燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









追い続ければ夢は叶うと
囁いたのは、誰だ



Night.30 弔いの鐘――狂った歯車









日本家屋、鶏、酒の香。
クロス・マリアンは目を開けた。
頭を振って、夢の内容を追いだす。
いつまでも覚えていたいものではない。
けれど忘れられない、忘れたくない夢。
愛弟子が眠れない理由も、少しだけ分かる気がした。









グロリアが死んで、モージスはどこかおかしくなってしまったようだった。
家で二人の子供の傍に居た時は、少しでも立ち直ったように見えたのに。
それが、いけなかったのだろうか。
ある日のこと、クロスがいつもの酒場に行くと、店に入る前に店主に呼び止められた。

「ああ、やっと来た! マリアンさん!」

店主は安堵したように微笑んで、それから急に困った顔をした。

さん、どうかしたんですか?」
「あ?」
「最近、何かおかしくて……」

促されるまま、訝りながら中に入る。
店には、カウンター席で紙を広げ、一心不乱に何かを書いているモージスの姿があった。
傍らにはグラスが置かれてはいるものの、口を付けた様子はない。
氷は溶け切っていて、グラスに付いた水滴さえも全て水溜りを作っている。

「モージス」

クロスが呼んでも気付かない。
テーブルには、クロスの知らない言語で書かれた手紙と英語で書かれた手紙が散乱している。

「おい、モージス」
「最、近……具合……あ? ああ……クロスか」

彼は目だけを上げてクロスを見たが、すぐにまた続きを書き始めた。
クロスは隣に座る。
彼には、内容を口にしながら者を書く習慣があっただろうか。
否、そもそも、クロスの見惚れた彼の筆跡は、一体どこへ行ってしまったのか。
走り書きか殴り書きか、はたまた年端のいかぬ子供の書いた文字か。
それほどまでに酷い、字体の羅列。
大文字か小文字かすら分からない。
クロスは、顔をしかめた。

「具合って……チビ達がどうかしたのか?」
「人が書いてるときにうるせぇな……グロリアに決まってるだろ」

返された言葉を理解出来ず、しかし一瞬を経て背が凍った。

「……おい、何、馬鹿な」
「ほら、見ろよ」

幸せそうに突き出された、数枚の手紙。
クロスは反射的にそれを受け取った。

「グロリアからの返事だ」

モージスのかつての筆跡によく似た、けれど彼よりも柔らかい
――これは、の字だ。

「……モージス」

クロスの声は、もう、彼には届いていなかった。









その足で、クロスはプレイベルへ向かった。
小さな家の扉を叩く。

「はーい! あ、おじちゃーん!」

扉を開けたを、抱き上げた。

「お兄さんだって言ってるだろ、
「えへへー。……あれ? パパは?」
「ああ、今日は一人で来た」

悲しそうに黙りこんでしまった
どうしたものかと思っていると、奥からアンナとがやってきた。
が突き飛ばすようにクロスから離れ、兄にひし、としがみつく。

「あら、クロスさん」
「どうしたの? 。おじさん、こんにちは」
「だからお兄さん……っ」

クロスはふと、自分の右の腰が熱いことに気付いた。
そこには確か、預かったばかりの、しかし既に武器化されたイノセンスが入っていた筈だ。
クロスはじっとを見つめ、彼だけを外へ連れ出した。

「おじさん?」
「最近、モージスから手紙来てるか?」

は頷いた。
無表情にこちらを見上げるのは、澄んだ漆黒の大きな瞳。
何故だか「見透かされてしまった」という思いに苛まれる。
空気が全て、彼を中心に回っているような気がした。

「お母さんの返事を書いたのは、僕だよ」
「……どうして」
「だって、父さん……」

彼は少し視線を落とす。
右の腰は相変わらず熱いままだ。

「何で返事をくれないんだ、って、いつも、書いてたから」

俯いてしまった金色。
それに合わせて、空気がグッと重たく沈む。
今までにも、彼には何か特別なものを感じていたが、これほどとは思わなかった。
目と目を合わせて二人きりになったことが、なかったからだろうか。
がクロスの団服を握った。

