燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
肩に乗せた全てを
必死に守ろうとしたのに
貴方は
永遠に終わらない始まりを
僕の世界に、もたらしたのだ
ああ神様――僕は、
Night.23 弔いの鐘――世界の涙
父は決まって「」と呼ぶ。
夕飯を共にする隣家のお婆さんも「」。
「お兄ちゃん」と呼ぶのは。
この家で「」と呼ぶのは、母だけだった。
が毛布にしがみついて泣いている。
隣家のアンナお婆さんが、グロリアの手を握った。
アンナは一人身の老婆で。病床のグロリアに代わり、との面倒を見てくれた人だ。
「グロリア、しっかりなさい。ほら、が泣いているよ」
村で唯一の医者は、グロリアと同じ年に生まれた幼馴染だ。
彼は部屋の隅で四人を見守っている。
彼に出来ることは、もう無い。
は、からもアンナからも、一歩引いた所に立っていた。
連絡をしたのに、モージスが帰ってこない。
何度も窓と時計に目を遣るが、汽車が来る気配はない。
アンナが振り返った。
「」
呼ばれて、駆け寄った。
アンナからグロリアの手を託される。
細く弱く、しかし美しいその手をしっかり握ると、柔らかく握り返された。
我慢していた涙が、零れそうになった。
「……」
「何? 母さん」
――良くなるなら、何でも、するから
「ピアス……取って、くれる……?」
は頷き、母の耳にある黒く小さなピアスを外した。
母に見せて、手に握らせる。
グロリアは微笑って首を振り、手をに押し付けた。
「これと……ロケット……に……」
枕元の机の上に置かれた、金色のロケットを見る。
中には、家族で撮ったたった一枚の写真が入っていたはずだ。
「これは……母さんの宝物でしょ? 駄目だよ」
が首を横に振ると、グロリアは掠れた声でいいのよ、と言った。
「のこと……パパのこと……お願い、」
の泣き声が、いっそう大きくなる。
「……いつも……あなた、には……何、も、出来なくて……」
大きく、小さく、繰り返される呼吸。
アンナが背後で膝をついた音がした。
「ごめんね……でも……おねがいよ、……」
はもう一方の手で、母の手を包んだ。
彼女を安心させたくて、泣かずに、笑った。
「大丈夫、僕に任せて。だから……」
ふふっ、と嬉しそうにグロリアが声を上げた。
頬を優しく撫でられる。
「パパに……似て、きたね……」
うっとりと眼を細め、彼女は微笑んだ。
そのまま、目を閉じる。
「……あなた……」
殆ど声にならなかった、最期の言葉。
それは、一瞬。
「ママぁぁぁ!!」
がありったけの声で叫んだ。
アンナと医者が、嗚咽を漏らした。
握っている手は、まだこんなにも温もりを残しているのに。
ドアが音を立てて、開いた。
「!!」
叫んで入ってきたのは、小太りの少年。
同い年で一番仲の良いトーマスが、息を切らせていた。
「汽車……来る、よ!」
は弾かれたように立ち上がった。
アンナの制止に返事もせずに、家を飛び出した。
いつもは羽のように軽く駆け下りる坂。
涙が視界を塞ぐ。
足が縺れて、派手に転んだ。
は鼻を啜り、起き上がる。
袖で痛いほどに目を擦り、もう一度駆けた。
大きな音を立てて、汽車が止まろうとしていた。
「! お母さんは!?」
トーマスに聞いたのだろうか、車掌への礼もせずに駅長が尋ねる。
息を切らせたは、答えなかった。
駅長は目深に帽子を被り直して、そうか、と呟いた。
金髪の男と赤髪の男が、慌ただしく汽車を降りた。
はモージスのもとに駆けた。
「!」
モージスが駆け寄って、の肩を揺すった。
「グロリアは!?」
乱暴に聞かれ、は口を開く。
――あと少し、ほんの一瞬、早く着いていてくれたなら
言葉が出てこなかった。
モージスが青ざめた。
は唇を噛み、モージスの胸を叩いた。
「早く、帰ってよ……っ」
モージスが駆け出した。
「おい、モージス!」
クロス・マリアンが後を追う。
は一人取り残され、立ち尽くした。
駅長が何か言っているが、全く耳には入らない。
頭がぼんやりとして、思考が働かなかった。
途中で誰かとすれ違っただろうか。
はただ呆然と家路を辿る。
家から少し離れた所まで、モージスの慟哭が聞こえていた。
近付くにつれて混じる、の泣き声。
