燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









出来ぬとやらぬは同義
神よ
全知全能の神よ
貴方がやらぬというのなら



Night.31 その色に背を向けて









かつてノアが大洪水を逃れ、第二人類の祖先を造り出した場所。
ノア一族の、人類の故郷。
それが裏歴史に於ける「ノアの方舟」である。









「方舟」の中で、回転椅子がゴーッと音を立てている。
ミザンは銀髪と白衣を靡かせ、また床を蹴った。
氷の蝶と二体のアクマを送り込んだあの日から、脳裏に見え隠れする金色。

「(忌まわしい……)」

ふとよぎった思考に、小さく首を傾げる。
金色は忌まわしい。
けれど、そう感じるのは何故?
分からない。
問答を繰り返しながら、椅子を転がす。
ちら、ちら、
金色は消えない。
頭を振り、ミザンは目的の扉の前で椅子から降りた。
千年伯爵の御前に出るのだから、こんな怠けた格好をしていてはいけない。
廊下に椅子を放ったまま、扉を開けた。









「もうじきこの方舟とも、お別れしなければなりませン。グッバイ、江戸。
来るべき『破滅的な運命(ラグナロク)』のために、」

赤ん坊の顔のようなものが、ピアノの上に浮かんでいる。
その前に立つ千年伯爵が、楽しそうに言葉を紡いだ。

「新たな資格を持つ舟に、乗り換えるのでス」
「あああああ!! 素敵ですぅぅ! 伯爵様ぁぁぁ!!」

ビクッ!!
全身の筋肉を震えさせた大柄の男、スキン・ボリック。
互いに構えていた銃を取り落とす双子、ジャスデロとデビット。
そして驚きの余り鳥肌を立てたティキ・ミックは、皆が皆、跳び上がらんばかりの勢いで振り返った。
扉の前で頬を染め、猛烈に拍手をするのはミザン・デスベッド。
拍手の勢いが強すぎて、綺麗な銀髪が宙に舞っている。

「ビビった……! いつから居たんだよ、ミザンヌ!」
「ヒ、ヒヒ! 相変わらずなんだもんね! ヒヒ!」

双子――ジャスデビが、銃を拾い上げながら声を上げる。
対してミザンもこちらを見て、片眼鏡の奥の紫を丸くした。

「おや、いつから居たんですか、皆さん」
「最初からだよ!」

デビットが苛々と怒鳴った。

「ほんっと相変わらずだな……」

苦笑したティキを見て、ミザンが嘲笑を浮かべる。
といっても、会うたびその表情をされるので、とっくに慣れ切っているのだが。

「聞いていますよ、ティキ。貴方が仕事もせずに此処へ来たこと」
「いや、俺だけじゃねーけど」

ティキの隣で、スキンが頷く。

「己もだ」
「ヒヒ! ジャスデビもだよ!」
「威張れることですカ?」
「すんません……」

千年伯爵に可愛らしく問われ、全員為す術もなく謝罪の言葉を口にした。

「……ってかお前は!? ミザンヌ! お前の仕事だけ聞いてねぇけど!」
「私はちゃんと、部屋で解剖に勤しんでいましたが?」

しれっと言ってのけたミザンの白衣には、赤かった筈の液体が、どす黒く染みを作っている。

「……それは趣味ではないのか?」

そーだそーだ!
スキンの言葉に、双子が同調して囃し立てる。
紫が、不快そうに細められた。

「貴方にどうこう言われるのは心外です。美学への侵害です。
私に問いを掛けて良いのは伯爵様、ただ一人。私が応えを返すのも、伯爵様ただ一人。
以前にもご説明申し上げたと思いましたが……ああ、貴方の頭はそこまで発達していないんでしたっけ?」

理不尽な言葉をスキンへぶつけるミザン。
ミザン曰く、「彼とは逆立ちしても美学を共有できない」らしい。
しかしティキとて、ミザンの価値観を共有しようとは思わない。

「まァまァ、喧嘩しないデ」
「は、伯爵様にご迷惑を……っ! 申し訳ありません、私、今すぐに命を絶……」
「落ち着け」

軽く頭を小突いてやると、じっとりとした目で睨まれた。
彼はこちらを見ながら、小突かれた部分に手を伸ばし、ぱっぱっと払う動作をした。

「何でそこでバイ菌扱いすんの!?」
「バイ菌さんに失礼ですよ、ティキ。訂正なさい」

涙まで流して笑うジャスデビの声が、ティキのこめかみを更に引き攣らせる。
伯爵が、笑った。

「ミザぴょんのお仕事は、もっと、ずっと、後にあるんですヨ」



――なんだ?



