燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









何かを得るために
何かを失わねばならないと
何かを失えば
何かを得られるというのなら



Night.36 みをつくし









神田の肩を借りて、は立ち上がった。
見渡す先に、どこまでも広がる町。
暑くも寒くもない。
神田の問いの通りだ、此処は一体何処なのだろう。
思考の途中、アレンの声が答えをくれた。

「ここ、方舟の中ですよ!」
「なんでンなとこに居んだよ」
「知りませんよ」

この期に及んで睨み合う、アレンと神田。
呆れて溜め息をついたの肩に、クロウリーがそっと触れた。

「大丈夫であるか、
「ん? ああ、大丈夫」

ミランダのお陰で、外見上の傷は無い。

――誤魔化せる

ずっと、そうやってきたのだから。

「おっ、おい!?」

ラビの声に、首を巡らせた。

「リナリーの下に変なカボチャがいるさ!」

カボチャ――否、傘だろうか。
非常に判断に迷う物体である。
しかし、は次の瞬間に、認識をカボチャに定めた。
どうやら、そこが顔らしいのだ。
カボチャは目を開け、はっと辺りを見回した。

「(動くのか)」
「どけレロ、クソエクソシスト! ぺっ!!」
「しゃべった!」

動くだけかと思ったら、カボチャはいきなり失礼な事を喋りだした。
アレンと神田が各々の武器をカボチャに添える。

「お前か……」
「キャーッ!!」
「まあまあ。壊すなら吐かせてからな」

そう二人を諌めると、ただでさえ震えていたカボチャが、一層激しく震え出した。
カボチャのくせに青ざめるとは、なんとも器用な奴である。
思えば先程、伯爵がこんな傘を持っていた。
彼のゴーレムなのだろう。

「スパンと逝きたくなかったらここから出せ、オラ」
「出口はどこですか」
「でっ、出口は無いレロ」

カボチャが引き攣った声で答える。
何、馬鹿なことを。
だけでなく、誰もが思っただろう。
けれど。

『舟は先程、長年の役目を終えて停止しましタ』

その時、悠然とした千年伯爵の声が聞こえた。

『ごくろう様です、レロ。出航です、エクソシスト諸君』

こんな不気味な事があって堪るか。
漂う空気に緊張が走る。
レロと呼ばれたカボチャの口から、膨らみながら現れたのは、千年伯爵の形をした風船。
本物そっくりの嫌な笑みをこちらに向け、風船は高らかに、楽しそうに告げた。

『お前達はこれより、この舟と共に黄泉へと渡航いたしまぁース』

地面が大きく揺れ、波打ち、ひび割れる。
咄嗟の踏ん張りが利かず、巻き込まれそうになったを、神田の手が引き上げた。
辛うじて彼に掴まり、風船を見上げる。

『危ないですヨ。引っ越し(ダウンロード)が済んだ場所から崩壊が始まりましタ』
「ダウン、ロード……?」

衝撃が、押さえ付けた筈の呼吸のリズムを狂わせる。
切れ切れに言葉を繰り返せば、ラビと神田がそれに続いた。

「は!?」
「どういうつもりだ……っ」
『この舟はまもなく次元の狭間に吸収されて消滅しまス。お前達の科学レベルで分かりやすく言うト……』

ガラガラと、文字通り世界が壊れていく。

『あと三時間。それがお前達がこの世界に存在していられる時間でス』

風船は、高らかに笑う。

『キミを引き込めたのは幸運でしタ、。神が我々に味方しているのでしょウ、なんてネ』
「ちっ」

は、小さく舌打ちを零した。
神田がちら、と此方に視線を向けたのが分かった。

「(くそ……っ)」

船上の戦いを越えたとはいえ、クロウリーは常ならばまだ「新人」。
リナリーに武器を使わせる訳にはいかないし、チャオジーに至っては一般人だ。
自分の身体も儘ならない。
左腕の形状から見れば、能力が高まったのだろうとは思うが、アレンはやはり経験が浅い。
神田とラビだけなら、文句は無い。
けれど、この人数を抱えて、彼らに一体どれだけの事が出来るのか。

『可愛いお嬢さん……良い仲間を持ちましたネェ。こんなにいっぱい来てくれテ』

でも、弱音は吐けない。
自分が前を向かなければ。

『みんながキミと一緒に逝ってくれるかラ、淋しくありませんネ』
「伯爵……っ」

リナリーが唇を噛む。

『大丈夫……誰も悲しい思いをしないよう、キミのいなくなった世界の者達の涙も止めてあげますからネ』

何とかして、此処から出なければ。

『これは定メ。「神」亡き世界は、滅び逝くものなのですヨ』









リナリーが俯いた。
彼女が連れてこられたのは、伯爵が黒い靴の異変に目を付けたからだろう。
は、二回あったというそのどちらも目にはしていないが、ブックマンが訝るくらいだ。
伯爵がその特異さにハートの可能性を見出だしても、何らおかしくはない。
けれどそれは、リナリーの過失ではないのだ。

