燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









「世界」を
二度、失う恐怖
例え血が繋がらずとも
あの子は、確かに



Night.28 過ぎた世界の形代









頭が、ガンガンと痛む。
胸は気持ち悪いくらい苦しい。
けれどその両方が、互いを相殺してくれる。
火事場の馬鹿力、とは誰の言だったろう。

「……ああ」

ユウか。



暗い視界の中、そっと、自分に空気を引き戻す。
張り巡らせた神経の端に触れるもの。
起きている時ならば

――お兄ちゃん――

暗闇だろうと、怖くはない。
空を切って向かってくる蔓。
帳を解き、霧を広げる。
同時に銃を上げ、銃身の歯車を強く意識した。
福音を使って修行を始めた当初は、よくこれをスコープ代わりにしたものだ。
左手で右手を支え、メフィストの気配を歯車の中心に据えた。

――制限――

白く、清らかに。
罪をすすぎ流す。

――雪冤弾(クレンス)――









断末魔が、海の上から聞こえた。
視界が晴れていく。
スコープから見える丸い景色は、弾幕のような弾の嵐に染まっていた。

「クレンス……」
「貴様ァァァ!!」

霧が晴れたか、ユダが声を上げた。
は振り返った。
小型の分身を押し退けて、ユダ自身が迫ってくる。
繰り出されるその拳を避けながら、背後に回った小型のアクマに「磔」を叩きこんだ。

――お兄ちゃん――

肺の空気が押し出される。
朦朧とする意識。
ふら、と膝をつくと辛うじて、甲板が水平になったことに気付いた。
重たい腕を上げる。

――お兄ちゃん――

ユダを歯車のスコープに捕らえた。

――お兄ちゃん――

制限。
唇を動かす。
スコープの中だけを、必死に見つめた。

「雪冤弾(クレンス)」

ゴッと風の音がしたかと思うと、一瞬でその風景が弾丸に呑まれた。
遠い海上で、強い光の柱が立った。

「(……あの、方向は……)」

誰かがこちらに駆けてくる。

「――!」

名前を、呼んでる?

「――!!」

――お兄ちゃん――









俺は、誰に応えれば良いのだろう









くん!」

ヒュッ、と風を切るような、息の通る音。
胸の中で、心臓が暴れている。
ぼやけた視界。
瞬きをしてようやく、その声がミランダのものだと気付いた。

くん!」
「、……、……」

ミランダ
そう応えた筈なのに、掠れた息しか出てこなかった。
それでも、彼女は「良かった」と微笑んでくれた。
いつの間にか、体は柱に凭れている。
凍えた心が、肩に触れる手の温もりで少し安らいだ。

「みん、な……無、事……?」

やっとの思いで、それだけを音に乗せる。

「ええ、私達はね。今、ラビくんがリナリーちゃんを捜しに……」

ハッと意識が冴えた。

「リナ……っ」

少し身動きしただけで暴れる心臓に負ける。

「だ、駄目、動かないで!」
「だって……リナリ……ッ」

あの二体のアクマを二人で相手にするよりも、ラビと一緒にもう一体のレベル3を任せた方が良いと。
そう思ったから、あの時、上に行かせたのに。

「(どうして、いつも……)」

裏目に出るのか。
思い出すのはいつも、あの冬の黄昏。

――嫌だ

怖くて、恐ろしくて堪らない、地獄絵図。

――助けて

視界を染め上げる、橙色。

――だれか、たすけて



――嫌だ



――嫌だ



――嫌だ



――いやだ……



「(リナリー……)」

失いたくないのに。
もう、二度と失いたくないのに。

――お兄ちゃん――

この「世界」を守ると。

「リナリー……!」

誓ったのに。



首筋に衝撃を感じる。
そのまま意識は、闇に呑まれた。









ブックマンに手刀を落とされて、がミランダに倒れこんだ。

くんっ」
「気を失わせただけだ。しばらく……」

しばらく、何なのか。
ミランダは聞きぞびれた。

「じじい!」

聞こえたのは、ラビの声。
その後ろから、「ちょーっ」と言いながら近付く、アクマ。
彼らに抱えられるのは、光り輝く水晶のような物体。
光の中を見て、ミランダは思わずを強く抱いた。
彼があんなにも心配していたリナリーが、光の中に浮かんでいた。
ブックマンが立ち上がる。

「これは……!? どうしたというのだ……」
「リナリーちゃん……っ」

駆けよったアニタが、頭を抱えて蹲った。

「……あ……っ」
「主!?」
「いかん! エクソシスト以外近寄るな! イノセンスの気に当てられるぞ」

気に全身を触れているミランダは、確かに、身に異常を感じない。
にも影響はなさそうだった。

「(これが……イノセンス……)」

リナリーのイノセンスは、靴の形だったはず。
ミランダは新米だが、こんなイノセンスは見たことが無い。

「じじい! この物体、ホントにリナリーの靴なのかよ」
「そこは大した問題ではない! 重大なのは、武器化という拘束を解いて、こいつが勝手に動いとることだ!」

寄生型に副作用があるという話は、コムイから既に聞いていた。
そして、イノセンスが適合者を痛めつけている事例は、今、ミランダの腕の中にある。
それと全く逆の現象。
イノセンスが、適合者を救った。
これが「異例」だというのなら。

「(なら、まさか)」

リナリーのイノセンスが、「唯一」?

