燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
さあ、刃を抜け、牙を剥け
この糸を、決して切らせてはいけない
さあ、立ち上がれ
守るべきものが、そこに、あるのだ
Night.35 罅割れた支柱
真っ白な街並み。
スキンと共にズルズル引き摺られながら、ティキは煙草を銜えた。
襟を引っ張る伯爵に、問う。
「面白かったのに。なして引くんスか、千年公」
はぁ、と溜め息。
「あのエクソシストの女の子、ハートだったかもしんねェのに」
「重イ……二人とも大きくなりましたネェ」
「伯爵様、お手伝い致しましょうか?」
「いエ、大丈夫ですヨ、ミザぴょん」
「……聞いてます? ねェ、ちょっと」
ティキの言葉は、伯爵とミザンの耳には届いていないらしい。
否、完璧に知らぬ存ぜずを通す伯爵だけなら良いのだ。
問題は、度々此方を見ては舌打ちをするミザンである。
大方、羨ましいだの何だの考えているのだろう。
「引っ越し(ダウンロード)まで四時間切ったんだよ、ティッキー」
無視され続けていたティキに答えてくれたのは、建物の二階から顔を出したロードだった。
いつもと違う、白く薄いワンピースだけを身に纏っている。
伯爵が彼女に目を遣った。
「アラ、ロード。作業(プログラム)ご苦労様でしタ」
「飴一年ぶーん」
この方舟を、新しい方舟と繋げるプログラム。
それに従事していたロードから目を離し、今度こそ、と伯爵を見上げる。
「逃がすんスか?」
「まさカ」
「よねー」
即答されて、へらりと笑えば、フンッと荒い鼻息も聞こえてきた。
「全く。ティキときたら……ご存知でしたか、ロード。
ティキは自分の仕事もこなせない癖に、伯爵様のお仕事に疑いの眼差しを向けるんですよ」
「えー、ティッキーひどぉーい」
「ひどぉーい」
ティキは聞こえなかったふりをする。
ミザンとロードは、ティキを蔑む時だけ息が合うのだ。
腹立たしい程に。
二人の非難の声を聞いて、思い出したように伯爵が言った。
「そうそう、キミの『お仕事』も戻ってきましたヨ」
此方は、どうにも無視できない。
「お仕事」が戻ってきた。
つまり、アジアに飛ばしたレベル3は破壊されたということ。
「えっ!? マジすか? 生きてた? 左腕も!?」
「ピンピンしてましたヨ。見事に邪魔されました」
つまり、殺した筈のアレン・ウォーカーとイノセンスが、生きていたということ。
セル・ロロンは、やはり正しい。
「(あちゃあー)」
ふわ、と建物から飛び降りたロードが、伯爵にぶら下がる。
「今のがミザニーの言ってた話ー?」
「そう、ティキポンの腑甲斐無い話でス」
「へえー? ……!」
のんびり辺りを見渡したロードが、一瞬息を止めた。
ティキの首に手を掛け、伯爵の背中に逆さになって凭れる。
ミザンが首を傾げた。
「どうしました、ロード」
「ううん。ねぇティッキー、煙草の銘柄変えたあ?」
「何だよいきなり……変えてねェけど? ってかパンツパンツ」
ワンピースが捲れているのに、ロードが気にする気配は全く無い。
眉間に皺を寄せたミザンが、ワンピースの裾を摘まみ、彼女のパンツを隠した。
伯爵が、低く嗤う。
「ミザぴょん」
「はっ、はい!? 何でしょうか!?」
不意に名を呼ばれ、ミザンの声が裏返る。
驚き過ぎて、ワンピースからも早速手を離してしまっていた。
ティキの視界に、再びロードのパンツ。
「此処からは、キミにも出番が来るかもしれませン。期待していますヨ」
「な……なんて勿体無いお言葉……!
