燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
覚悟が足りないのは
自分なのだと
だから
いつも間に合わないのだと
分かって、いたのだ
Night.25 秤
ゴミのように投げ捨てられた死体。
否、確かにゴミだ。
解剖しつくされた死体など、ただの肉片でしかないのだから。
赤黒い飛沫のついた壁を、ティキは見回した。
ミザンが、メスを片付けながら問う。
「何の用です? ティキ。
貴方はそうやって毎回毎回私に断りもせずに部屋に入ってきて。迷惑です。非常に」
ふーっ、とわざとらしい溜め息。
「これはプライバシーの侵害ですよ、全く」
「いやー悪い悪い」
「……全っ然悪いと思っていませんね」
回転椅子で軽快に部屋の中を滑り、移動するミザン。
ティキは汚れていない適当な場所に腰かけた。
「俺さぁ、さっきアレン・ウォーカーっての殺ってきたんだよね」
ミザンが苛立たしげに舌を打つ。
「それが私と何の関係があるというんですか、貴方ごときの仕事に興味はありませんよ。
伯爵様に関するお話でしたら、貴方の声でも我慢して聞いてやりますけどねっ!」
「すいません、それは無いです」
輝く瞳に負けて答える。
ミザンは用済みだ、と言わんばかりの白い目でティキを見遣り、片付けを再開した。
ティキは溜め息をつく。
ロードに聞いたのだ。
ミザンが「神」に興味を示したと。
あの時――ティキに掴みかかったあの時のように。
それは興味というには幾分か歪んだものだったようだが。
「ミザニーをあの人に会わせちゃ駄目だよ」
ロードは、そうティキに忠告した。
けれど駄目と言われればやりたくなるのが人の性。
「生きたもの」に興味の無いこの男が、どうして「生ける神」に執着するのか。
ティキが、興味を持ったのだ。
「アレン・ウォーカーってな」
驚いたように振り返るミザン。
「まだ居たんですか!?」
「気付いて無かったんですか!?」
驚いたのはティキの方だ。
怪訝な顔で、ミザンが後ずさる。
「貴方どれだけ私と話をしたいんですか。
ハッ……!
まさか、自分の声は伯爵様の麗しいお声よりも美しいとか、そんな大それたことを考えているんじゃないでしょうね? 思い上がりにも程があります。
っていうかドン引きですよドン引き、マジで」
「お前にドン引きだよ」
ティキは呆れながら言った。
「アレン・ウォーカーって、・の弟弟子なんだって」
ミザンが片眼鏡の奥で目を細めた。
「……? なんですか? それ」
誰、と聞かないのが彼らしい。
少し緊張して身構えながら、ティキは口を開いた。
「――『神様』の名前」
ティーズが一羽、舞った。
「ハイ、リナリーちゃんのはコレ」
「ありがと……」
ミランダはリナリーに優しく微笑んだ。
まだ少し元気がないようだが、何とか立ち直ってくれた。
こっそり安堵の息をつく。
「(あとは……)」
残るは、。
リナリーとラビが戻ってくる前に、一人でどこかへ行ってしまった。
ブックマンによると「聖典」を乱用したそうで、ミランダとしては気が気でない。
「シャワー、借りられるかな」
リナリーの呟きに、我に返る。
慌てて笑顔を向けた。
「誰か船員さんに聞いたら教えてくれると思うわ。行きましょう」
まさか彼女に此処で着替えろという訳にもいかない。
二人は連れ立って船長室を出た。
「新しい団服はスカートじゃないんですって」
「え、そうなの? なんか新鮮」
「ふふっ」
不意にリナリーが足を止めた。
「リナリーちゃん?」
彼女は一点を見つめ、呟いた。
「……お兄ちゃん……」
視線の先に舞う、金色のゴーレム。
船の縁に寄り掛かり、外を見て佇む青年。
ティムキャンピーが、彼の頬に擦り寄っては、離れ、また身を寄せる。
リナリーが目を細めた。
心配とはまた違った、呆けた眼差し。
無意識だろうか、彼女は小首を傾げた。
想いを馳せる、切ない瞳。
そんなリナリーの表情を不思議に思い、しかしミランダは微笑んで肩を叩いた。
綺麗な黒が、ハッとミランダを見た。
「私が行くわ」
「うん……お願い」
彼女はシャワー室を捜しに歩き出す。
ミランダは、少し落ち着こうと息を整えた。
深呼吸の最中に目を開けて、驚き、走った。
の体が傾いた。
「くんっ」
間一髪で、倒れる前に彼のもとへ辿りついた。
ミランダの反対側から、ティムキャンピーが団服を引っ張っている。
支えるのが精一杯、持ち上げるなんて、とても出来ない。
しかし手摺りを頼りに、が自力で持ち直した。
手摺りに腕を乗せ、顔を埋める。
忙しなく肩で息をしている。
ティムキャンピーが困ったようにミランダの肩に乗った。
ミランダは躊躇いつつ、声を掛けた。
「……くん」
聞かなければ、彼はまた一人で抱え込むだろう。
「ど、どうして……『福音』を使わなかったの……?」
約束、したのに。
死のうと思わないで、と。
確かに、頷いたのに。
「……から」
何かを、呟いた。
彼は顔を上げ、斜め下だけを見て、呟いた。
「……怖かった、から」
ティムキャンピーが手摺りに乗って、彼を見上げる。
「……想い出が……怖かったから……」
ミランダは小さく首を傾げた。
「聖典」と違って、自分は全く関係ないであろう、「福音」の記憶。
――触れて、壊してしまったら……
迷う心を、拭い去る。
彼に、心から、笑ってほしいから。
「……想い出?」
