燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









微笑い続けよう
祈り続けよう
足掻きが
世界の糧になると、信じて
忘れるな
この身は――贖罪



Night.34 あの日――神はただ微笑む









「よほど私の前に出したくないようですねぇ? 室長」

中央庁長官、マルコム=C=ルベリエがゆっくりと、にこやかに問い掛ける。

「こちらはわざわざ、昨日一日の猶予を与えたというのに」

黒の教団室長、コムイ・リーが答える。

「昨日の状態では、ヘブラスカへ診せるのは耐えられないだろうと判断したまでです」
「耐える? おやおや、この検査で死んだ人は居ませんよ」

隣でラビが欠伸をした。
黒の教団に来て二日目。
ラビを引き連れてやってきたヘブラスカの間で、ルベリエとコムイが、問答を続けている。
ブックマンの位置からは、コムイが拳を握り締めたのがよく見えた。

「(寄生型の副作用か)」

咎落ちでも無く、まして臨界点に達したイノセンスが適合者の身体に悪影響を与えている――
教団に来て早々に打ち明けられたこの問題を、ブックマンは中央庁寄りの観点で捉えていた。

「(リー室長は……教団は甘すぎる)」

確かに、適合者を失うわけにはいかない。
だが、その人物の苦痛を軽減させることが、最優先されるべきことだろうか。
特に母数が少ない寄生型は、ブックマンであっても適合者を見たことが無いほどに稀有な存在だ。
その副作用となれば言うまでもなく貴重な「症例」、つまり、貴重な「研究対象」である。

「まだなんさ? あれだろ? 昨日オレらがやったみたいに、ヘブラスカに見せるだけだろ?」

大人二人の静かな口論に隠れるように、ラビが小声で不満を漏らした。
そうなのだ、待てども待てども話題の人物が来ない。

にとって、あれは……拷問だ……」

ずっと黙っていたヘブラスカが、口を開いた。
ブックマンも彼女を見る。

「わたしは……心臓の中を、掻き回そうとするのだから……」

なるほど、と頷くブックマンの横で、ラビがぽかんと口を開けた。

「どゆこと?」
「心臓に手を入れて、探るからだろう。
ヘブラスカとて、鼓動する物体に自分の手を馴染ませることなど出来まい」

ラビが考え込む。
ブックマンも、腕を組んだ。
室長が中央庁に意見してまで予定を変えさせ、元帥が自ら彼を呼びに行っている。
心臓にイノセンス。
「ハート」を思わせる境遇や、二つのイノセンスの適合者であること。
それが、を教団内で特別な存在にしているのだろう。

「(ただそれだけの理由で……)」

「神の寵児」と敬われ、「神」と崇められ。
さぞや大切にされてきたであろう少年に、この先を戦い続ける覚悟など、あるのだろうか。
未だに隣で悩んでいる弟子の方がしっかりしているのでは、とさえ思えてくる。

「エクソシストも我々と同じように、意思や感情ある人間です!」

コムイの強い声が思考を割った。
こちらの会話は、一切耳に入っていなかったようだ。
ルベリエがふ、と嘲笑を浮かべる。

「エクソシストとして教団に迎えられたからには、そういう意識は脇に置いてもらわなければ」
「ですから……」



コッ――



コッ――



靴音が、空気を切り裂いた。
聞こえる度に、その音は澄み渡っていく。
ラビが一点を凝視している。
普段から、一つのものに心を囚われるなと言い含めているのに。
けれどそれを説く立場のブックマンでさえ、聞こえてきた音には心を奪われた。
心を掴まれた、という方が正しいだろうか。
振り返ったブックマンの視線の先に、団服を羽織った少年が居た。
数秒経たなければ、その横を歩くティエドール元帥に気付かないほど、強い存在。



少年が、その白い頬を少し持ち上げた。
暗いはずの空間に、どことなく光が射す。

……」
「遅くなってごめん、コムイ」
彼はそう言って、ちらりとこちらを見た。
吸い込まれそうなほどに深い、漆黒の輝き。
ブックマンは思わず息を呑む。
ラビが硬直しているのも、この圧倒的な存在感を前にしては仕方の無いことだ。

「この二人が?」
「ああ、そうだよ。――ブックマン」

コムイに呼ばれ、我に返ったブックマンは慌てて手を差し出した。

「我らは……ブックマンと呼ばれる相の者。この小僧はラビ、私の事はブックマンと呼んでくれ」

少年が微笑む。

。エクソシストです、よろしく」

はラビにも笑みを向けたが、ラビは曖昧に頷くだけで声を返せなかった。

「待ちくたびれましたよ、。元気そうで何よりだ」

からかうような口ぶりで、ルベリエが彼に声を掛けた。
一瞬、空気に氷が疾る。

「……お久しぶりです、ルベリエ長官」

変わらぬ笑顔で、が答えた。
それ以上の言葉を継がず、真っ直ぐヘブラスカの元へ歩を進める。
迷いの無い足取り。
寧ろコムイやティエドール、ヘブラスカの方が顔に焦燥を浮かべている。

