燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









旅人のいない寓話の中で
北風と太陽が出会うとき
果たして物語は
どちらに軍配を挙げるのだろう



Night.33 いかないで









エクソシスト達が、巨大アクマと戦っている。
全員、死んでしまえばいいのに。
ぼんやりと下界を見つめていると、不意に名前を呼ばれた。

「ミザぴょん」

ピンと背筋が伸びる。

「は、伯爵様っ」

先程の勝手を咎められるかと思ったのに、予想に反して、千年伯爵は微笑んでいた。
優しく頭を撫でられる。

「闇雲に彼と戦ってはいけませんヨ」
「も、申し訳ありません! やはり今すぐ身を投げ……」

伯爵が首を横に振った。

「我輩は、キミを大切に思うかラ、言うのでス」
「伯爵様……っ」

胸が高鳴る。
ミザンは伯爵を見つめた。

「君は大切な……我輩の、15番目のノアなのですかラ」
「じゅう、ご、ばんめ……」

近くに居たアクマの手の上から、デビットとジャスデロが顔を覗かせた。

「何それ?」
「ノアって十三人じゃなかったっけ?」

伯爵は頷く。

「そうでス。本来、ノアは十三人。
でも……お前達がまだ生まれてくる前、『14番目』のノアが居たのでス」

現在は、伯爵自身と、一族長子ロードだけが持つ、方舟を動かす「奏者」の資格。
しかし、かつてはその「14番目」のノアも資格を持っていたらしい。

「そいつが裏切って、方舟を狂わせたのでス」
「裏切り……!?」
「ノアがぁ!?」
「勿論、殺しましたけどネ」

それは、ミザンが初めて聞く話だった。
否、双子も不思議そうな顔をしている。
この千年伯爵を裏切るなんて。
ノアが、家族を裏切るなんて。

「(罰当たりな……)」
「そいつは『奏者』の資格をどっかの誰かに与えてしまったのでス」

以来、伯爵やロードでは、方舟の江戸との接続を解除出来なくなってしまった。
今となっては、その「誰か」しか、方舟の場所を移せないのだという。

「だから我輩は、新たな方舟を造りましタ。
ロードが今、古い方舟のプログラムをダウンロードしてくれていまス」

肩を竦めた伯爵が、双子を視界の中心に据えた。
真剣な話の途中だが、むくむくと嫉妬心が湧き起こる。
けれど、それすら見透かすように、伯爵がミザンの頭に手を置いた。

「ティキぽんに暗殺を頼んだ要人たちは、その裏切りノアの関係者でス。
ここまで言えば、分かりますよネ?」

ミザンは首を傾げたが、双子には思い当たることがあったようで。
揃って目を見開き、一斉に捲くし立てた。

「クロスだって! それ、クロスだあって!!
あいつティキのリスト入ってたもん! 超強ぇーし! 超エラそーだし!
持ってるよ千年公! あいつ『奏者』の資格、持ってるって!!」

キーンと耳鳴りがして、ミザンは両手で耳を塞いだ。
伯爵の口許が、二人に答えるように動いたが、どのみち今のミザンの聴覚は機能していない。
ジャスデビは気合も十分、勢いよく「クロス」とやらを捜しに飛び出した。
双子め、伯爵様のお声を……と奥歯を噛み締める。
しかし恨み言は、一瞬でどこかに消えた。
髪を柔らかく撫でる手が、包むように頬を滑り、軽く顎を支える。

