燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
閃く切っ先に
喉元を貫かれたとしても
――君さえ、居てくれるのなら
俺が持つもの全て
捧げてもいいと、思えたんだ
Night.26 あの日――神を戒める鎮魂歌
「お、にい……ちゃん……?」
リナリーは恐る恐る口にした。
輝く金髪の少年は、目を見張って振り返り、そして頬を濡らした。
抱き締められたリナリーも、その腕の中で涙を零す。
彼が何故泣いているか、分からなかったからだ。
「怖がらせてごめんね――リナリー」
やがてそう微笑んだ彼の頬を伝う、雫。
あの出会いから、何年が過ぎただろう。
リナリーは壁に手をついて、息を上げながら走っていた。
――どうして
何故、病室に中央庁の人間がやってくるのか。
大聖堂に大量の棺を並べた翌日、彼女の部屋に無断で入ってきたのは中央庁の役人だった。
彼らは震えるリナリーには目もくれず、何かを探すように室内を見回した。
リナリーは怖くなり、怪我をした体に鞭打って、部屋を抜け出したのである。
――この角を曲がったら、役人と鉢合わせるかもしれない
そんな想像から、自然と曲がり角の度に鼓動が速くなる。
一体どこに行ったら逃れられるのか。
面会謝絶だという隣の病室――のもとへ押し掛ける訳にもいかない。
彷徨い歩いた結果、リナリーは屋上へ足を伸ばした。
長い階段を、手摺りを頼りに上る。
長い長い、解放への階段。
――や……と……
不思議な旋律が、リナリーの耳を掠めた。
――に……こも……せ……し……
聞いたことのない、しかし心に抵抗なく染み渡る、不思議な旋律。
――ま……なか……はな……な……
こんなにも落ち着きを与える声を、リナリーは、彼以外に知らない。
――ねが……あのひ……お……かげ……
屋上の扉を、そっと開ける。
真っ直ぐに立つのは、空気の支配者
「――幾度も……?」
彼は声を留めて、振り返った。
朝の光に輝く黄金。
リナリーは身を竦める。
「ご、ごめんなさい」
が、笑んだ。
「大丈夫だよ」
その微笑みに安堵して、リナリーはちらりと背後を窺う。
「リナリー?」
手摺りに凭れるが首を傾げた。
リナリーは笑い返す。
屋上に出て、音をたてないように扉を閉めた。
「なんでもない」
そう言ったリナリーを見つめ、彼は笑った。
こちらに手を伸ばす。
「おいで」
リナリーは導かれるままに彼の隣へ向かった。
肩に、彼の羽織っていた上着を掛けられる。
その端を掴み、リナリーは彼を見上げた。
「お兄ちゃん、面会謝絶って……」
「ああ、アレ?」
は軽く笑う。
「あそこで密談してたから、部外者を寄せ付けないようにって」
「密談……じゃあ、大丈夫なの?」
「うん。怪我した訳じゃないしね」
彼は片眉を上げた。
「リナリーこそ、安静じゃなかった?」
「う……だって、」
リナリーは時折言い淀みながら、これまでの経緯を話した。
聞き終えたはしばらくこちらを見つめ、そうか、と呟く。
リナリーの肩に手を回し、引き寄せた。
「もう……」
「え?」
風に流されて、途中から何を言ったのか、聞こえなかった。
聞き返すと、彼は何でもないよ、と答えた。
リナリーはを見つめた。
「何でこんな所に居たの?」
が視線を外した。
空を見上げて。彼は柔らかな笑みを頬に乗せた。
リナリーもつられて上を見る。
澄み切った、青い空。
「空……綺麗だろ?」
「……うん……」
何処までも続いていく広い空を、彼は見つめた。
肩を、ぐっと抱かれる。
リナリーは横目で彼を見た。
気のせいだろうか。
笑っているはずなのに、まるで痛みを堪えるかのよう。
強く、儚い微笑み。
奥歯を強く噛んでいるのが、何となく分かる。
「さっきの歌、もう一回、聞きたい」
ぽつりと言うと、はリナリーに目を遣り、ふ、と笑った。
「いいよ」
やがて 兵士が瞼を閉じる頃
広がる朝焼け 霞みゆく夢
始まりの予感 出会いの道標
浮かぶのはただ 消えない面影
伸ばした 指の先の光
揺らぎ 廻れど
高く昇る陽は 遥か遠く漂うだけ
唸れ 凪ぐ風よ
さればもう一度届くだろう