このミザン・デスベッド、伯爵様の為でしたら、必ずや使命を果たしてご覧に入れます!」
ミザンの熱い宣誓を、間延びした声で、ロードが無情にも遮った。
「ねー、千年公ぉ。レロはぁー?」
ブックマンから、クロス部隊が得た情報を聞き終えて、ティエドールは溜め息をついた。
「改造アクマ、生成工場(プラント)、ノアの方舟、ねェ……」
クロス・マリアンの囮に使われたということは、どうやら彼らも理解しているらしい。
それでも覚悟してここまでやって来たのだから、充分責務を果たしたといえる。
しかし、クロスもクロスだ。
警告するなら、彼らが辿り着いた後も面倒を見ろと言ってやりたい。
頬を掻き、思わずぼそりと呟いた。
「マリアンに協力する気は無いんだけどな」
あの男がやりそうにないことを願ってみても、無駄か。
「まぁ、いいか。キミ達は、きっと聞いていないんだろうけど……本部から連絡だ」
思い直して、ティエドールはブックマンに視線を戻した。
「今、この世に存在するエクソシストは、教団にいるヘブラスカに、ソカロとクラウド」
名前を言う度に、呼べない人の面影が頭を過る。
「マリアン、そして」
連絡を寄越したコムイの、苦しそうな声が、蘇る。
「ここにいる、たった十人しかいなくなってしまったんだよ」
ブックマンが目を瞠った。
なんと、と呟く彼から逸らした視線の先には、依然、意識の戻らないとリナリー。
自分が居なかった、この一年。
同僚のソカロやクラウドが本部へ帰還したという話は聞いていない。
クロスが居ない今、誰も彼を止めなかった結果が。
否、止められなかった結果が、そこにある。
にとって一介の元帥に過ぎない自分達に、それが出来るのか。
そう問われれば、決して首を縦には振れない。
しかし少なくとも、一般の団員や優しい室長・支部長よりは余程影響力があるだろう。
「(……息子のように大切にしていたんじゃないのか、マリアン)」
そう心で呟いて、ふと気付いた。
――目を、背けたかったのか
「っ、じじい!」
二人の傍に居たラビの、師を呼ぶ声。
遅れてティエドールが顔を上げると、ブックマンは既にの傍らで屈んでいた。
ティエドールも、急ぎ近寄る。
膝をついたミランダは顔を手で覆って鳴咽を漏らしている。
重く虚ろに彷徨う彼の視線が、やがて彼女を捉えた。
「ごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい、……っ」
ミランダが泣き崩れる。
辺りに満ちる慟哭に、は微かな苦笑を返した。
――ミランダ――
唇が動き、音の無い、息だけの声を紡ぐ。
――大丈夫。大丈夫だから――
彼がそう言うと、何故か本当に「大丈夫」という気になる。
これがいけないのだ。
けれど、この支えが無ければ、自分達が進んでこられなかったのも確かなのだ。
ティエドールは小さく息をつき、笑顔を作って振り返った。
が折角空気を和らげようとしているのだから、微力でも力にならなければ。
「おーい。気がついたよ、神田ー」
この場に居る誰よりも、と共に過ごした時間が長いのは神田だ。
ずっと黙っていたが、さぞ心配だったろうに。
そう思って声を掛けたのに、彼は肩越しに一度振り返っただけで、フンと顔を背けてしまった。
予想していた反応ではある。
茶化すようにあれ? と呟けば、ラビが笑った。
「全くぅ、素直じゃねーさ、ユウちゃんは。なぁ?」
「そうであるな。、私達も全員生き延びた。安心するである」
クロウリーが、黄金に微笑みかける。
「ほら、アレン。お前も顔出すさ」
ラビの後ろから、アレン・ウォーカーが顔を覗かせた。
伯爵に狙われたリナリーを救い出す形で、方舟に乗って江戸に現れた、クロスの新弟子。
聞けば、ノアと交戦した中国で、訳あって隊を離れてしまっていたらしい。
「兄さん、すみませんでした」
彼の兄弟子にあたるが、僅かに目を瞠った。
戸惑ったような漆黒はラビへ戻り、少し揺らぎながらアレンを映した。
「……ば、か」
消えそうな声で紡ぐ言葉とは裏腹に、彼は嬉しそうに微笑んで、弟弟子の手に触れた。
「はぐれる……な、って……言っ、てる、だろ……」
きっと、いつも繰り返された言葉だったのだろう。
アレンが、涙混じりに笑い返した。
「はい……っ」
「、喋るな」
脈をとっていたブックマンが、厳しい表情で命じる。
少し間があってが口を開きかけたのを、ティエドールは笑って遮った。
「休憩中だ、気を張らなくていいよ。リーもまだ目覚めていない事だしね」
「っ……」
宥める筈が逆効果だったようで、彼は慌てて身を起こそうとする。
「おっと、ストップ」
力が入らないのか、身じろぎに終わってしまったが、ティエドールは一応彼の肩を押さえた。
が土壇場で発揮する力は、予測しなければ止められない。
「リーは問題ないよ、すぐに目を覚ます。だからキミも、それまで休みなさい」
揺れる瞳に笑みを返す。
ティエドールはミランダを連れてその場を離れた。
傍に人が居れば、彼はまた不安にさせまいと無理を続けるだろう。
が起きたことに、多少安堵したのか。
ミランダも団服の裾で涙を拭いながら、刻盤に集中し始めた。
彼女はこの旅の間、ずっと仲間の為にイノセンスを発動していた筈だ。