妙に頭に残る物言い。
しかし、ミザンは、何の疑問も無いような表情で佇んでいる。
否、そもそも怪訝な顔をしているのは、ティキだけだ。
伯爵が肩を竦めた。
頬に片手を当てている。

「そういえバ。元帥が二人も入り込んじゃったというのは、本当ですカ?」

この話はこれで終わり。
言外にそう言われた気がした。

「困りまし……」

たねェ、と続くはずだった言葉は、不意に途切れる。
唐突に頬を染めた伯爵が、ウフフ、フフフ、と笑いながら、ジャスデビに目を遣った。

「……クロスは単独で入国したのですカ?」
「あ? あー、まあ、そうだけど」
「そうですカ、別行動なのですネ……ふふっ、ウフフフフフ!」

伯爵が自分ではない「誰か」の話をしているからか。
ミザンが不満げに眉を寄せつつ、伯爵を上目遣いで見る。

「どうなさったのです? 伯爵様」
「思わぬ収穫ですヨ、ミザぴょン」

銀髪を優しく撫でる手。
ミザンは嬉しそうに目を細め、次いで優越感を滲ませた視線をこちらへ向けた。
ティキには特に、羨む気持ちは無い。

「元帥共に紛れて……『彼』が来たようデス」







その単語は、とある人物だけを指していて。
スキンとジャスデビが息を呑む。
ティキは口許を引き攣らせた。
ミザンの表情は、陰になっていて窺えない。

「さァ……」

千年伯爵が、闇へ笑いかけた。

「玩具達、我輩のコエが聞こえますカ?」









「ようこそ、日本へ!」

三百年近く、他国との貿易・干渉の一切を拒んできた日本国。
「閉ざされた国」と呼ばれ、東の果てに存在してきたこの国へは、誰も入れず、誰も出てくることが出来ない。

「……考えてみれば、うってつけの隠れ家だ。
恐らく、三百年の歴史の裏には、伯爵が潜んでいたのではないか?」

ブックマンの言葉に、人型に戻ったちょめ助が頷く。
着物を纏った彼女はなかなかに愛らしく、ラビが驚いていた。

「そうだっちょ。伯爵様は日本を拠点に、世界へ魔導式ボディを送り出してたんちょ。
日本人の九割はオイラ達アクマで、国の政は全て、伯爵様が行なってるんだっちょ」
「三百年も……」
「伯爵とアクマの楽園っすね、まるで」

外部との交流を拒むのだから、当然ヴァチカンとも繋がりが無い。
傘下の教団にも、情報が来ない訳だ。

「この国に、人間が安心して息出来る場所なんて無いんだっちょ。
まあ、それはオイラ達アクマにも言えることだっちょが……」
「ちょめ助、それってどういう……?」

話の途中、不意に、何かが空気に触れた。
前へ進もうとしていたクロウリーの腕を、咄嗟に掴む。

?」
「何か居る」

何か、居る。
しかし、不思議と殺気は感じない。
それが余計に不安を煽り、全員、息を潜めて闇を見つめる。
和服姿の女が、ゆらりと現れた。

「サチコ……」

呟かれた、ちょめ助のボディ名。
顔を輝かせて、彼女が駆け出す。

「川村! 迎えに来てくれたっちょか!」

ラビがこちらを見た。

「『サチコ』って?」

肩を竦めて微笑む。

「アイツのボディ名だって。ちょめ助、彼女は?」
「アレは仲間の川村。同じ、マリアンの改造アクマだっちょ!」

嬉しそうに振り向いたちょめ助は、川村の手を取った。

「助かったっちょ、オイラもそろそろヤバくなってきてて……川村?」

川村がカタカタと震えだす。
同時に感じる複数の気配。
川村の「皮」が剥けた。

「っ!!」

ちょめ助が鬼気迫る表情で振り返った。

「ちょめ助!?」
「隠れろっちょ! アクマが来る、早く!!」

彼女に押し込まれるように木陰に隠れ、息を潜める。
は震えるミランダの肩を抱いた。

「レベル3!?」
「三体も……っ」
「こ、呼吸するな、気付かれる! けけ気配を消せるだけ消すっちょ!」









地区内のアクマの密度が濃いと、アクマ達は共喰いをして相手の能力を奪うという。
は「福音」を握り締めた。
歯軋りさえ出来ないのが恨めしい。
川村は自分達を迎えに来たために襲われたというのに。
けれどイノセンスを使えば騒ぎが起こる。
此処で下手に存在をあらわにすることは、許されない。