「そしてミザぴょん。キミはその後に生まれた新たなノアでス」

なんて、心地好い。

「でもキミはきっと、ノアであって、ノアではないのでしょウ」

自然と上向き、近付いた顔。
触れ合いそうな距離から、ゆっくりと、含むように脳髄を侵す、甘い囁き。

「ノアのメモリーではなイ。きっと、神と我輩のメモリーを受け、生まれたのでス……ミザン」

久し振りに本名を呼ばれ、かあっと頬が熱くなる。

「はい……伯爵様……」
「キミは、我輩を裏切らなイ」

言われるまま、ミザンは頷いた。

――どうか、

伯爵が深く嗤い、レロを持ち上げる。

「チョコザイナ」

ちらりと視線を落とせば、更地と化した江戸の町。
自然と浮かぶ笑みを、隠せない。

「(死んでしまえ)」

物言わぬ者は、あんなにも美しいのだから。
人間など、滅びてしまえばいい。
滅びてしまえ。
死んでしまえ。
死んでしまえ。








――殺さないで









時間停止の庇護を抜け、火炎弾を空へ放つ。
宙で弾けた火花。
巨大アクマが何体か、こちらを向いた。

「そう、こっちだ」

ミランダに、なるべく負担を掛けたくない。
彼女は此処まで、ほぼ無休なのだ。
は他の誰とも違う方向へ、屋根の上を駆けた。
通り過ぎたばかりの家から、爆音。
ちらと振り返ると、アクマが一体、「家だったモノ」に体を向けていた。

「(一発で、あんなに……)」

走る速度を上げる。

「悪星、ギーター……」

アクマの不気味な声。
エネルギーの集まる音。
奇妙な光。
は奥歯を噛み締め、左手を強く握った。
傷痕が裂ける。

――帳――

地面と水平な盾で宙に足場を作り、その上に飛び乗る。
つい先程まで足を着けていた家が、消えた。
福音を構える。

――お兄ちゃん――

「雪冤弾」

歯車で捕らえたのは、二体。
それでも頭を狙ったからか、アクマ達はすぐに爆発した。
空気が騒ぐ。
別の一体がこちらを狙っている。
後ろへ跳んで足場を消す。
丁度その部分を、光が通り抜けた。
再び宙に浮かばせた「帳」。
もう一度、二度、後ろに退がる。

――お兄ちゃん――

「っ、制限!」

第二開放で歯車を回し、は反動に備えた。

――連射弾――

横から向かってきたアクマを牽制し、間合いを確保する。
はあ、と大きく息をついて、福音を構えた。
歯車の景色に、アクマを捕らえる。
不意に遠く、近く、空気へ割り込んだ、懐かしい二人の気配。
更に遠く、もう一人。

――雪冤弾!――

巨大アクマの胸から上が、弾幕によって弾け飛ぶ。
その胴体を、糸――否、弦が絡め取った。
は振り返ろうとして、当然ある筈の、四人目の気配が無いことに気付いた。

「マリ……」

呼びながら振り返る。
その先には、眉に力を篭めた盲目のエクソシスト、ノイズ・マリ。

「……デイシャが、死んだ」

目が熱い。
胸が詰まる。
だけど

――泣いては、いけない

元帥、フロワ・ティエドールの護衛に付いたのは、彼の弟子である三人のエクソシスト。
ノイズ・マリ、神田ユウ、そして、デイシャ・バリー。

「……生きていてくれて、ありがとう。マリ」

今までありがとう。
頑張ってくれて、ありがとう。
鮮やかに蘇るデイシャの笑顔へ、心の中で語りかける。
ありがとう。
ごめんなさい。

「ユウは?」
「リナリーの元へ……っ、向こうが手薄だ!」

何よりも先にデイシャの訃報を伝えたかったのだろう。
珍しく慌てたマリが、ミランダ達の方角を指差した。
もそちらを見た。
時間停止の壁が、無い。
聖典とは無関係に、心臓が破裂しそうなほど、激しく鼓動する。

「行け! ここは私が抑える」
「頼む」

短く言い置いて、屋根を渡り、帳を足場には駆ける。
あの巨大アクマが、ミランダと船員達に気付く、その前に。
間に合え、間に合え、間に合え、

「ミランダ……ッ!!」

耳元で、風が轟々と音を立てる。
空気が感じ取った殺気。
は最後の屋根を、強く蹴った。
倒れたミランダを抱えるマオサ。
二人を守るようにしゃがむキエとチャオジー。

様!!」
「悪星……ギーター……」

空気を裂く光。

「『帳』!」

光線と盾がぶつかり合い、ビリビリと鳴る。
船員達に背を、アクマに体を向けながら、は奥歯を噛み締めた。
心臓を鷲掴みにされたような感覚。
全身に鳥肌が立つ。
眩暈がする。
気持ち悪い。
痛い。
意思とは関係なく、涙が滲んだ。

