燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
不安を、声に出したくない
信じ続ける
どんなに胸が苦しくても
焼けつく思いが込み上げても
声にすると
それが現実になってしまいそうだから
Night.24 呼び声に揺れる
「アレン」
「……兄さん」
よっ、と勢いをつけてマストに上がり、アレンの隣に座る。
呆ける弟弟子に笑顔を向けた。
「何してんだ? こんなとこで」
「あ、いえ……」
アレンは口ごもり、俯いた。
「……兄さんは、師匠が本当に生きていると、思いますか?」
顔を上げ、こちらを見つめるアレン。
はしばらく彼の顔を見返し、眼前に広がる海を見遣った。
「どうだろうな」
アレンが息を呑む。
は目を閉じて苦笑した。
「あの場ではああ言ったけど……根拠はねぇよ」
クロスは装備型のイノセンス。
アクマに撃たれでもしたら、跡形もなく砕けるだろう。
「信じようぜ、アレン」
不安げなアレンの目を見て、微笑む。
「あの人が、俺達に何も言わずに死ぬ訳ないって」
少し悪戯に片眼を瞑った。
「あんなに借金背負わされたんだから、それぐらいしてもらわないとな」
アレンが噴き出した。
「そうですよね、謝ってもらわなきゃ……あれ、過去形? え、兄さんもしかして全部返しきったんですか!?」
「あ? 当たり前だろ? あんなものいつまでも溜めてたら増える一方じゃねぇか」
「嘘だ! 僕の倍はありましたよね!? どうやって……」
「ガッと稼いでパーッと返す」
「ああ……貴方にはそれがあるんだった……」
肩を落とすアレンを見て、それは自分以外には出来ないことだと思い出す。
はアレンの肩を叩いた。
「半分くらいなら、払えると思うけど?」
「ほ……ほんとですか!? いいんですか!?」
顔を輝かせたアレン。
微笑み返そうとした瞬間、彼の左目が反応した。
アレンが立ち上がり、も座っていた棒に足を付けて、同じ方向を見る。
「まだ遠い……」
アレンの呟きに目を凝らす。
空を埋め尽くすほどの点が見えた。
「おい」
傍らに確かめる。
「……アレか?」
アレンも気付いたようで、体を強張らせた。
「みんな! アクマが来ます!」
はホルダーに手を掛けながら、下へ跳ぶ体勢を作った。
不意に肩に置かれる手。
「兄さん!」
見上げる。
泣きそうな表情。
「聖典は駄目ですよ!」
は苦笑した。
「分かったよ」
甲板へ、跳び下りる。
着地と共に銃を抜く。
発動に、少しだけ躊躇した。
アクマが迫る。
前を、見据える。
「福音」
――発動
十字架が輝き、銃が一回り大きくなる。
「!」
ラビが背中合わせに槌を構えた。
上ではアレンが迎撃する音が聞こえる。
視界いっぱいのアクマが、風を轟かせて飛んでいく。
は不審に思い、顔を上げた。
「何で……」
ラビも上を見る。
「舟を通り越してくさ……!?」
肩越しに顔を見合わせる。
「うわっ」
上空から声が聞こえた。
振り仰ぐ。
背筋に、氷が触れた様な気がした。
「アレン!!」
連れ去られたアレンを追おうとするが、その前にラビが槌を構えた。
「伸……っ」
「あー」
妙に無機質なこの声は、紛れもなく――アクマ。
は振り返る前に、背後へ銃口を向けた、
火炎弾を放ち、ラビと共に振り返る。
ラビが槌を構えなおした。
「くそっ、見つかったさ!」
アクマの襲撃が始まる。
その中に一つ見える、結界装置の輝き。
は駆けた。
見たところ、アクマはどれもレベル2。
結界装置では、保たない。
「回転」
――連射弾――
結界装置が破られる。
はその場へ飛び込み、手を払うようにして左右のアクマを撃った。
「!」
そこに居たのは、アニタとマホジャ。
「怪我は?」
尋ねた瞬間、背後から悲鳴が聞こえて、は振り返りざまに弾を放った。
船が揺れる。
海上で船を囲んでいるアクマ達を一掃するが、次々と新しいアクマが現れ、埒が明かない。
ラビが後ろに立ったのが分かった。
「この数、判でも追いつかねぇさ!」
彼の言う通り、何百というアクマが、一つの船を襲っている。
は思わず歯軋りをした。
福音の一対一では、分が悪すぎる。
腰のナイフに手を伸ばそうとすると、ラビが背中越しに言った。
「、福音の同調率96って言ってたよな?」
またも向かってくるアクマ。
ラビは槌を振り、は引き鉄を引いた。
「そう、だけど」
「第二っ開放!」
槌を大きく振ってアクマを叩き壊すラビ。
荒く息をつき、肩越しに振り返った。
「できんじゃねぇ?」
福音で第二開放が出来ることくらい、は最初から知っている。
船の各所を襲う、アクマの大群。
こちらにも迫る集団。
は銃に目を遣った。
唾を飲み込む。
――出来るか?