村人も集まっているようで、多くの啜り泣きが聞こえる。
グロリアの親友だった、トーマスの母の泣き声が、その中でも一際大きい。
は扉を開け、中に家に入った。
部屋の隅にクロスが立っている。
グロリアのベッドの周りには、大勢の人がいてとても近付けない。
が、泣いている。
「お兄ちゃぁぁぁん」
いつしか彼女が自分を呼んでいた。
は人を掻き分けて、ようやくを抱きしめた。
「……」
「うあぁぁぁん! ママぁぁぁ!」
きつくしがみつかれる。
再び込み上げる涙。
はの頭越しにモージスを見た。
遠い母の亡骸。
取り乱す父。
泣きわめく妹。
血が出るほど強く、唇を噛み締めた。
涙を殺す。
自分が、しっかりしなければ。
母はきっと、悲しむだろう。
葬式の間のことは、の記憶には残っていない。
立っていたのか、座っていたのか。
そもそも式に出ていたのだろうか。
母が亡くなった翌日の記憶は、少し曖昧だ。
喪服を着た自分は、グロリアのベッドに取り縋る父を眺めている。
アンナの涙も止まることが無い。
しかし彼女は気丈に家事を進めていた。
クロス・マリアンは、やはり隅の方に立って、モージスを見ている。
足許に座り込んだが、の服を引っ張った。
「お兄ちゃん……」
「……あ、ごめん……何?」
「……おなか、空いた」
赤い目許。
夜通し泣いていた妹は、頬に涙の跡を残して呟いた。
はアンナを見上げた。
「おばあちゃん」
「そうよね……今日は何も食べてないものね」
涙を拭いて、アンナは微笑む。
はの手を引いて立たせた。
小さく駆けて、は台所へ行く。
「……グロリア……」
モージスが、またグロリアの名を呼んだ。
嗚咽が繰り返される。
空のベッドが、虚しい。
アンナが玉ねぎを刻み始めた。
軽やかなリズム。
高いようで、しかし、心を落ち着かせる音。
昨日まで、グロリアは確かにこの場に居たのだ。
ずっと堪えていた涙が、込み上げそうになった。
は静かに家を抜けだした。
村の中を、一人、歩いた。
この地は遥か昔に、多くの死者を出した戦場だった。
戦後、生き残った兵士達が集まって、静かな余生を送るためにつくった村だと言われている。
教会は死者を弔うためにあり、この村では、彼らが作った鎮魂歌を、子守唄として伝える。
兵士達は此処を、プレイベルと名付けた。
今ある平和は、犠牲の上に成り立っているのだと。
永久に、忘れないように。
そんな村だから、墓は重要視され、見晴らしの良い丘の上に立っている。
は真新しい墓石の前に立った。
この下に棺を埋めたのは、つい先程のことだ。
ことだと、思う。
に、その記憶は無い。
顔を上げると、橙色の夕焼けが広がっていた。
母の大好きな、空の色。
――泣けない人の代わりに、空は泣いてくれるのよ――
「……ふ……っ……」
泣かないと、昨日、決めたのに。
空が、泣いてくれない。
身体から力が抜け、はその場に座り込んだ。
俯いてしまう。
眉をしかめすぎて、頭が痛い。
そっと墓石に触れた。
あの温もりは、そこには無かった。
肩に、重みが掛かった。
俯いた目の端を、黄金が舞う。
顔を上げたの頬に、それは気遣わしげに擦り寄った。
空が、暗くなっていた。
肩に掛かっているのは、黒い、変な模様のコート。
誰の物だったろう、頭が痛くて、何も考えられない。
「」
クロス・マリアンが、隣に立っていた。
「……おじ、さん……」
「だからお兄さんだっつってんだろ」
場にそぐわない溜め息。
クロスが、膝をついた。
何も言わない。
自然と、は俯いた。
墓石は、先程と変わりが無かった。
「泣きたいなら」
唐突に、クロスが言った。
「泣けばいいじゃねぇか」
は、俯いたまま呟いた。
「……でも……」
「ガキなんだから、それくらいの可愛げ見せやがれ」
顔を上げようとすると、頭を乱暴に撫でられる。
そうかと思うと、クロスは急に手を止めた。
頬を掴まれ、顔を上向かされる。
厳しい表情。
「おまっ……いや、いい」
怒鳴ろうとして、しかし声を引くクロス。
訳が分からず呆然としていると、彼は背中をこちらに向けた。
「乗れ」
「なんで?」
「歩かせると此処に戻ってきそうだからな、お前は」
は反論できず、言葉に従って立ち上がった。
ふわりと体が浮いた感覚。
一瞬目の前が暗くなる。