様……!」

強く目を瞑って空を仰ぎ、大きく息を吸ってから、は顔だけで振り向いた。
彼女の荒い呼吸が聞こえる。
青ざめた顔色。

「(でも、まだ生きてる)」

焼き切れそうな思考に、何とか蓋をする。
大丈夫、きっと大丈夫。
視界に、巨大アクマが映り込んだ。
すぐさま銃を構え、雪冤弾を放つ。
「帳」を船員達の背後に張り、自分は盾を解いた正面に向き直った。

「支えててあげて」

背後へ声を落とし、目に映るアクマに照準を合わせる。

「は、はい!」
「しっかりしてください! エクソシスト様!」

――お兄ちゃん――

「(火炎弾)」

歯車が回り、離れた場所でアクマが炎にまかれた。

「……ぅ、……」

小さな声が、背後から聞こえた。
アクマの注意が逸れた隙に、は振り返り、膝をつく。

「ミランダ」

手を握る。
睫毛が震え、彼女はうっすらと瞳をのぞかせた。

「……、くん……」

船員達と一緒に、安堵の息を吐く。
優しくミランダへ笑いかけた。

「俺が此処につくよ。ありがとう、少し休んで」
「でも、向こうが……」
「ティエドール部隊が来てくれた。だから、」

――お兄ちゃん――

大丈夫。
そう続けようとして、殺気に五感を支配された。
思わず竦んだ体を動かし、上空を振り仰ぐ。
あの銀髪のノアと寄り添い、傘を掲げる千年伯爵が、明らかにこちらを見て、



嗤った



咄嗟に膝で立ち、ミランダを引き寄せ抱き締めた。
腹の底から、振り絞るように叫ぶ。

「伏せろッ!!」









何が、起こったのだろう。

「惚れるね、千年公。江戸がスッカラカンだよ」

どこか遠い所から、声が聞こえる。
目を開けると、暗闇。
慣れた目が真っ先に認識したのは、ローズ・クロス。

「(団服……?)」

覆い被さるようにミランダを抱いた、の団服に違いない。

「う、ん……っ」
「……な、何が……」

船員達の声が、後ろから聞こえた。
辺りを見ようと、ミランダは彼の肩から顔を覗かせる。
視界を埋める、一枚の大きな黒い盾。
半透明のその向こうを見て、ミランダは思わず息を飲んだ。

「え……!?」

先程まで、壊れてはいても確かに存在した家々。
それが今やすっかり消え失せ、一面の更地が広がっている。
唯一聳えるのは、リナリーを包むイノセンスの結晶。

「ん? ……ひゅー、さっすが『カミサマ』」

再び何処か、上空から声が聞こえた。
視線を横に走らせると、遠くで何人かが起き上った。
見たことのない顔。
ティエドール部隊のエクソシストだろうか。
共に旅した仲間達は皆、地面に倒れ伏していた。
そして、気付く。
ミランダの座りこむ場所には、瓦礫が残っている。
「帳」が守った範囲には、まだ物体が残っているのだ。

ピシャッ

ミランダ達を守った盾が、液体に戻る。
二人の体がずれ、彼が、ぐらりと傾いだ。

くん……?」
さん!?」

キエが手を伸ばす。
その腕に掬い取られたは、力無く凭れたまま、指先すら動かさない。
思わずミランダは彼の肩を掴み、仰向けにした。
生気の抜けた、人形のような貌。
触れた頬は、酷く冷たい。