疲れきっているだろうに。
「(流石、『・の弟子』ってことか)」
一人微笑んでいると、ブックマンがこちらに戻ってきた。
「どうされた?」
「いやいや」
笑ってはぐらかす。
そして、少しだけ声を潜めた。
ミランダが動きを止めて、こちらの話を聞いている。
「クロス部隊は即時、戦線を離脱するべきじゃないかな」
俄かに、年若いエクソシスト達が賑やかになった。
リナリーが目を覚ましたのだろう。
空気が和らぎ、ティエドールの位置からも、微笑むの表情が確認できる。
「も、リーも。一刻も早く、本部で診せた方がいい」
イノセンスは、諸刃の剣。
強い力は、その分、ほんの少しの異変で大事故を引き起こす。
「聖典」に於ける防御とは、即ちが一手に敵の攻撃を受けることに他ならない。
彼とて「帳」にあれほどの負荷を掛けたのは、今回が初めてだったろう。
「黒い靴」にしても、そうだ。
一見リナリーを守ったように見えるが、彼女はつい先程まで気を失っていた。
明らかな代償を、益か害か分からないものを抱えて任務を続行するなど、無謀すぎる。
「ここは無駄に戦わず生き存えるのも、使徒としての使命だと、私は考える」
「リナリ……!?」
アレンの声。
突然の眩い光。
目を移すと、リナリーがいたはずの空間に吸い込まれるアレンの姿が見えた。
「!?」
地面にはペンタクル。
アレンを止めようとして吸い込まれるラビ。
後を追うチャオジー。
「ッ!」
サポーターとはいえ、チャオジーは一般人だ。
だからか、――引き戻そうとしたのだろう。
先程の様子からは考えられない速さで、が手を伸ばす。
「……チッ!」
その光景に、ティエドールの眼前を駆け抜けたのは神田。
そしてクロウリーが神田の手を掴み――
一瞬。
一瞬のうちに、七人がその場から姿を消してしまった。
残された者達の視界に、空からパズルのピースに似た物が降る。
マオサが空を見て、声を上げた。
「何だあれは!?」
「空から変なものが……!!」
手の上のピースを光に翳し、ミランダと共に上空を仰いだ。
暗い空に浮かぶのは、立方体が集まって出来た、白いハコ。
――あれは、
ティエドールは、茫然と空を見上げた。
ぐるぐると落ちていく感覚。
神田は必死にの手を掴んだ。
彼の体が、折り重なった頂点、チャオジーの上に落ちた。
を潰さないよう、何とか腕で体を支える。
しかし、神田のその努力は、クロウリーが背に落ちてきたことで呆気なく潰えた。
「お、重いいぃぃいいいい!!」
下から二番目で叫ぶアレン。
平素なら歯牙にもかけないが、この状況ではそんなことも言っていられない。
何せ、神田もそれには同感なのだ。
自分の下から、小さな呻きが聞こえる。
「テメェ、さっさと退きやがれ!」
「す、すまないである……」
クロウリーを怒鳴ってみるが、彼もまた目を回したようで、なかなか退いてはくれない。
それでもやっと重みが無くなり、神田はを抱えてチャオジーから下りた。
未だ目を回している他の仲間から、少し離れた場所に座り込む。
俯いたの、乱れた弱い呼吸。
それが今まで見てきたどれよりも辛そうに思えて、神田はつい、咳き込む背中を摩った。
「げほっ、はっ、は……ッ、わりぃ……」
「チッ……もっと後先考えて行動しろ、馬鹿」
彼が、武器を持たないチャオジーを引き戻そうと手を伸ばしたのは、分かっていた。
リナリーの時は余りに唐突だったし、すぐにアレンやラビが追って行った。
流石の彼も、自分が手を出さずとも、と考えたはずだ。
火事場の馬鹿力。
一度ああして無理に自分を叱咤したのだ。
は集中が切れるまで、いつもの倍は動き続けるだろう。
常の、彼ならば。
「ごめん」
脂汗を滲ませ、手の関節を真っ白にして痛みを堪える癖に。
何でもないような顔をして、彼はいつも、周りを騙していた。
けれど、今は。
呼吸は戻りつつある。
しかし神田に凭れる彼の身体には、未だ力が戻らない。
神田は低く、唸るように言葉を刺した。
「分かってんのか。お前、自分で思ってる以上に、」
「分かってる」
は俯いて、しかしきっぱりと遮った。
「なんか……お前が思ってる以上に、ヤバそうだ」
何度か息をつき、蒼白な顔を上げる。
苦笑。
「……立てねぇ」
その表情は、普段の彼とはどこか違っていた。
「兄さーん! 神田ー! 無事ですかー!」
アレンの声が、呆然としてしまった意識を引き戻した。
思わずハッとなって振り返る。
が、微笑んでアレンへ手を挙げた。
神田は彼を横目に見て、誰とはなしに聞いた。
「なんだ、この町は」
今更、と横から笑い声が聞こえる。
チッと舌打ちを零し立ち上がったが、思い返してもう一度屈んだ。
無理を通しきることすら出来ない今の彼を、歩かせるのは忍びない。
「掴まれ」
「……ありがとう」
大儀そうに伸ばされた手と、それでも向けられた微笑み。
背負った方が良いだろうか。
しかし自分だったら、この状況で背負われるなど、とても許せたものではない。
結局、神田は彼の腕を自分の肩に回し、半ば持ち上げるように立ち上がった。
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