「『ハート』なんかねぇ?」

ミランダはビクッと肩を揺らしてしまった。
思わず放しかけたの体を、慌てて抱きかかえる。
すっかり存在を忘れていたが、アクマが、ラビの後ろでどこか可愛らしく寝そべっていた。
ラビがアクマに槌をぶつける。

「なんだよ、盗らねぇって! オイラ、お前らの味方だっつってっちょ!」
「んなすぐ信用できっか! クロス元帥の使いだと? 敵が!?」

ラビの言うことは尤もだ。
ただ、その言葉の中に、ミランダの気を引くものがあった。

「(元……帥……!?)」

彼が最大の信頼を置く人の名が、聞こえた。

「警戒を解け、ラビ」

ブックマンが弟子に命じる。

「クロス・マリアンは、アクマの改造が出来る唯一の人物だ。
このことは教団の誰も知らない、ワシだけが知っとることだがな」
「ホレみろ。ちょべべっ」

驚愕の事実を盾に、アクマが舌を出した。

「ティムがついとれば確実だ。安心しろ」

どうやらアクマは、本当に敵ではないらしい。
それどころか、この船が傾いていたときから加勢してくれていたようだ。
船が水平になったのはこのアクマの御蔭らしい。
少しだけ安心すると、不意に優しくしてくれた本部科学班の人達の顔が浮かんできた。

「アクマの改造が可能なんて。科学班の皆さんが聞いたらビックリするんじゃないかしら……」

呟きを聞いて、アクマがニヤ、と笑う。

「時間が無いっちょ! マリアンから伝言を預かってんだ!」

元帥からの伝言。
ああ、本当に。

「(聞いて、くん)」
「マリアンは死んでない。任務を遂行しようと、江戸に向かってる」

力無い体を、ミランダは強く抱き締めた。

「(生きてるって)」

哀しみに呑まれる前に、聞かせてあげたい。

「(……生きてるって)」

この世界は、怖いことばかりが起こる訳ではないのだと。









――足手まといになるなら帰れ
日本はもはや、千年伯爵の国
江戸帝都はその中枢――レベル3以上の高位アクマらの巣だ
生きて出られる可能性は、低い



クロス・マリアンの伝言、否、警告に、驚いている暇は無かった。
突如、リナリーを包んでいた物体の光が細くなったのだ。

「!!」
「なんだ……!?」
「リナリーちゃん!」

叫んだミランダの声を掻き消すような甲高い音。
物体は溶けるように消え失せ、やがてそこにはリナリーだけが残った。

「リナリー!!」

ラビが抱き起こす。

カラン、

うっすらと目を開けた彼女の手から、髪飾りが転がり落ちた。

「ラビ……わたし……わたしは……」

時間の輪が、彼女を囲う。

「まだ……せかいのなかに、いる……?」
「馬鹿ヤロ……」

ラビの目から、涙が零れた。
ミランダも、泣きながら微笑んだ。

「リナリーちゃん……っ」

イノセンスの影響を受けた部分は、「時間回復」で治せない。
それはを見て、分かっていた。
同じように、リナリーの脚も回復していない。

「ミランダ……」

それでも、髪と脚以外は戦闘前までに回復したリナリーは、こちらを見てさっと顔色を変えた。

「うそ……っ」
「あなたのこと、凄く心配してたわ」

リナリーは彼の手に、自分の手を絡ませて両手で包んだ。

「……お兄ちゃん……」

囁くような、リナリーの声。
の瞼が震えた。
ゆっくりと覗く瞳に、リナリーの顔が映った。
彼の背をゆっくり撫でる。

くん、リナリーちゃんよ。もう、大丈夫だから……」

リナリーへ、伸べられる手。
彼はまるで壊れものを扱うように、そっと彼女の頬に触れた。
何度も何度も、優しく頬を包む。
漆黒に薄く涙が浮かんでいるのは、誰の目にも明らかだった。

「ごめんなさい、お兄――」

リナリーの言葉は、途切れた。
ぐいと彼女を引き寄せ、強く抱きしめたその人の背が、震えていた。









「は……、――っ、う……っ、ぁ……、……っ」









しっかりと抱いたリナリーの肩に埋められた、彼の嗚咽。

「……な、さい……」

小さな声はやがて、金色につられたように涙に濡れた。

「ごめんなさい、お兄ちゃん。ただいま……!」

の背に、リナリーの手が回される。
しがみついた彼女の声が、震えた。
息をつく音。
彼が、顔を上げる。
少し泣き濡れた顔で、けれど柔らかく、は微笑んだ。

「おかえり――リナリー」

静まっていた船員たちが微笑み、沸き返った。
ミランダもつられて、微笑んだ。



――リナリーは、今の彼の「世界」なのかもしれない









「師匠、が……?」
「ええ、生きているって」
「進もう――ここで戻るなんて、出来ないよ。
戻ったら、ここまで道となってくれた人たちの命を、踏みつけることになる」
「リナリーに賛成ぇー」
「である」
「オレらボロボロだけどさ。でも、そこは曲げちゃイカンよな!」

誰からともなく、声を上げる。

「行こう」

江戸へ!









ミザンは手元に居る氷の蝶を、掴んだ。
この蝶からは、片割れ、日本の海に放った蝶が聞いているものと同じ会話が聞こえてくる。



神とは、絶対者。
すなわち、凍りつくアカの風景の中で、佇む存在。
そして彼らは、神を「裏切る」者。

「……人間風情が」

神の道を阻もうとは、何事か。
ミザンは氷の蝶を握り潰した。
蝶はキラキラと灯りを受けながら、砕け落ちる。

「邪魔は、させませんよ」

人間が赦しを与えるなど、おこがましい。
否、人間ごときが神を求める、そのこと自体が狂おしく憎らしい。

「やっぱりここに居たんですネ? ミザぴょん」
「――は、はは伯爵様!?」
「さア、一緒に来てくださイ。ティキぽんにお灸を据えなければなりませン」
「私がやりましょうか? 伯爵様っ」

氷に映った神が、進撃を始める。









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