燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
どんなに笑顔をつくっても
廻る夜が怖ろしい
繰り返す、永遠の悪夢
そして今日もまた
一歩を、踏み出せないまま
悪夢だなんて、と自分を嫌悪する
Night.20 枷だとは、決して
轟音が聞こえた。
ビリビリと震える空気。
やがて、それが全て静まった頃、アクマの声が聞こえた。
「な、なんだぁ? コレ」
左腕を襲っていた砲弾も、気付けば無くなっている。
アレンは、閉じていた目をゆっくり開けた。
瓦礫の洞窟をの入り口を覆うような、巨大な一枚の壁。
黒いが、向こう側が透けて見える。
そして目の前には、壁に背を向けてケマルを抱くが居た。
「兄……さん……?」
壁に当てている右手からは黒い液体が流れ、地面に染みを作っている。
アレンの声に、は顔を上げ、ケマルを押して奥へ行かせた。
「うああああ」
ケマルがシモンに抱きついて泣き出した。
涙声で感謝の言葉を繰り返すシモン。
は微笑って、壁から手を離した。
支えを失った体が、膝から崩れる。
「兄さん!?」
アレンは慌てて手を伸ばすが、触れる前に制止された。
片膝をついて、彼は疲れたように笑う。
「大丈夫……」
アレンは少し安堵して、壁越しにアクマを見た。
アクマ達は、壁の向こうであれやこれやと言い合っている。
たった一枚の薄い壁が、このアクマ達全ての攻撃を防いだのだ。
「これが、聖典……」
が驚いたように目を見張った。
「俺……どこかでお前に見せたか?」
「あ、いえ……入団した日に、コムイさんから教わりました」
どことなく責められている気分になって恐る恐る答えると、は何度か頷いて、そうか、と一言呟いた。
再び、壁が震える。
外から二体のアクマが同時に体当たりしていた。
周りのアクマ達は、自分の飛び道具を使いながら二体を囃したてる。
「そんな壁ぶち破ってやれ!」
「あとちょっと! あとちょっと!」
壁は何度も震動を伝える。
シモンが不安そうに壁を見つめていた。
「あの……くん、この壁……持つのかい?」
は柔らかく笑う。
「大丈夫。これくらいは簡単に防げるから、安心して」
一際大きな音が響いた。
「ほ、本当ですか?」
アレンはこっそり尋ねる。
溜め息をついて、は足許の銃を引き寄せた。
「第二開放までしてるんだ。壊されてたまるかよ」
強く放たれた言葉に、引っかかる。
「寄生型にも、第二開放ってあるんですね」
「無いだろうな」
「へっ?」
が笑む。
「俺はシンクロ率を抑えるように訓練されたから、形式的にそう言ってるんだ」
「シンクロ率が低いと、戦闘には不利なんじゃないですか?」
そう聞くと、は笑って壁の向こう側を見た。
掠めるような微笑にあてられ、アレンは無意識に口をつぐんだ。
が、ふっと表情を曇らせた。
「失敗したな……」
「え?」
黒い液体に濡れた手を、壁に触れる。
「外に出ていけない」
「外に?」
アクマの攻撃は、なおも止まない。
間断なく砲弾が浴びせられる。
「ああ。『帳(ヴェール)』は……これは、同時に二か所に出せないんだ」
意味が分からずに、アレンは目を上げて問う。
が言い換えた。
「これは外からの攻撃を通さない代わりに、中からも攻撃が出来ない。
アクマ達を倒すには、少なくとも俺達のどっちかが外にいなきゃいけないんだ」
「じゃあ、一瞬だけでも盾を張り替えて僕らだけでも外に出るとか……」
「その一瞬で、誰かがあの弾に当たる」
アレンは盾――「帳」を震わせる弾を見て納得し、しかし肩を落とした。
が笑う。
「まぁ……なんとかなるだろうけど」
「皆がいるから、ですか?」
ついこの間リナリーに怒られた一件を思い出して尋ねる。
盾に凭れたが、目を閉じて頷いた。
「ところで……」
シモンが子供達を抱きながらアレンを見た。
「何ですか?」
「今更だが……この変な奴らは一体……」
アレンはちらりとを窺うが、彼が目を開ける気配はない。
「あれはアクマと言って、人の哀しみから生まれた兵器です」
「哀しみ?」
「ええ。大切な人を喪った哀しみにくれる人間と、その人に呼び戻された人の魂。
それらが掛け合わせて生まれた、生きた兵器なんです」
シモンが、声を震わせた。
