燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









せめて君だけは、と
誓った想いは、今も忘れない
過ぎた世界の形代よ
どうか、もう泣かないで



Night.22 それしか、出来ない









先程まで三人で座っていた長椅子に、リナリーを座らせる。
は正面で跪き、彼女を見上げた。
こちらに目を合わさずに、零れる涙を拭う少女。

「リナリー」

微笑みながら声を掛けると、彼女はおずおずと顔を上げた。
その手にハンカチを握らせ、は立ち上がる。
彼女の隣に腰かけ、震える背をゆっくり撫でた。

「……世界が」

やがて、リナリーが口を開いた。

「滅びる夢を、見たの……」
「リナリーの『世界』?」

少女は頷いた。

「教、団が……崩れてて、誰も、返事して……くれ、なくて……」

声に嗚咽が混ざる。

「アレンくんが……私の、足元で……っ」

再びすすり泣くリナリー。
はようやく合点がいって、彼女の肩を抱いた。
「世界」を失うことの恐ろしさなら、自分もよく知っていると、思ったから。

「ただの夢だよ、リナリー」

リナリーが、を見つめた。

「アレンもラビも、ブックマンもクロウリーも、今は此処に居ないけど、コムイも、ユウも。
……勿論、俺だって。ずっと、リナリーと一緒に居るから」

は、柔らかく微笑んだ。

「大丈夫。リナリーを一人になんか、しないよ」

彼女は震える息を何度か吐き、やがてぽつりと呟いた。

「――うそつき」

思いがけない言葉に面食らって、流石に一瞬言葉を失った。
リナリーが唇を噛み、を睨んだ。

「……お兄ちゃんは、ずっと一緒に居てくれる気なんか、無いくせに」
「なに、を……」
「聖典……聖典は……使い続けたら、死んじゃうんじゃないの……?」

は、答えることが出来なかった。
言葉が空間に置き去りにされる。
リナリーがしゃくりあげた。

「分かってて使うなんて、おかしいよ……死んだら、一緒になんか、いられないじゃない!」

嗚咽。
彼女の肩を抱くのと反対の手を、固く握りしめた。
今、息を乱してはいけない。
肩を、軽く叩いた。

「そんなこと、誰が言ったんだ? コムイ?」

詰問にならないように、しかし少し怒ったような声音を装う。
リナリーは一瞬肩を揺らし、首を横に振った。

「だ、て……そうなんじゃないかって……思った……」

その答えに、は息を吐いた。
まだ、知られてはいないのだ。
「世界」を守ると、まだ、自分に言い聞かせることが出来るのだ。
は息を吸って、笑った。
「世界」の笑顔を守るためなら、いつでも、いくらでも笑うと決めている。
自分を殺すことには、もう慣れた。

「なんだ、良かった……俺の知らない所でそんな話になってるのかと思った」

リナリーがきょとんと顔を上げた。

「……違う、の……?」
「違うよ。本当にそうなら、流石に俺だって使わないさ」

脅かすなって、と頭を撫でる。
リナリーはまた不安な顔をして、こちらを見上げていた。

「本当に?」
「本当に」

は立ち上がった。
少し屈んで、彼女の頬に手をあてた。
微笑む。

「だから、もう泣かないで」

リナリーが俯き、頷いた。
大きく息をついた彼女は、笑いながら涙を零した。

「よかった……」






ハンカチに顔を埋めていたリナリーが、立ち上がり、まだ少し涙に濡れた顔で笑った。
ありがと、とハンカチを返される。

「なんだか、悩んでたのが馬鹿みたい」

明るい苦笑。

「アレンくん達、捜しに行こう」

彼女は、の手を引いて歩き出す。



誓ったのだ、この「世界」を守ると。
絶望を知ったから。
決めたのだ、この「世界」を守ると。
未来を秤にかけて。
誓ったのだ、この「世界」を守ると。
盾にも、剣にも、糧にもなるのだと。