両手で銃を握り、力を込める。
自分を奮い立たせるため、声に出して、名を呼んだ。
「福音!」
十字架が輝きを増した。
狙いを定めようと、顔を上げる。
「第二――」
――お兄ちゃん――
景色が揺らいだ。
一色に染まる、空。
息の仕方を、忘れた。
浮かんでは消える、風景。
黄昏の連鎖。
音の洪水。
――お兄ちゃん――
愛しい響きだった、筈なのに。
――お兄ちゃん――
どうして。
今は、呪いの言葉にしか聞こえない。
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
「!!」
ラビの、声。
――お兄ちゃん――
ひゅっと音を立てて、突然、空気が喉を通っていく。
――お兄ちゃん――
眼前に、アクマが迫っていた。
――お兄ちゃん――
腕のような固い部分で殴り飛ばされた。
――お兄ちゃん――
空を切った体はマストにぶつかり、甲板に落ちる。
――お兄ちゃん――
体の痛みは、全く苦にならなかった。
――お兄ちゃん――
声が、止まらない。
重なり合うように、さまざまな感情の声が響く。
周囲では轟音がしているはずなのに、何も耳に入ってこない。
頭が、割れるように痛い。
――お兄ちゃん――
は両手で頭を締め付けた。
――お兄ちゃん――
聖典の副作用なら、まだ耐えられるのに。
――お兄ちゃん――
「火判!」
前方からの声。
肩を揺すられた。
「おい、! しっかりしろよ!」
――お兄ちゃん――
その声をかき消すように。
――お兄ちゃん――
呼び声が、止まらない。
「!!」
目を開けるのが、怖い。
――お兄ちゃん――
研ぎ澄まされた感覚。
殺意の形が見えた。
目を開け、落ちていた硝子に手首を滑らせる。
驚くラビの背後に迫るアクマ。
片手で頭を押さえながら、は叫んだ。
「帳!」
ラビがハッとして振り返る。
張られた盾。
は手首を返した。
軽く上へ向ける。
瞬時に形状を変える液体。
「磔」
胸に走る痛み。
少しだけ、呼び声が紛れた。
明瞭になる思考。
自分が、情けない。
立ち上がる。
視界が揺れる。
どこからか悲鳴が聞こえて、は一歩踏み出した。
「!」
振り返る。
「何やってんさ、ほら」
ラビがこちらへ銃を投げた。
――お兄ちゃん――
心臓が止まりそうになる。
は銃を振り払った。
「……?」
ラビから顔を背け、アクマだけを見据える。
――お兄ちゃん――
「聖典」
死ぬことより、想い出の方が怖かった。
「聖典!」
胸が、熱い。
「聖典!」
明るく笑う、金髪の少女。
ツインテールの、小さな、女の子。
――お兄ちゃん――
彼女が笑う。
は固く目を瞑った。
声が枯れるまで叫んだ。
「聖典!!」
目を開けると、疲れた様な顔のクロウリーが、自分を覗き込んでいた。
彼はホッと息を吐き、笑った。
「ああ、良かったである……ブックマン!」
朦朧とする意識の中、身を起こそうとすると、慌てたクロウリーに押しとどめられた。
「駄目である、! さっきまで……」
手を押し退ける。
「……もう、うごけるよ」
「し、しかし……っ」
「この、馬鹿もん!!」
突然の怒鳴り声に、背を支えようとしてくれていたクロウリーが跳び上がった。