緑を渡り あの人の元へ
やがて 兵士が瞼を閉じる頃
滲んだ木漏れ日 刹那の調べ
微睡みの中で 色づく花の名前
願うのはただ あの日の面影
幾度も 光を追う瞳
揺らぎ 臥す度
沈みゆく陽は 甘く深く抱き留める
歌え 凪ぐ風よ
決して立ち止まることなく
遠ざかる あの人の元で
やがて 兵士が瞼を閉じる頃
麗しき花弁 はらり一片
出会いは別れ 満点の星空
思うのはただ 愛しき面影
二度とは 還らない光
時の 狭間で
また会う日を 永久に待ち詫びるだけ
向かえ 凪ぐ風よ
暗い道で迷わぬように
眠りの森の あの人の元へ
歌い終わった彼は、目を細めた。
その顔は、何故だか、ひどく哀しそうに見えた。
「戻ろうか、リナリー」
いつもの微笑みに、リナリーは頷いた。
風に吹かれながら、二人は屋上を後にする。
こちらを気遣ってか、いつもよりゆっくり階段を下りる。
リナリーは手摺りを掴み、慎重に段を下りた。
「昨日、ブックマンって人達が来たんだって」
彼は頷いた。
「らしいね。コムイから聞いた」
「もう会った?」
「まだ。でも……」
は宙を見て、苦笑した。
「すぐに、会うかな」
妙に確信をもった声音。
聞き返そうとしたリナリーの耳に、慌てた声が聞こえた。
「!」
揃って声の方向に顔を向ける。
階段を駆け上がってきたのは、ティエドールと神田。
ティエドールはふう、と息をつき、疲れた顔に笑みを浮かべた。
「良かった……もう連れてかれたかと思った」
が苦笑を返す。
「すいません、ちょっと屋上に居ました。何でユウが居るの」
「ちっ、お前探すの手伝わされたんだろうが」
「あー、ごめんごめん」
全く謝る気のない謝罪。
リナリーには神田の血管が切れる音が聞こえたような気がした。
ティエドールは弟子を宥めつつ、を促した。
「取り敢えず場所を移そう。ここだとすぐ……」
「居たぞ!」
リナリーの体が、震えた。
ティエドールと神田が振り返る。
リナリーはが掛けてくれた服を、無意識に掴んだ。
あの制服は、中央庁――
視界を、背中が遮った。
響く靴音が、リナリーの意識に色を落とした。
「ユウ、リナリーよろしく」
そう言い置いて、彼は階段を下りていく。
ティエドールが手を伸ばした。
「待っ……」
「大丈夫です。もう、決めたので」
強く放たれた言葉に、元帥は何も言わず彼に続いて階段を下りた。
中央庁の役人が何人か、その下で彼を待っている。
リナリーは手摺りを強く握った。
「お、にい……ちゃん……?」
彼は振り返った。
金色が、仄かに輝いた。
「怖がらせてごめんね――リナリー」
その微笑みは、優しく、落ち着いていたというのに。
彼の頬を、涙が伝ったような気がした。
嗚呼、神様……
ふと、は目を開けた。
息が熱い。
額に手を遣ると、生温いものに触れた。
滑り落ちる、濡れタオル。
ゆっくりと身を起こす。
「くん」
ミランダが振り返った。
チェスに興じていたブックマンとクロウリーもこちらを見る。
「具合はどうだ」
ブックマンが立ち上がり、やってきた。
どうやら少し横になるつもりが、随分長い間眠っていたらしい。
「あ……大丈夫」
笑ってはみたがこの老人に通用するわけもなく、呆気なく手首に触れられた。
思えば、手袋を付け忘れている。
「ティム、手袋取ってくれる?」
舞う金色に、クロウリーがああ、と瞬いた。
「の物だったであるか」
「うん、忘れてた。サンキュ、ティム」
何とか口で布を引っ張り、右手分をはめる。
「大人しくしろ、馬鹿者」
「だから平気だって」
視界の端で、ミランダがハッと立ち上がった。
「ど、どうしたであるか? ミランダ」
彼女は震えながら、訝るような表情で言った。
「今……この船のどこかで連続して時間回復が起きています」
時間回復(リカバリー)。
ブックマンが手を放した。
は左手を手袋に通した。
「甲板……? 攻撃を受けています!」
新しい団服は、思ったよりも軽かった。
床を蹴り、一歩で扉に肩を当てる。
破るように、戸を押し開けた。
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