倒れこむようにして、はクロスの背に乗った。
「ったく……」
クロスが立ち上がり、を背負い直した。
コートを拾って、の上から自分に被せる。
「熱出すまで我慢してんじゃねーよ、クソガキ」
普段、滅多に風邪をひかないものだから、熱があることに気がつかなかった。
頭痛にも納得がいく。
ただの頭痛ですら、こんなにも重く苦しいものに思えるのに。
涙が、零れた。
母さんは、どんなに苦しかっただろう。
出来ることは、何でもやったつもりだった。
アンナの手伝いもした。
洗濯も、掃除も出来る。
朝起きるのは苦手だけれど、朝食の準備だって一人でやった。
妹の世話も、何から何までやった。
が日常の中心で、の「世界」だった。
大好きだが、その分我慢したこともたくさんあった。
それでも、我が儘は言わなかった。
何が、足りなかったのだろう。
もう、涙が止まらなかった。
止めどなく溢れ出る。
クロスがもう一度、を背負い直した。
「……、よく聞け」
鼻を啜って、クロスの横顔を見る。
「家に着いたら、もう二度とグロリアを呼ぶな」
いつものようなふざけたクロスではなく、真剣な、面持ち。
「ど、して……」
「あいつはもう眠ったんだ」
ティムキャンピーが、の上のコートを噛んで、引っ張り上げた。
「何の苦しみも無くなって、やっとゆっくり眠れたのに。そんなに何度も呼ばれたら起きちまうだろうが」
はクロスを見上げた。
視線を落とす。
「家に着いたら、もう二度と呼ぶな」
クロスは少し目を伏せて、呟くように言った。
「だから今、泣いておけ」
「……さ、ん」
声に出すと、急に恋しくなる。
想い出が、伴う音が、声、歌、風景、色、香りが――
甦る、記憶。
「……あ、さん」
優しくて、美しくて、自慢の母だった。
「かあさん」
愛に溢れる笑顔。
「母さん……母さん……」
大好きだった。
「……かあ、さん……」
もう、会えない。
「お母さん……!!」
は声を上げて泣いた。
クロスは、何も言わなかった。
ドアを蹴り開ける音。
はふと目を開けた。
少し眠っていたようだ。
昨日は、一睡も出来なかったから。
耳元で、怒鳴り声が聞こえた。
「モージス!」
クロスが恐ろしい顔で怒鳴っている。
とアンナが駆けてきた。
「お兄ちゃん?」
「、どうしたの?」
クロスが取り敢えず、と母のベッドの端にを下ろした。
「熱がある」
「まぁ! ちょっとおでこ触らせてね」
アンナが手を伸ばすより先に、がの手を掴んだ。
浮かぶ涙。
は驚いてを見た。
「……?」
「う……っ」
がにしがみついた。
「わぁぁぁん! やだ、嫌だぁぁぁ」
混乱したまま、アンナと顔を見合わせる。
「どうしたの?」
顔を覗こうとすると、ますます強く抱きつかれてしまった。
彼女は懸命に首を振っていた。
「やだよ……いやだよぉ……」
「?」
「やだ……を、置いていかないで……」
はきょとんとして、を見た。
アンナが屈んで、の背を撫でた。
「大丈夫よ。は、死んだりしないわ」
思えば、グロリアも風邪をこじらせたまま、旅立った。
はゆっくり、母がやっていたように、の背を叩いた。
「お兄ちゃん……死んじゃ嫌だよ……」
「大丈夫。ずっと、いつも、一緒だよ……」
――だから、もう泣かないで
クロスが、座り込むモージスの肩を掴んだ。
「おい、モージス」
反応の無いモージス。
クロスの歯ぎしりが聞こえた。
は咄嗟に、の頭を自分に押し付けた。
クロスがモージスの頬を殴る。
思わず自分も、目を瞑った。
「ひいっ」
アンナの悲鳴。
恐る恐る目を開けると、倒れこんだモージスの胸座を、クロスが掴んでいた。
「父親だろうが。哀しむのもいいけどな、ガキの心配しやがれ!」
モージスが虚ろな目にクロスを、アンナを、を、を映した。
「オレは、もう子守りはやらねーぞ」
クロスの言葉に、モージスは立ち上がり、ふらふらとこちらにやってくる。
はにしがみつきながら。
はを抱きしめながら。
二人は、父を見上げた。
殴られていた左の頬が、赤い。
見つめ合う。
やがて、二人揃ってぐっと抱き締められた。
「ごめんな……っ」
犠牲を弔う鐘が、鳴り響く。
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