ブックマンの剣幕を、は無表情で見つめた。
「アクマを倒したとて、お前が死んでは意味がっ」
「……わかってるよ」
「ならば答えろ、! 何故『福音』を使わなかった!!」
珍しく声を荒げるブックマン。
は、答えた。
「福音が、使えなかったから」
老人が顔をしかめる。
は、ごめんと小さく呟いた。
ふと、目を上げる。
「……アレン、は……? リナリーと、ラビは……?」
大きなため息をついて、ブックマンが後ろを向いた。
気まずそうに、クロウリーが言った。
「二人はアレンを捜しに行ったである」
「捜す……」
「リナリーが追ったのだが、……見失ってしまったらしいのだ」
クロウリーの言葉に、は短く息を吐いて視線を変えた。
軽く首を振り、目を閉じた。
――大丈夫、きっと、見つかる
「お、おい、アレ!」
「アニタ様!」
船員の声。
とクロウリーは顔を上げ、声の方を向いた。
船の布置に駆け寄る、アニタとマホジャ。
ブックマンが問う。
「いかがなされた」
アニタが振り返った。
「教団の方が……」
「教団?」
船の梯子が軋む。
「ひぃっ!」
聞いたことのある悲鳴。
「あああ、大丈夫ですか?」
「え、ええ……ごめんなさい」
甲板へ上がった人影。
大柄な男と、立派な黒い団服の――
「……ミランダ……?」
彼女がこちらを見た。
「くん!」
顔色を変えて、駆けてくる。
目の前にしゃがむと、少し慌ててから、持っていた外套をに被せた。
「だだ、大丈夫!? 真っ青だわ、手も冷たいし……」
「いや、あの……」
男が、の前で礼をする。
「お久し振りでございます、殿」
クロウリーが不思議そうにに耳打ちした。
「誰、であるか?」
「アジア、支部長……補佐役……」
「サモ・ハン・ウォンにございます」
言葉を引き取って、ウォンはクロウリーにも礼をする。
は彼を見上げた。
ブックマンが、誰よりも先に尋ねた。
「本部から何か連絡が?」
「いいえ、我ら支部長の伝言を」
「バク……?」
は呟いた。
バク・チャン。
一番最初に、を「神」と評した男。
懐かしい。
「あいつが、何だって?」
の問いに、ウォンが淡々と答えた。
「こちらの部隊のアレン・ウォーカーは、我らが発見し、引き取らせていただきました」
とクロウリー、アニタやマホジャは互いに顔を見合わせた。
ホッと息をつく。
「良かった……」
アニタが呟き、は小さく笑った。
「ラビ達は無駄足か……アレンは、今?」
ミランダが、の肩を掴んだ。
「殿」
ウォンが屈み、の手を取った。
温かな手が、冷えた指先を包んだ。
「あなた方は、このまま出航なさりますよう」
は、ウォンを見上げた。
「アレン・ウォーカーとは、中国(ここ)でお別れです」
何と言っているのか、分からない。
ウォンが慌てたように付け加えた。
「くれぐれも早まるな、とバク様が……殿……?」
クロウリーや船員たちの重い沈黙。
ミランダの声も、耳に入らない。
――
――兄さん
二人の影が、遠ざかる。
「……嘘、だろ……」
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