は、歩調を合わせた。

「……ああ」

彼女の隣に並ぶことが、哀しかった。









「お兄ちゃんは、書けて読めるのに、話せないのね」

歩いていると、リナリーが不思議そうに言った。
は笑う。

「欧州の言葉なら話せるんだけどな……中国語は発音が難しくて」
「確かに、英語よりも複雑かも。でもフランス語だって難しいと思うけどなぁ」

そう言って、リナリーは少し考え込んだ。

「気を遣わせておいて言うのもなんだけど……皆、ちゃんと聞けてるかしら」

も眉を寄せた。

「言われてみれば、不安だな」

でしょ? とリナリーがこちらに顔を向けようとして、止まった。
一点を見て呟く。

「ティムキャンピー?」

彼女の目の先に、こちらへ飛んでくるティムキャンピーの姿があった。
ティムキャンピーも気付いたのか、その場で急かすようにはばたく。
二人は顔を見合わせ、走り出した。
人ごみをすり抜け、黄金の向かう場所へ。
饅頭を口にして慌てているアレンを、ようやく見つけた。
饅頭屋の店主は、せいろを手に、いかにも交渉中といった顔をしている。

「アレン!」
「兄さん、リナリー! このおじさん、何か知ってるみたいなんです!」

リナリーが目を丸くして、早口の中国語で店主に畳み掛けた。
はアレンを見る。
弟弟子は先程以上に慌てた。

「あ、あの、これは……!」

必死な様子に思わず噴き出す。

「誰も怒ってねーよ。美味いか?」
「凄く美味しいです」

食べますか? と差し出された饅頭を断る。
リナリーが振り返った。

「お兄ちゃん、あと十個買ったら教えてくれるって」

が決定権を持つと悟ったのか、店主までもがこちらを見つめる。
三人分の視線を浴び、は少し考えて言った。

「十五個買うから詳しく教えろって言って」
「うん」

リナリーが交渉を再開する。
はアレンの肩を叩いた。

「ラビ達捜しに行くぞ」









軽やかで滑らかな音楽と、きらびやかな装飾が目を引く、壮麗な建物。
饅頭十五個をアレン、ラビ、クロウリーの腹に収め、六人は大きな妓楼を見上げていた。

「饅頭屋の店主が言うには、最近ここの女主人に出来た恋人が、クロス元帥なんだって」

アレンが呆れたように呟く。

「なんてあの人らしい情報……」

も、ここまでの道程を想起し、深く溜め息をついた。

「最初からこうやって絞れば良かったな……」

しかも、そんな弟子達の呟きも知らず、師は遊び歩いているのだ。
二人の邪悪なオーラを振り払うように、ラビが建物を見上げた。

「しかし派手だなー」
「此処の港じゃ一番のお店らしいよ」

長かった、遠かった、と感慨深げに言う声を耳に素通りさせながら、は目を瞑り、息をついた。
勿論腹も立ってはいるが、とにもかくにも、やっと会えるのだ。
少しだけ、安堵する。
目を開けると、丁度アレンとラビが、暖簾をくぐろうと歩を進めたところだった。
内側から人が出てくる。
その人はクロウリーと同じくらいの身長だが、彼よりも筋肉があり、より大柄な印象を受けた。
何かを言っているのだが、中国語なのでには明確に理解が出来ない。
しかし、指を物騒に鳴らして二人を睨む様子は、お世辞にも穏やかとは言えなかった。
気圧されて、ひたすらに謝り続けるアレン。

「嘘だ! 女!?」

ラビの声によく見てみると、確かに、胸があった。
もいささか驚いて彼女を見上げた。
アレンとラビが襟元を掴まれ、持ちあげられている。
リナリーの制止の声。
妓楼の女性は、アレンに何事か囁いた。
下ろされたアレンが、小声でこちらに伝える。