――まさか、

「リ、時間回復!!」

血の気が引いた。
不安が涙に変わり、ガタガタと震える手で刻盤を発動させる。
聖典の副作用、若しくは、それに引き続いた最悪の事態。
どちらであっても意味が無い事だとは、あの船上で嫌というほど思い知っていた。

くん、め、目を、開けて」

光が彼を包んでも、紙のような顔色が変わる訳も無い。

「お、お願いよっ、くん、目を開けて!」

緊張で、恐怖で、息が上がる、
抱き締められていたあの時、あんなに近くに居たのに、彼の息遣いは聞こえなかった。

「お願い刻盤! ねぇっ! お願いだから!」

手を握る。
黒の手袋は、漆黒の血で濡れそぼっていた。
止まらない涙が、彼の顔を歪ませる。
誰もが慕う、温かく、優しく、どこか悲しい彼の笑顔が。
溶けるように穏やかな彼の笑顔が。

「死なないで!!」

消えてしまう。
消してしまう。

ッ!!」









「受けたのか?」

ハッと振り返ると、息を切らせた髭面の男が立っていた。
金の装飾を掲げた、黒の団服。

「伯爵の攻撃を、『帳』で受けたのかい!?」

畳み掛けるように聞かれて、ミランダはボロボロと涙を零しながら頷いた。

「ッ、何て馬鹿なことを!」

男は傍らに膝をつき、の首筋に触れる。
ミランダはその腕に取り縋った。

「わ、私の、私のっ、せいなんです!」
「キミは……」
「私が、此処を任されたのに……! わた、私が、ちゃんと、」

頭に感じる、優しい手の重み。

「落ち着きなさい。そんなに自分を責めるもんじゃないよ、が悲しむ」

見上げれば、困ったような微笑みに出会った。
しかしその表情は一瞬で、彼は厳しい表情で呼びかけた。

「マリ!」

駆けてくるのは、背の高いエクソシスト。
眉間に皺を寄せ、マリはキエが空けた場所に膝をついた。
探るように手を伸ばし、の肩に触れる。
団服のチャックを下ろして、胸に耳を当てた。

「どうだい?」
「『聖典』の影響が引かないことには……ですが、雑音に紛れて微かに心音が」
「……血は流れてるって、ことか」

男は言いながら頷き、自分の外套を脱いだ。
を抱き起こし、包む。

「師匠」

マリが声を掛け、を腕に引き取った。
いつの間にか、周囲に伯爵やノアの影は無く、リナリーを抱いたラビが、誰かと喋っている。

「私はフロワ・ティエドール。キミは?」

肩を叩かれ、半ば放心していたミランダは、ズッと鼻を啜った。
泣きながら男を見上げる。

「……ミ、ミラ、ンダ……ロットー、です……」
「ああ、キミが噂の」

ティエドールが笑った。

「うわさ……」
「『の弟子』でしょ?」

、その名を聞くだけで涙が溢れる。
ティエドールが優しくミランダの頭を撫でた。
固唾をのんで見守っていた船員達にも目を向け、彼は微笑んだ。

「大丈夫、は生きてるよ」
「ほ、本当ですか!?」
「良かった……良かった……!」

チャオジーが声を上げ、キエが拳を握って噛み締めるように呟いた。
マオサはぐいと目許を拭っている。

「だから落ち着いて。他の人の時間を、巻き戻してくれるかい?」

もきっと、そう言う。
その言葉に、ミランダは頷いた。

「……ッ、……、……、」

マリに抱えられたが、微かに体を強張らせた。
立ち上がろうとしたミランダは、思わず息を止めて金色を見遣る。
一瞬聞こえた、悲鳴のような呻き。
ティエドールが眉を下げ、彼の頬を撫でた。

「何も出来なくて、ごめんね。……ごめんね、

応えの代わりに、弱く、早く、浅い息が連なる。
目を離せないミランダの向かいで、振り切るように顔を背けたティエドール。
立ち上がり、朗々と声を響かせた。

「皆! あっちに集まろう!」









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