「リナリー」

名を呼ぶと、彼女は素直に顔を上げた。
ふ、と微笑み掛ける。
リナリーの表情の強張りが、僅かに和らいだ。
それを認めて、は青ざめた一同を見回した。

「とにかく、この場所から離れよう。まだ崩れていない所があれば……」
「そうだ……どこかに、外に通じる家があるハズですよ! 僕、それで来たんですからっ」

有力なアレンの証言に従い、立ち並ぶ家のドアを片っ端から開ける。
イノセンスを携え、ハズレだった家を、壊す、走る、壊す、走る、壊す、走る、壊す――



「 ――って、もう何十軒壊してんさ!」

走り通し、遂に、ラビが音を上げた。

「ッ……、――、っは……、」

誰もが息を切らしている中で、も膝に片手をつく。

「(どうして……っ)」

常ならば、こんなところで呼吸を乱したりしない。
けれど今は、喘ぐように息をするので精一杯だった。

「……兄さん……?」

アレンの、小さな小さな声が聞こえた。
分かってる、進むよ、進むから。
そう思うのに、締め付けられるような苦しさに負ける。
背を伸ばして、立たなければ。
そう思うのに、脈打つ痛みが体を竦ませる。
今こそ、微笑みが力を持つのだと。
分かっているのに、胸が苦しい。

「チッ」

隣から、常よりも強く荒い舌打ち。
崩れそうな体を支えてくれる手に、力が籠もる。
体を屈めて、神田が囁いた。

「らしくねぇぞ。止めろっつっても無理すんのがお前だろうが」

尤もだ。
いつもそうやって、迷惑ばかり掛けているのに。
苦笑しか、浮かばない。
奥歯を噛み締め、固く固く目を瞑る。

「気張れよ。守るんだろ、アイツら」

彼の言葉に、頷いた。

「(捨てろ)」

出来得る限り多く空気を入れ込む。
流れ出る。
再び空気を引き入れる、外へ出す。
肺に空気を入れる、逃がす。
吸い込む、吐き出す。
吸う、吐き切る。

「(『俺』は要らない)」

吸う、吐く。
鼓動を無視して、新しいリズムに身体を慣らす。

「(『俺』は、要らない)」

馴染ませながら、やっと周囲へ注意を向けた。



自らに元凶を問う<声>。
与えられた生を悔やむ<声>。
見えない希望を探して足掻く<声>。
ちらつく絶望から必死に目を背ける<声>。
此方を見ず、頑なに信じ続けてくれる<声>。
日常を求めて、この身を支えようとする<声>。



<声>を、聴く。
各々の内に溢れる惑いや恐怖を飲み込み、空気を固める。
脚に、腕に、指先に、力を呼び戻す。
は目を開け、顔を上げた。
此方を見ていたアレンとクロウリーが、明らかな安堵の表情を浮かべる。
二人へ微笑を向け、そして神田へもう一度、首肯を返した。

「無理レロ!」

一緒に着いてきたレロが、説き伏せるように声を上げた。

「この舟は停止したレロ。もう他空間へは通じてないレロって!」

体を支えてくれる神田の手が、僅かに強張る。
宥めるように、はその手に触れた。

「マジで出口なんて無……」

レロの言葉を遮るように、再びの地響き。
揺れる世界。
リナリーが叫ぶ。

「危ない!」

ラビの足元が崩れ、粉塵が巻き上がった。

「……っ」
「無いレロ……ホントに。この舟からは出られない。お前らはここで死ぬんだレロ」

息を飲んだ一同に、レロが静かに告げる。

――お兄ちゃん――

しかし、はその言葉を聞いてはいられなかった。
空気に触れた、覚えのある殺気。

「……?」

訝しむ神田の声も耳を素通りさせ、福音を握り締める。

「あるよ」

苦い記憶を喚ぶその声は、アレンのすぐ傍から聞こえた。

「出口、だけならね」









先程までろくに動けなかった体が、瞬時に力を取り戻した。
珍しく剥き出される敵意。
神田は、今にも飛び出しそうなの体を止めた。
張り詰めた彼の空気が、ビリビリと肌を刺す。

「(俺に、引き留められるなんて)」

普段のなら、決してあり得ない。
激昂しているように見せて、冷静さを保っているのだろうか。
否、彼が激昂している時点で、冷静さなどかなぐり捨てているのだ。
だとしたら、神田が、を止めることが出来た理由は。

「(考えたくもない)」

頼むから、いつも通り。
いつも通りの彼でいて欲しい。
その一心で掛けた言葉は、きっと、この場に於ける彼の支えになった筈だ。
けれど、それは本当に正しかったのか。
焦燥が焦燥を生み、心を揺らす。

――大丈夫――

いつか聞いた彼の言葉を思い出す。
神田は、頭を擡げる不安を振り払うように舌を打ち、六幻を握る手に力を込めた。



アレンのすぐ傍から現れたのは、一人の男。
分厚い眼鏡、あちこちに跳ねる黒髪、薄汚い服。
アレンとラビ、クロウリーが一斉にその男を指差し、叫んだ。

「ビン底!!」

叫ばれた側は何処か拍子抜けしたように笑う。

「え、そんな名前?」

朗らかなその声だけ聞けば、騙される者もいるだろう。
けれど、の研ぎ澄まされた空気が、本質を教えてくれた。

「ななっ? なんで? なんでここにいんの!?」
「おい」

動揺して叫ぶラビ達に、神田は声を掛ける。
三人が振り返った。

「そいつ、殺気出しまくってるぜ」

我に返った三人が距離を取るより早く、ビン底眼鏡の男がアレンに迫った。
が体を強張らせる。

「少年。どうして生きてた……? のっ!!」

男は思いきり、白い頭に頭突きを食らわせた。

「千年公やチビ共に散々言われたじゃねェかよー」
「なっ、に、を言っ……」

涙目のアレンが、男を見て言葉を失う。
神田も僅かに目を瞠った。
男の肌が見る間に褐色へ変わる。

「出口欲しいんだろ? やってもいいぜ?」

髪を掻き上げれば、額に連なる十字の聖痕。
江戸で一戦交えたノアが、そこに居た。









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