、無理には」
「中央庁がデータを欲しがってるなら仕方ないだろ。逆らってコムイが飛ばされても困るし」
「待て……ダメだ、……わたしは……」

ヘブラスカの震える声。
伸ばされた手を片手で包み、は笑った。

「大丈夫だよ、ヘブラスカ――やろう」

「神」という言葉の本質は、境遇ではなく、こちらの方なのかもしれない。
居るだけで空間を一変させ、一言で安らぎを生み出す、その力。

「(これではラビを叱れんな)」

完全に呑まれてしまったと、自覚した。
先程まで抱いていた先入観が、あっという間に塗り替えられていく。

「室長。本人がこう言っているのですから、始めてはいかがかな?」
「……っ、お願いします、元帥」

が床に座った。
その脇に膝をついたティエドールが、彼の肩に触れる。

「体、預けていいからね」

緊張した様子のティエドールが笑いかけた。
は、ゆっくり一度頷き、目を閉じた。









「始めなさい」

躊躇い続けるヘブラスカに、ルベリエがきっぱりと命じた。
光が周囲に満ちる。
彼女は一言すまない、と呟き、の胸元へ何本もの手を沈めていく。

「それにしても不思議だ。本当に彼は臨界点に到達したのかね? ヘブラスカ」
「ああ、その筈だ……」
「同調がうまくいっているというのに、何故」

が大きく息をつき、顔をしかめた。
彼女の手がイノセンスに触れているらしい。
先程から茫然としているラビの頭を叩き、ブックマンは彼を注視した。
いつの間にか、はティエドールに寄り掛かっている。
ルベリエが、冷たい一瞥をヘブラスカに投げた。

「……手を入れたら、『聖典』を……」

絞り出されたヘブラスカの声に、がうっすら目を開ける。

「……いくぞ……」

その合図を聞いて、コムイが唇を噛んだ。

「、ぁ……っ!」

拒むように、はティエドールの手を振り切り、体を折る。
その震える肩を、ルベリエが掴んだ。
力ずくで引き起こし、ティエドールの手に押し付ける。

「長官!」
「マリアン元帥は彼をちゃんと押さえていましたよ。……、発動するんだ」

自分がブックマンでなく、普通のエクソシストだったとして。
弟子であるラビがの現状にあったとしたら、果たして自分は彼を押さえていられるだろうか。

「はあ……ぁ、ぁ……っ……」

上擦って掠れていく呻き声に、ブックマンは一瞬、眉を歪める。
ティエドールが謝罪の言葉を繰り返し、体を押さえる手に力を込めた。
は震えながら腕を上げて、親指の付け根を噛み切る。
唇が微かに動いた。

「うわっ!」

ラビが驚いて一歩後ずさった。
の手に流れている黒い血が輝き、陽炎のような揺らめきを見せる。
それと同時に、ヘブラスカの腕を幾筋もの光が走った。

「おか、しい……」

ヘブラスカの苦しそうな声が響いた。

「すまない、……『霧』を……」
「ヘブラスカ?」

怪訝そうにコムイが尋ねる。
ブックマンとルベリエ、ティエドールもヘブラスカを見上げた。

「イノセンスが……わたしを拒む……」
「どういうことだね?」
「判ら、ない……っ、……!」

の答えは無い。
ティエドールの服を掴んで震える彼の額に、脂汗が滲んでいる。

「もうやめてやれよ!」

唐突にラビが叫び、ルベリエにつかみ掛かった。
止めようとブックマンは手を伸ばす――

「く、……ぁっ」

呻き声。
刹那、ラビを取り囲み隠すように、漆黒の霧が広がった。
後方からはまばゆいイノセンスの光。
ブックマンは振り返った。
ティエドールがの名を、コムイがヘブラスカの名を呼ぶ。
戸惑うラビの声を隔てて、ルベリエの声が聞こえた。

「何があった、ヘブラスカ!」









答えを返す前に、ヘブラスカは一気に全ての手を引き抜いた。
ラビの周りの霧が消え、床に血が飛び散る。
がぐったりとティエドールの腕に凭れた。

「な、なんなんさ?」

ブックマンはの横に屈む。
首筋に手を触れると、脈拍とは思えないほど速い拍動が感じられた。
呼吸は酷く荒く、しかし弱々しい。

「息はある」

こちらを窺っていたコムイにそう告げると、彼は少し肩の力を抜いて、ヘブラスカを見上げた。

「ヘブラスカ」
「『聖典』は……封じるべきだ……」

ルベリエが眉をひそめる。

「前に聞いた話だったが……やはり……発動中の心拍数は、異常だ……」
「以前、医療班から報告があったんです」

コムイがルベリエの視線に答えを返した。

「聞いていませんが?」
「確証が無かったものですから」

しれっと答える室長の様子に、ブックマンは彼がそのことを故意に隠していたのだと確信する。
二人の間に再び火花が散った。
ブックマンとティエドールは溜め息をついてヘブラスカを見上げた。