「あれが……人間……?」
アレンは頷く。
「彼らは、この世界を滅ぼそうとしています。
僕達はエクソシスト――彼らを破壊するために集められた、黒の教団の聖職者です」
「あんなものと……戦っているのか?」
「はい」
「あんなものが……世界中に……?」
愕然として呟かれた言葉に、アレンは答えを躊躇う。
「……はい」
「そんな……」
魂が抜けたように肩を落としたシモン。
アレンは慌てて笑顔を作った。
「安心してください、僕らが絶対……」
「お兄ちゃん? どうしたの?」
シモンの腕の中で、ケマルが不思議そうに呟く。
次いでアレンは、隣から聞こえる乱れた息の音に気付いた。
身を屈め、胸を抑える。
「にい……さん……?」
いつもの笑顔が返ってこない。
どんなに危険な局面でも、必ずアレンを安心させてくれるはずの、笑顔が、無い。
「兄さん!?」
が僅かに顔を上げる。
何事か言いたそうにアレンを見て、しかしすぐに視線が逸れてしまった。
「……っ、あ……」
「兄さん……!」
言い知れない不安に襲われる。
壁の向こうの火柱を見て、咄嗟に叫んだ。
「ラビ!!」
アクマの攻撃は増える一方で、声が届いているとはとても思えない。
呻いていたが、帳に血濡れた右手を叩きつけた。
漆黒の液体が宙を舞い、瞬時に上空へ昇っていく。
「……聖、典……」
掠れた息のような微かな声が、再び聖典を紡いだ。
空へ昇った血液が盾に吸い込まれ、全体を少しの間輝かせる。
「わわっ、光ったよコイツ!」
「まだ壊せねーの? お前ちゃんとやってる?」
「やってるって!」
アクマ達の喧騒が大きくなったその時、盾の向こうに漢字が浮かんだ。
「はれっ?」
「何これ」
戸惑うアクマ達の声は刹那、断末魔に変わる。
突然現れた巨大な炎の蛇は、アクマを消し去った後、盾を舐めるように這って、かき消えた。
ラビが駆けてくる。
「! アレン!」
「ラビ!」
盾は液体に戻り、パッと無数の球体に形を変える。
その雫が地面に落ちるのと、が腕の中に倒れこむのは、全く同時だった。
半壊の母屋に対して、離れは奇跡的に無事だった。
目の前のベッドでは、が、時折苦しそうにしながら眠っている。
何度目だろうか、アレンは唇を噛み締めた。
「飲む?」
漂う湯気。
顔を上げると、ラビがカップを持って立っていた。
彼は既に飲み物を口にしている。
アレンは小さく頷いて、カップを受け取った。
ベッドを挟んで向かい側にラビが座る。
「昨日から具合悪かったらしいさ。じじいから聞いた」
ラビはさらっとそう言って、空いた手で毛布を直した。
「コムイさんが言っていたのは……このことだったんですね……」
「お前、どこまで知ってんさ?」
「見たのだって、さっきが初めてです」
「ふーん……」
二人は共に視線を逸らした。
互いに離すタイミングを窺う、奇妙な沈黙が流れた。
「あの……っ」
「リナリーには言うなよ」
ラビがアレンの言葉を遮った。
「ど、どうしてですか?」
「が言うなって、言ったから」
日が高くなり、窓から光が射しこむ。
「多分、アレンとの修行から戻ってきて、すぐのことだと思う。聖典のシンクロ率が100を超えたんさ」
「100?」
「元帥になる資格があるってこと」
盾の中でのの言葉を思い出した。
気圧されて聞けなかった問い。
「それなのに……なんでシンクロ率を下げたんですか?」
ラビが顔をしかめた。
「聖典は、使ったのと同じエネルギーで心臓を締め付けるんさ。強い力は、その分だけの害になる」
「……それって、」
冷たいものが背中を伝う。
「使い続けたら……どうなるんですか……?」
恐ろしい想像を否定したくて、アレンはわざととぼけて聞いた。
「分かんねぇ?」
ラビの表情を見た瞬間、後悔した。
「死ぬんだよ」
座っているのに目眩がして、アレンは毛布の端を握った。
身体が小刻みに震える。
「リナリーには内緒さ」
「……ど、して……」
「強がりさ」
ラビは小さく苦笑する。
バンダナを下ろし、顔を隠した。
「あいつにだけは、そういうの知って欲しくないんだって」
よく分からないまま、アレンは頷いた。
世界から光が消える。
顔を上げて前を見ることが、急に恐ろしいことのように思えた。
「……っ」