「……ばれちゃったかな……?」

ぱっと見上げる漆黒。
神の使いが、熱く反応している。

「僕が書いたの、ばれてる?」

彼の声だけが脳を支配する。

「父さん、怒ってるの? だから、帰ってきてくれなかったの?」

引きつけられて、視線を動かすことも叶わない。
寧ろ息をすることさえ忘れて、クロスは辛うじて首を横に振った。

「いや、……大丈夫だ、ばれてない」
「本当? よかったぁ……」

ほっとしたのか、顔を綻ばせる
空気は緊張から解き放たれ、温かく、柔らかく舞い上がる。
クロスは、右の腰から黒い銃を抜いた。

「なに? それ」

見たことが無いのだろう。
臆することも無く、彼は銃に触れる。

「お前……熱くないのか?」
「え? 何が?」

クロスの手には、まるで銃が自分のを拒むかのように熱と痺れが来ているのに。
少年は銃を手に取り、しげしげと眺めていた。

「ねぇねぇ、これ何?」
「拳銃だ。そこに指を掛けて引くと、いろんなものを壊せる」
「壊す……」

クロスはを見下ろした。

「……お前にやろう」
「えっ」

彼が驚いたように顔を上げる。

「守るものがあるときに使えよ」
「や、やだよ、こんなの要らない!」

突き返された銃。

「だって、嫌だ……全部、壊れちゃうんでしょ……?」
「それでも持ってろ」
「嫌だ!!」

ガンと頭を殴られたような言葉の衝撃。
風は吹いていないのに、空気が荒れ狂う。
クロスはぐっと踏ん張って、の手にそれを押し付けた。

「じゃあ食器棚にでも飾っておけ」

釈然としない顔の
その金糸を軽くかき混ぜ、家に入ろうと促す。

「おじさんなんか、きらいだ」
「だからお兄さんだって言ってんだろ、クソガキ」









モージスとはまともに会話が成立しないまま、習慣のように酒場に通う日々が続く。
そしてまた、冬はやってきた。
その日も、クロスが酒場に行くと、カウンターの席にはいつもの金色。
しかし今日は、書き散らした紙どころかペンも持たず、ぼう、とした表情で酒を呷っている。
クロスは思わず目を見張った。
彼は自分以上に、酒には強いはずなのに。
その頬には赤みが差していて、店主が心配そうに様子を窺っていた。

「いつもの」

店主に声を掛け、クロスはモージスの隣に座った。
二人が最初に出会ったのと、同じ席だ。
虚ろな目が、クロスを見上げた。

「……ああ……クロスか……」
「お前、飲みすぎなんじゃないか?」
「疲れてんだよ、労れ」

モージスが口の端を引き上げて笑う。
以前の爽やかさは、どこにもない。
落とすようにグラスを置いて、彼は視線を下げた。
突然、綻ぶように笑った。

「明日、帰るんだ」
「明日? クリスマス休暇、取れたのか」

うん、と頷き、モージスは泣きそうな笑顔で目を閉じた。

「……やっと会える……」
「ああ、チビ達も待ってるだろうよ」
「お前も、来るか?」
「……見送りだけ行ってやる」

無粋だろ。
肩を竦めてそう言えば、一瞬目を見張った彼も、笑ってグラスを掴んだ。
ほぼ一年ぶりに見た、彼の笑顔だった。

「あのさ、クロス……」
「あ?」
「子供達のこと、頼むな」

クロスはハッと鼻で笑った。

「何訳分かんねぇこと言ってんだ」
「いや、……人なんていつ死ぬか分からないだろ」

酔っ払いの戯言かと思ったものが、急に不穏な響きを孕んだ。

「悪い冗談言うな」

けれど薄い笑みを浮かべたモージスは、続ける。

「頼む。お前に任せるのが、一番安心なんだ」
「……村人で、いいじゃないか」

自分でも、これはなかなか真っ当なことを言ったと思えた。
モージスも目を瞬かせる。

「……確かに。え、何でお前なんかに頼んだんだ。落ち着け、俺」
「馬鹿にしてんのかテメェ……飲みすぎたんだろ。今日はもうやめとけ」
「ああ、そうかもしれない」

眠るように、急に目を閉じたモージス。
落ちかけたグラスを、クロスは慌てて支えた。

「でも……頼むよ、クロス……」









――頼むよ、クロス――









母が亡くなって、ほぼ一年が過ぎた。
父からの手紙は、ひっきりなしに来ている。
自分に宛てたゲーム式の物。
そして、母に宛てた英語の手紙。
父の字は、もう以前とは比べものにならないほど乱れていた。
けれど、何枚にも渡る手紙を毎日書いているようなのだ。
それに返事を書かないなどということは、には到底、出来なかった。
例え、グロリアに成り済まして書いたものであっても。
モージスは幸せな文面で、返事を寄越すのだ。