「イノセンスがヘブラスカを拒む、っていうのは、初耳だね」

ティエドールに首肯を返すヘブラスカ。

「発動の瞬間には、まだ弱いものだったが……『霧』を使わせて分かった……
アレは……通る血液に、力を与える瞬間……同じエネルギーで心臓を締め付ける」

コムイとルベリエが睨み合いをやめて、ヘブラスカを見上げた。

「……発動に使う力と……受ける攻撃のエネルギー……
それが、そっくりそのまま、身体に、還る……今はまだ、貧血程度で済んでいるが……」
「ならば問題はありませんな」

ティエドールがゆっくりと視線を移し、ルベリエを睨んだ。
唖然としていたコムイが、やっとのことで唇を震わせる。

「……本気で、そうおっしゃっているんですか……?」
「コムイ室長。折角の臨界者です、彼にはしっかり働いてもらわなければ」
「今は、と言った筈だ、ルベリエ……こんなモノを使い続けたら……死んでしまう……」

――やめて……やめてくれ……

苦しそうにヘブラスカが繰り返す。
彼女が普通の体なら、涙を流しているのだろう。
声がだんだん震えていく。
ルベリエが横目でヘブラスカを見た。

「……『聖女』が神に身を捧げたのならば、『寵児』は当然、神に殉するべきでは?」
「彼の命は……永遠じゃない……っ」

ヘブラスカの慟哭に拳を握り締め、コムイが顔を上げた。

「二つのイノセンスを捨てるくらいなら、」

真っ直ぐにルベリエを見据える。

「寧ろ『聖典』を封じて、使用可能な『福音』を残すべきかと」
「そして火急の今、貴重な戦力を大幅に減らす訳ですな?」

ラビが二人を交互に見比べる。

「どっちの言うことが正しいんさ?」

戦力を半減、否、それ以上削ってでも余力を残すか。
大きな力が必要な今、それを早急に使い果たすか。
どちらも正論ではある。
けれどその発言の真意を比べれば。

「……長官だろうな」



「俺、も……そう、思う……」









いつ意識が戻ったのか、掠れた声で、が口を挟んだ。
瞼を上げることすら億劫そうにコムイを見つめている。
先程感じた瞳の拘束力も、随分と弱い。

……」
「何だね? 
「俺も……長官が、正しいと、思う……」

ラビがを見る。
彼に対し、初めて口を利いた。

「お前、それでいいんさ?」

返されたのは、穏やかな、しかしどこか諦観を含めた、木枯らしを思わせる微笑。

「……だってもう、決めたんだ」

傍らのティエドールが息を呑む。
蘇る、漆黒の力。
ヘブラスカが、彼の頬に触れた。

「だから、いいよ……使って、コムイ」

室長が固く目を瞑り、首を垂れる。
は笑った。

「……顔、上げろよ」

その顔色はまだ蒼く、けれど言葉を紡ぐのは、検査前と違いの無い声。

「いつか、俺に教えて」



「(まるで、人形だ)」

人間を象った、永遠の骸。
それはどこか自分達ブックマンと似ているが、本質は全く異なっていた。
全てを聞き留めて、全てを拾い上げて、全てをその懐に抱き込んで、



そして、彼は笑う。
自分の感情を踏み潰して、ただ、誰かの為に。



「これで話は決まりだ。君と意見が合って嬉しいですよ、

薄い笑みを浮かべながら、ルベリエがを見下ろす。
はそれには何も返さずに、瞼を下ろした。









静まり返った部屋で、ブックマンはコムイの背を見つめた。
彼は先程から少しも動かず、机に手をついている。

「……室長」

コムイが振り返った。

「すみません……」

大きな机を回り込み、椅子に腰を下ろす。
ソファに座るブックマンと、向かい合う形だ。
暫くの間、コムイは肘をついて手を組み、そこに額を押し当てて俯いていた。
やっと、憔悴した顔を上げる。

「……如何でした? 『教団の神』は」

聞かれることが分かっていたのに、実際に言われると答えに惑う。

「思って、いたよりも」

――人間には思えない

「貴方でも、そうですか……」

苦笑を零し、コムイは再び俯く。
今なら、が神と呼ばれる理由が分かる気がした。
同時に、ひどく胸が重くなる。
崇拝でも感傷でも無い。
心を占めるのは、ただ純粋な恐怖。

「(正気の人間が、あの場で笑えるものか)」

彼は自分がそういうものだと割り切って、それ以外の可能性を諦めているのだ。
本人の中で、本音と建前の区別がついているかすら、怪しい。
一体何年そうして過ごせば、感情溢れるあの歳で、心を漏らさずに過ごせるのだろうか。

「(見返りなど、何も無いのに)」



「室長」
「何ですか?」
「聖典の同調率を、下げてみては如何だろうか?」

コムイが顔を上げた。

「同調率を……?」
「臨界点に達するまでは影響が少なかったなら、同調率を戻せば、あるいは」

それで、少しでも彼が人間に近付けるのなら。









嗚呼、神様……









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