「教団のサポーターの方だそうです。裏口へ、って」
「こ、殺されるかと思ったさ……!」

ラビが胸を撫で下ろす。
彼に苦笑を向け、後に続いて歩き出す。
後ろから、呼びとめられた。

「貴方は……」

振り返る。
女性は、一歩進み出て、少し屈んだ。

「もしや……教団の『神』では……?」

は思わず彼女を見つめる。

「サポーター同士の情報で……聞いたことがあります。もしや、貴方は……」
「……マダム・ボウエンですね?」

彼女が頷いた。
随分と深刻な表情。
は、微笑んだ。

「そう、呼ばれることも、あります」

彼女の顔に広がった安堵。
一抹の不安を覚えた。









入り口の女性――マホジャに案内され、六人は裏口から奥へ入った。
艶やかな女性が、一行を迎える。
クロスの愛人の中でも、一際美しい女性だ。

「いらっしゃいませ、エクソシスト様方」

動くたびに鳴る、髪飾り。

「此処の店主のアニタと申します。初めまして」

状況も忘れ、も思わず彼女を見つめてしまった。
ブックマンやリナリーまでもが、顔を赤らめて彼女を見つめている。
アニタは表情を改めて、言った。

「早速で申し訳ないのですが、クロス様は、もうここにはおりません」

六人は一斉に固まった。

「……え?」
「旅立たれました。八日ほど前に」

クソ親父……! と、アレンと二人、唸る。

「そして……」

続くアニタの言葉に、耳を疑った。



急に、空気が薄くなった気がした。



「今……なんて……?」

リナリーが聞き返す。
アニタは固い表情で繰り返した。

「八日前、旅立たれたクロス様を乗せた船が、海上にて撃沈された、と申したのです」

アレンが唾を呑んだ音が、微かに聞こえた。

「確証はおありか?」

尋ねるブックマンの声が、波のように寄せては、引いていく。



自分は今、まっすぐに立っているだろうか。



固く目を瞑り、ゆっくり瞼を上げた。
アニタと目が合った。
いつものように、微笑んだ。
いつからか、辛い時ほど笑うようになっていた。

「残骸ってことは、アクマを壊したエクソシストが居たってこと」

全員の目が向いたのが分かった。

「なら、あの人が死んだと考えるには不十分だ。なぁ? アレン」

アレンが隣で頷いた。

「そ、そうですよ……舟の行き先はどこだったんですか? 僕らの師匠は、そんなことでは沈みませんよ」

二人を見つめるアニタの頬に、涙が伝う。

「……そう思う?」

は彼女の目を捉えて、自分に引き入れるように笑んだ。
アニタがこちらを見つめ、微笑む。
傍に控えるマホジャを見遣った。

「マホジャ、私の舟を出しておくれ」

こちらに向き直る女性。

「私は母の代より、教団のサポーターとして陰ながらお力添えして参りました」

音も無く、スッと立ち上がる。

「クロス様を追われるのなら、我らがご案内いたしましょう」

打って変わって、強い瞳。

「行き先は日本――江戸でございます」









アニタが微笑んだ。

「それにしても、『神』にお目に掛かれるなんて……運が向いてきたのかもしれない」

は笑い返す。

「俺は何も」

一晩明け、出航準備を急ぐ甲板の上。
はアニタに並び、舵の元に立っていた。
アニタがくすくす笑う。

「ご謙遜を。それにしても、聞いた通りね、マホジャ。確かに、一度見たら目が離せないわ」

主に見遣られ、こちらを向くマホジャも頷いた。

「ああ言ってくれて……助かりました、様」

その言葉に苦笑する。

「そう呼ばれるの、あんまり好きじゃないんだ。呼び捨てでいいよ」

マホジャが肩を竦め、控えめに笑って頷いた。
ありがとう、と笑みを向けた時、はマストの上に白髪を見つけた。

「ちょっと失礼」

二人に断りを入れ、マストへ向かう。
ふと、師の影が頭をよぎった。









「あれ、何?」
「あ、ああ……ゴーレム。あれでも機械だ」

七歳のは、少し興味を持って客人を見上げた。

「機械なの?」
「ああ。名前は、ティムキャンピー」

客人の答えに、笑いが込み上げる。
彼は少し不服そうな顔でしゃがみ、を見上げるように視線を合わせた。

「何がおかしい」
「だって、名前つけるような人に見えない」

客人はフンと鼻を鳴らした。

「父親と同じことを言うな」
「父さんにも言われたんだ!」

あははははは! と、声を上げて、は笑った。
口の端をひきつらせる客人。



初めてその存在を知ったのは、父からの手紙の中。
初めて会ったのは、その年のクリスマス。
小さな村で生まれ育ったにとって、初めて出会った「外の人」。
父が書いていた通りの変人で、来ていたコートのエンブレムがとても印象的だったのを、覚えている。



まさか自分がそのエンブレムを掲げることになるなんて、その時は思いもしなかったけれど。



たかだか七歳の子供と本気で口喧嘩をする、赤毛の男。
父と口喧嘩をして負ける、少し情けない大人。
母や妹、隣のお婆さんまで口説こうとするので、は父と一緒に、彼に食ってかかったものだった。



父・モージスの休暇のたびに、クロス・マリアンはやってきた。
そして、が八歳の十二月。
母・グロリアが他界した時、彼だけがの涙を受け止めてくれた。



最愛の妹、は六歳だった。










それは、世界がまだ幸せで、「世界」がまだ存在していた時の話。









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