ」、ならまだ良いのだが。
まさかとは思うが、今この時点で真意を推し量ることは出来ない。
アレンが肩を示し、ジャスデビを肩越しに見遣った。

「それより、気をつけて下さい。
あのふたりの撃ち出すモノ、ただの弾丸じゃありません。何か能力がありますよ」
「……なんか楽しくなってきた……」

舌舐めずりをしながら、デビットが呟く。
ジャスデロが此方を見た。

「ヒッ! ひとつ聞くけど、お前ら人質にとったら、クロスの奴おびき出せる?」
「まさか」
「有り得ない」

即答するアレン。
も、師については深く深く理解しているつもりだ。
もし自分達が人質にされたなら?
無論、クロスは哄笑しながら「自力で片を付けろ、馬鹿弟子」とでも言い放つだろう。

「ちょっと、せめてどっちかは信じてやったら……?」

妙な沈黙の流れたエクソシスト達に対して、ジャスデビは腹を抱えて笑い転げた。

「ギャハ! 信用ないんだね、クロスって。ヒヒッ!」
「じゃっ、このゲーム、ジャスデビ参戦ー。オレらのウサ晴らしになってもらうぜ、弟ー子!」









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