「おーにーいーちゃーん!」

は顔を上げた。
最近字を読み始めたから隠すように、手紙を裏に返す。
母に成り済ましたこの手紙だけは、誰の目にも触れさせたくなかった。

「なにー?」

振り返りながら聞くと、コートを着たままのが飛びついた。
雪が床に落ち、にも少し掛かる。

「あのね、明日、パパがかえってくるでしょ?」
「うん」
「あのね、あの……みんなで、ましゅまろ焼いてみたいの」

サ、サーシャの家ではいつもやってるんだって!
は先程まで遊びに行っていた家のことを、上気した顔で話す。



妹はこの一年で大分わがままの数が減った。
母が死んで、彼女なりに考えたのだろう。
久し振りの「お願い」に、は考えを巡らせた。
「マシュマロ」というのは、今年になって村唯一の商店に入荷された「お菓子」。
村の子供達にとっては、初めて目にした「お菓子」でもある。
焼いて食べる方法は、確か自分の親友・トーマスも話していた。
彼に聞いて分からなければ、アンナか、それこそサーシャに聞きに行こう。
は笑って立ち上がった。

「いいよ、買いに行こっか」
「わーい!」

は赤、は青いコートを着て、手を繋いで家を出る。
真っ白な雪の上には、二人の足跡。
アンナは今、店に買い物に行っている。
さっき行ったばかりだから、きっと合流できるはず。
そうしたら三人で、少し遅い昼食を摂ることになるだろう。

「パパ、元気かなぁ」
「元気だって、手紙には書いてあったよ」
「ほんと? も早くおてがみ読めるようになりたいな」
「帰ったらまた教えてあげるね」

ぷぅ、と膨らませた頬が可愛らしくて、思わず目じりが下がった。

「父さん、おみやげくれるって」
「やったぁ! 何だろう!?」

村の教会を通り過ぎると、ようやく店が見えてくる。
明日のミサには、家の三人は参加しないことになっていた。
プレイベルの習慣では、不幸の後二年は神事に関わらないのだ。
代わりに、アンナが三人の分もしっかり祈ると約束してくれた。

「明日、楽しみだね」
「ね。ね、パパの絵、かいたの!」
「え! いつの間に!?」
「えへへー、帰ったら見せてあげるー」

遠くに、アンナの後ろ姿。
の手を引いた。

「お兄ちゃん、行こう!」

は、その手をしっかりと握った。

「うん、行こう」









――お兄ちゃん――



ぼんやりと、暗い、暗い空の色が見えた。

「おー、、起きたっちょかぁ!?」

力の篭もった、馬鹿でかい声が聞こえた。
体が揺れている。

「……っ」

周囲を見回そうと、首を巡らしかけた途端、ブックマンに押さえ付けられた。

「動くな」

そう言われても、ちょめ助の頑張りの副産物で、船自体が揺れているのだから仕方が無い。
微妙に気分が悪いのも、恐らくブックマンは気付いているのだろう。

「気分は」

隠すと後が面倒だ。
しかし口を開く気になれず、僅かに首を横に振る。
正直に伝えても面倒だったようで、ひどく顰め面をした老人に見下ろされた。
ラビが割って入ってくれたのが、ありがたかった。

「ま、揺れるしな、船だし。大丈夫、あとちょっとで江戸さ」
「ちょおっ!? プレッシャーかけるなっちょ!」
「頑張るさぁっ、ちょめ助!」
「ジュニアの馬鹿ぁぁぁ!」

少しだけ、笑えた。
大丈夫、自分はまだ、笑うだけの余裕がある。



――ミンナヲ、コロシタノハ



「――っ!」

思わず、顔を手で覆った。

?」



――ダレ



「どうした、

息が震える。

誰か、助けて
駄目、見捨てて
お願い、助けて
助けて、助けて、助けて、助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて……



――ごめんなさい



「……っ、……ん、でも……ない……」

頼むから、見捨てて









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