燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









この道の先に広がる世界が
たとえ、闇に包まれていても
顔を上げ、前を向いて
真っ先に足を踏み入れよう
この背に希望を見る人を
一瞬でも長く、守っていたいから



Night.29 もう、戻れない









リナリーも、師匠も無事だった
お前のこと、信じて良いよな? アレン……









「お前が?」

――ああ。お前は、何て呼べばいい?

「ボディ名はサチコ。でも、ちょめ助でいいっちょ」

――ちょめ助?

「ラビのつけたあだ名っちょ。気に入ったから、それで呼んで」

――分かった。ちょめ助か……アイツらしい、可愛いな

「ちょーっ。そうそう、マリアンからお前に『伝言』預かってるっちょ!」

――伝言?

「そう! ……のこと、気にしてたっちょ」









必ず生きて、辿りつけ









ぼんやりと目を開けると、微笑む女性が目に入った。

「具合はどうかしら」

ブックマンに、ラビ達とは別の部屋へ押し込まれたことまでは覚えている。
けれどその先の記憶が無い。



眠れなくなって、気付けばもう九年近くなろうとしていた。
眠れる日は、明け方に。
ようやく気を失うように寝て、一、二時間で飛び起きる日々。
それでも、度重なる「聖典」の使用で疲れ切っていたからか。
「世界」の存在に安堵して、力が抜けてしまったからか。
無理に寝かされた割には、いつもより落ち着いて眠れた気がした。