「?」
ラビが身を乗り出したのが分かった。
アレンは手の甲で潤んだ目を擦る。
何度拭っても、その度に手が濡れた。
「おはよ。よく眠れたさ?」
ラビは笑って、自然に声を掛けた。
溜め息をつくような息の音が、短い間隔で何度か続く。
ベッドが軋んだ。
アレンは目を上げた。
「ちょっ、何やってんさ、寝てろって!」
起き上がりかけたを、ラビが押しとどめていた。
は首を横に振る。
光を受けた金色が、柔らかく輝いた。
「師、匠……」
呟かれた言葉に、ラビが目を見張る。
揺れる視界には、初めて見る、余裕のない背中。
「……早く……行かないと……」
「そんなことより身体治す方が先だろ!」
「でも、伯爵……っ」
この人は、何故いつも人のことばかり考えるのだろう。
熱いものがせり上がって、アレンは思わずの手を握った。
「……アレン?」
我に返ったのか、が幾分か落ち着きを取り戻す。
アレンは首を横に振った。
言いたいことは山ほどあるのに、言葉が何も出てこない。
「……言ったのか?」
が、ラビに問う。
「リナリーには言ってないさ」
事もなげにそう言って、ラビは今度こそをベッドに押し戻した。
は溜め息をついて、いつものように微笑った。
「なんて顔してんだよ……」
小さく手を揺らされる。
「ったく……アレン?」
笑いながら宥める、穏やかな声。
アレンの心境とは全く対照の響き。
喉が詰まって、絞り出した声は震えた。
「もっと……自分のこと、考えてください……!」
彼が苦笑した。
「よく言われるな……」
「いつものことさ」
ラビが肩を竦める。
「だったら、どうして!」
柔らかく、風が動いた気がした。
「俺は、自分のことしか、考えてないよ」
は大きく息をして、微笑んだ。
「だから誰にも、苦しんでほしくないんだ」
だから、この人には敵わないと、いつも思うのだ。
アレンは俯いた。
涙が頬を伝って、握った手の上に零れる。
「泣くなよ」
が笑って、手を握り返した。
「でも、ありがとう」
繋がる手の温もり。
微笑の主は、既に目を閉じている。
嗚咽をこらえて、手が震えた。
「アレンってば、泣き虫さぁ」
ラビが笑っていられる、理由が、分からない。
かっとなって、アレンは顔を上げた。
向かいに座るラビの、泣きそうな顔を目にする。
――師匠は、これを知っていたから、戻りたがらなかったんだ
ふと、そう思った。
暗い廊下で、兄に通信が繋がるのを待つ。
リナリーは指でくるくると髪を巻き、スッとほどいた。
『やあ、リナリー。待たせてごめんね』
慌ただしい兄の声。
またひと房、髪を摘まんだ。
「声、疲れてるね。大丈夫?」
『これで疲れたなんて言ったら、リーバーくんに殺されちゃうよ』
「ふふっ」
髪が指から離れる。
「明け方、アクマと交戦したの」
『アクマ? 怪我はしてない?』
「私は大丈夫。アクマも全部倒したんだけど……」
コムイが息を呑んだ。
『は?』
鋭い声音。
「民間人を守ろうとして聖典を」
『守る……まさか、「帳」?』
「……うん」
大きな溜め息が聞こえた。
『今、喋れるかな?』
「ううん、まだ寝てる。今日は起きられないかも」
『そうか……』
受話器から延びるコードを、ゆっくり指に巻きつける。
「ねぇ、兄さん」
『ん?』
「前……聖典は副作用が強いだけだって、言ってたよね?』
『うん、言ったよ。どうかした?』
リナリーは、コードを握った。
「その副作用って、……死んじゃう、なんてこと……」
心臓が緊張でおかしくなりそうだ。
「……無いよね……?」
電話の向こうで、コムイが笑った。
『……リナリーったら……そんなこと、あるわけないじゃないか』
明るい声。
『いきなりどうしたんだい?』
リナリーは肩の力を抜いて、笑った。
「良かった……ちょっとね、お兄ちゃんが辛そうだったから」
『大丈夫。明日にはまた、元気に笑ってくれるよ』
「そうだよね、ありがと」
『どういたしまして』
「報告は以上です。……忙しそうだし、切るね」
『うん、わざわざありがとう。気をつけてね』
受話器を本体に掛ける。
そのまま、リナリーは立ち尽くした。
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