が唇を噛んだ。
息の調子が、乱れる。
「……俺の……『世界』が……消えた、時……」
今、話しているのは、本当に「・」だろうか。
ジレーアの話をした時でさえ、まだ強い瞳をしていたのに。
視線を彷徨わせ、震えながら手摺りを掴む姿。
それが酷く痛ましくて、ミランダは背に当てようとした手を、思わず下ろしてしまった。
「一番、思い出したくないのに……覚えてるんだ」
今にも泣き出してしまいそうな、表情。
いや、見ているミランダの方が、また泣いてしまいそう。
「色も、音も、声も……匂いも、温度も、感触だって……」
は固く目を瞑る。
「……今、その場に居るみたいに……」
彼は目を開けて、泣くように笑った。
「……『福音』で、第二開放が出来ることくらい、知ってるよ」
震える、声。
「俺は……最初にそれを、発動させたんだから」
嗚呼……
胸が、熱くなる。
吐く息が、掠れる。
ミランダは唇を噛んで、首を横に振った。
悲しい。
哀しい。
涙は、零れなかった。
彼の言う「世界」は、ミランダの思っている世界とは違う。
の、心の真ん中にあった、全てだった、筈のもの。
「……情けない」
が呟いた。
「何のために……力があるんだろう……」
虚ろな眼差し。
「……覚悟出来てないのは、俺の方だ」
思い出したくない過去は数あれど、ミランダはそれと命を秤にかけることは、出来ない。
死ぬよりも辛い過去。
死ぬよりも苦しく、哀しい想い出。
「……怖がったって……いいじゃない……」
そんなもの、誰が我慢しろと言うだろう。
「こ、怖いものが、あったって……」
「福音」が生まれたのと同時に消えた、命。
「くん」
彼の「世界」。
「っ、そうやって……俺の守りたかった人は、皆死んだんだ!!」
ミランダは彼の背に手を当てた。
もう、迷わなかった。
「貴方は……何も悪くないの」
イノセンスが二つあれば、片方が使えなくても戦える。
聖典では、ない。
が使えない「片方」とは常に、聖典ではなく、福音だったのだ。
彼が誰かを守るには、命を削るしか、なかったのだ。
「そうして……そこまでして……守ろうと、したなら」
ミランダは首を振る。
「それ以上、他に何を覚悟するというの?」
命を投げ出したその先に、何が残っているというのだろう。
聖典を使うな、とはとても言えない。
けれど、彼が自分を責める言葉だけは、もう聞きたくなかった。
未だ震える手を、自分の手でそっと包む。
冷え切った、力の篭もった手。
ティムキャンピーがはばたき、彼の肩に乗った。
「怖がったって、いいのよ」
自分が、この人を少しでも癒すことが出来るなら、いいのに。
「くんは、人間なんだから」
包んだ手に、力を入れた。
「怖くなったら……わ、私達の……所に、帰ってきて」
困ったように、がこちらを見る。
「貴方の『世界』には、きっと足りない、けど、」
ミランダは彼がするように、微笑んだ。
「こ、心の隙間を……小さくすることなら……きっと、出来るわ」
手から、力が抜けていくのが分かった。
彼は俯き、小さく頷く。
ミランダは空気を変えようと、笑った。
「なな、中に入りましょう? 私、室長さんから新しい団服を預かってきたの」
の手を引く。
先導するように、ティムキャンピーが舞い上がった。
「……団、服……?」
「え、ええ。皆もうボロボロだろうからって」
船長室へ入ると、ラビ、ブックマン、クロウリーの三人が一斉にこちらを見た。
とラビが目を合わせる。
緊張の一瞬。
ラビが黒い塊をへ放った。
が難なく受け取ったものは、漆黒の銃。
「福音」。
「さっきは、ごめん」
ラビの目を見つめ、が呟いた。
肩を竦めて、ラビは笑う。
「怒ってなんかいねーさ。驚いたけどな」
ミランダはホッと胸を撫で下ろした。
トランクからの団服を出し、手渡す。
「わわ、私、外に出てるわね」
「うん……ありがとう」
は少しぎこちなく、しかしいつものように笑った。
笑顔を返して、ミランダは部屋を出る。
扉を閉めて、座り込んだ。
顔を手で覆う。
涙が溢れて、止まらなかった。
新しい団服は、七分袖だった。
前身頃も中心だけは、鳩尾の少し下に裾がある。
残りの部分は全て、足首に至るほどの丈があり、一見マントのようにも見える。
はミランダに渡された鍵を、内に仕舞った。
クロウリーが笑顔を浮かべた。
「よく似合うである」
同意するように、ティムキャンピーが頷く。
は微笑んで、机の上に置いていたベルトを手に取った。
ナイフを取り付ける。
次いで、真新しいホルダーを見つめた。
隣に並べた古いベルトから、銃を取り出す。
手に掛かる重み。
は少し目を背け、新しいホルダーへ銃を収めた。
「」
紫煙を燻らせ、ブックマンがこちらを見ていた。
少し微笑って、はベルトを締めた。
ホルダーは、「福音」は、いつもの位置に落ち着いている。
「ごめん、ブックマン」
頬に寄ってきたティムキャンピーを、軽く撫でた。
「次は、やるよ」
濡れた水音。
シャワーから零れた水滴が、断続的に音を響かせる。
リナリーは新しい団服に袖を通した。
先程見た、彼の背中。
まるで泣いているかのような。
それでもなお立ち続ける、酷く悲しい背中。
思い出した。
あれは――「あの日」見た、彼の背中に、よく似ている。
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