はアニタに微笑みを返した。

「大丈夫」

幾分か楽になった体を起こす。
部屋の入口に、マホジャが戸を背にして立っていた。
そしてアニタがベッドの端に腰かけ、突然、の首に腕をまわした。

「アニタさん……?」
「そのまま、聞いて」

その声は、とても明るいとは言えなくて。
「自分」の出る幕ではないと、悟った。

「……はい」
「この船から、貴方達と一緒に下りるのは、三人」

あれだけの船員が居て、生き残ったのは僅か三人。
きゅっと、胸が痛む。

「そしてその中に、私とマホジャは居ない」

思わず、は身を凍らせた。
マホジャへ目を走らせると、彼女は困ったような微笑で、頷いた。
穏やかな声が、耳元をすり抜ける。

「貴方にしか、言っていないわ」
「……そう、ですか」
「驚かないのね」

ふふ、と軽やかに笑われた。
は、深く息を吸った。

「慣れてるから」
「……ごめんなさい、貴方にばかり」

その言葉には、笑みを返すしかない。

「大丈夫」

否、今こそ、微笑みを返すべき時なのだ。



大丈夫ですよ



もう一度そう言うと、首に温かな雫が触れた。

「あとを追うなって言われたの」

師匠らしい言葉だと、小さく笑い合う。

「クロス様は、きっと怒るわね」
「……そうだね」

でも。
言葉を切って、彼女の背を撫でた。

「きっと、赦してくれる」
「……本当?」
「ええ――必ず」

返された笑顔は、涙に濡れながらも幸せそうで、限りなく甘やかだった。

「あの人が生きていて、よかった」

私、後悔はしていないの



窓の外に雨が降っていた。
きっとこの人は、雨に涙を隠すのだろうと、漠然と思った。









クロウリーが、甲板を見渡した。
エクソシスト達の前には三人の男と、マホジャ、そしてアニタが立っていた。

「あの……船員方の姿が全然見えないであるぞ?」
「あ、ホントだ」
「何処に……」

リナリーの呟きに、ミランダが震える。
その肩を、はしっかり抱いた。

「まさか……っ」

向けられる微笑が、哀しい。

「ごめんなさい。船員らには、見送りは不要と伝えました」

アニタが言った。
彼女は最期まで、自分の未来を明かさないつもりなのだろう。

「今は船内で宴会して騒いでいます」
「どうかお許しください。最期の時を、各々の思うように過ごさせてやりたかったのです」

雨が、一瞬の静寂を破る。
彼女の最期の時は、これでいいのだろうか。
疑念が募った。

「生き残ったのは……あなた方だけなんですか……!?」
「……っ!!」

涙をこぼしたミランダに、アニタがそっと歩み寄る。

「良いのです。私達は皆、アクマに家族を殺され、サポーターになった。
復讐の中でしか生きられなくなった人間なのですから」

こちらへも、ふわりと笑みを向けられた。

「我ら同志の誰ひとり、後悔はしていません」
「江戸へ進むと。我らがつくった道を引き返さないと、あなた方は言って下さった。それがとても嬉しいのです」

マホジャが笑む。
我らがつくった道。
その言葉には大きな意味があって。
だからこそは、いつものように微笑むことが出来なかった。

『勝って下さい、エクソシスト様!!』

スピーカーから聞こえた叫びが、

『我らの分まで!』
『進んでいってください!!』

心に突き刺さる。

『先へ!』
『我らの命を、未来へ繋げてください!!』









何故、自分は生きているのだろう。
何故、彼らが死ななければならなかったのだろう。
何故、たった六人の人間を歩ませるために。
こんなにも大勢の、この船一つ分の命が、散らなければいけないのだろう。

『生き残った我らの仲間を、守ってください……』
『生きて欲しいです!』
『平和な……未来で、我らの同志が少しでも、生きていて欲しい……っ』

これが、神の試練なのか。
乗り越えた先に、何を得られるというのか。

『勝ってください、エクソシスト様!!』

神は、どれほどの羊を望むというのか。

「(……主よ、)」

この道を、未来へ繋げてくださいますか









「江戸までまだ距離があら。取り敢えず近い伊豆へ、オイラが連れてってやるっちょ」

ちょめ助が支える船に乗り込む。
泣き崩れるミランダの肩を、もう一度抱いた。

「……あんなに、訓練したのに……」

震える呟き。

「どうしても、駄目なの……?」
「ミランダ」
「嫌よ、くん……いや……」

この人の前では、一粒たりとも涙を見せられない。
自分をあれほど励ましてくれた、このひとに、報いるためには。

「……駄目だよ、ミランダ」
「どうして!」
「命を取り戻すなんてこと、考えちゃいけない」

それが、伯爵の望むことだから。

「でも、」
「俺だって」

ミランダがこちらを見上げた。

「俺だって、誰も死なせたくなんかない。だけど……それでも、」



「髪……また伸ばしてね」

アニタが、燃えて短くなったリナリーの髪を撫でた。

「とっても綺麗な黒髪なんだもの。……戦争なんかに、負けちゃ駄目よ」



「それでも、俺達が道を開かなきゃいけないんだ……ッ!!」

彼らが成し得なかったことを、受け継ぐ人間がいなければならない。
神が為そうとしないのならば、



「さようなら」



自分達が、為さなければならない。









もう手の届かない場所から、向けられた笑顔。

――ありがとう

その唇の動きに、微笑みを、呼び戻す。



「アニタさん!? え……そんな……!」



「……やろう、ミランダ」
「――っ、」

彼女の背に手を添える。

「目を閉じて」

離れていく、甲板の女性達。

「深呼吸して」

あの眩しい微笑を、師に見せてやりたい。

「目を開けて。……此処に居るよ。一緒に、やろう」

ミランダが震える手を掲げた。
開かれた瞳。
涙が零れる。



浮かび上がるのは、「時間」。



誰よりも勇敢だった、中国の男達。
誰よりも慎ましく、繊細だった女性。
誰よりも美しく、強く在った女性。



礎の船が、崩れ落ちる。

「……必ず」

リナリーが呟いた。

「必ず、勝ちます」

誰もが同じ思いなのだろう。
背後に、沈みゆく船を見下ろす気配があった。

「必ず……!!」

自分達は、この船の末路を見届ける義務がある。
未来の為にと散った、大海原の道。
もう、引き返すことは出来ない。

「――主よ、」

気付けば、呟いていた。

「彼らに赦しを……」

主よ、彼らに赦しを。
どうか彼らの逝く先に、ただ平和と安寧だけがありますように。









兵士が瞼を閉じる
唸れ、凪ぐ風よ









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