「ここでは、人もアクマも関係ない。強い存在だけが生き残れるんだっちょ」

ちょめ助はそう言うが、この状況で生き残っている人間が居るのだろうか。
よく見れば、周囲にはアクマの残骸が散らばっていた。
剥き出しになったコード。
オイルが飛び散ったその様は、人間の屍体を想像させる。
目蓋の裏に、ちらつく黄昏。
胃がひっくり返りそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。
歪んだ視界が、揺れる。

「っ、……」

背を支えられる感覚。
見上げると、生き残った船員のうち、最も長身の男が心配そうな顔をしていた。

「……悪い。ありがとう」
「いいえ……歩けますか?」
「ああ」

こちらをちらと見て、リナリーを背負う船員が、背で俯く彼女に声を掛けた。

「大丈夫っすか? 気分悪いなら水でも……」
「いえ、大丈夫……ありがとう。えっと……?」

詰まった言葉。
今更ながら、彼らの名を聞いていなかったことを思い出した。
リナリーを背負う船員が、笑顔を浮かべる。

「チャオジーっていいます。船では三等水夫でした。
あっちはキエ先輩とマオサ先輩! よろしくっす、エクソシスト様」

は、未だ背を支えてくれている長身を見上げた。

「キエです。よろしくお願いします、様」
「よろしく。ごめんな、名前聞き忘れるなんて……どうかしてた」

そんな、と彼は言うが、自分達がおかしかったのは事実だ。

「俺のことは呼び捨てで構わないよ」
「え、よ、呼び捨て!? 無理です!」

あたふたするキエに、笑顔で押し切る。
だって。

「死んでいった船の仲間の分まで、頑張りますよ。この命、何なりと使ってください!」

そうでないと、いざという時に、彼らはこうして危険の前に身を投げ出してしまうから。

「いいえ」

リナリーがチャオジーに微笑んだ。

「みんなで生き残って、帰りましょう」









それは突然だった。

「げちょ……っ!」

ちょめ助が頭を抱え、しゃがみ込んだ。

「どうしたさサチコ!」
「は、伯爵様からの送信っちょ!」



――伯爵



――千年、伯爵



「伯爵から!?」
「私達の侵入がばれたの!?」
「い、いや、そうじゃないと思うっちょ……めちゃめちゃデカい送信っちょ……制御が、きかな……」

だんだんと焦点の合わなくなっていく瞳。

「……この送信範囲は……伯爵様が、日本全てのアクマを呼び集めようとしてるっちょ!!」

背に当てられた手がビクリと震え、離れた。
も息を呑む。
ちょめ助の肩を、ラビが掴んだ。

「どういうことだ、おい、ちょめ助!」
「オ、オイラは……アクマだけど……っ
マリアンの改造で、伯爵様の命令をきかなくても行動できるようになったっちょ……っ」

頭を抱え、必死に紡がれる彼女の声が、小さくなっていく。

「でも……この伯爵様からの送信は……つ……強すぎ……る……」

言葉が途切れた。
は目を細め、強く声を出した。

「ちょめ助」
「ごめんちょ……オイラ……伯爵様の元に行かなきゃ……」

虚ろに視線を惑わせ、彼女はふらりと立ち上がった。
リナリーが青ざめる。

「待って……伯爵の元って、まさか……!?」
「江戸帝都に……今……千年伯爵様が来てるっちょ……」

誰もが一瞬、言葉を失った。
はぐっと拳を握った。
思い出すのは、かつて起こった船上の戦い。

「千……っ?」
「あの」
「伯爵だって……!?」
「伯爵が、江戸にいる……」









「……俺は、行くよ」









呟いた言葉。
それは思ったよりも大きく空気を震わせた。
いくつもの視線を向けられ、は微笑む。

「だってその為に、来たんだ」

少しの沈黙の後、ラビが拳を突き出した。

「オレも! ……行くさ」

二人で苦笑しながら拳をぶつけ合う。
は立ち上がった。

「行きたい人だけって、言えたらいいんだけど、」

自分の瞳は、迷っていないだろうか。

「今は固まっていた方が、生き残る確率が高いと思うんだ」

本当は、怖い。
けれど、ここで引いたら全員殺されるだろうから。
ここで別れたら、もう二度と誰にも会えないだろうから。
ここで引いたら、誰も、誰にも会えなくなるだろうから。

「ごめんね。……皆、一緒に来て欲しい」

本当は、怖い。
けれど、自分は、それを口にしてはいけないから。
他でもない自分が、不安を見せてはいけないから。
自分は、立ち止まることなど、赦されていないのだから。
だから、微笑うんだ。

「俺を信じて。必ず、生きて帰すよ」

何が、あっても。








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