燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









神は残酷だと人は言うが
人間が神に創られた存在である以上
神の無慈悲を咎めることは出来ない
それは人が持つ汚点でもあるのだから



Night.19 青白い月明かりの中で









レロが耳元で騒ぐ。

「ロートたま!」
「あーもぉはいはい、分かったってばぁ」
「返事は一回レローっ!」

ロードは頬を掻いた。

「うるっさいなぁ……」

廊下を歩きながら、大きく口を開けて欠伸をした。
眠い。

「欠伸は口に手を当てて!」

レロが本当に騒がしい。
ガッと柄を掴むと、傘はヒィッと悲鳴を上げた。

「レロぉ? あんまりうるさいこと言ってると……」
「ロード?」

廊下の先から、珍しい声がした。
揺れる血塗れの白衣。
浮かぶ銀色。

「ミザニー……」

レロがロードの手をすり抜けて、ミザンのもとへ飛ぶ。
生き物には冷酷なこの男が、「生きていないもの」に優しいことを、心得ているのだ。

「ミザぴょん、助けてレロー!」
「おやおや、そう呼んでいいのは伯爵様だけですよ、レロ」

レロを撫でるミザンに、ロードは呆然と呟いた。

「何で廊下なんかに居るの……」

ミザンが目を上げる。

「ロードこそ。また伯爵様に内緒で遊びに行っていましたね? 悔しいことですが、あの方は貴女が居ないと天地がひっくり返るほど悲しまれるんですよ。 お気持ちを察して差し上げなさい」
「はぁーい」
「良いお返事です」

満足そうなミザン。
ロードは窺うように近寄って、顔を覗き込んだ。

「何ですか?」
「……ううん、何でもなぁーい」

おいで、レロ。
脅して、傘を取り返す。
すれ違いざまに、口を開いた。

「ティッキーが神様に会ったって話、聞いたぁ?」
「……聞きましたよ」

底冷えする声。
ロードは、自分が緊張していることに気付いた。
今日は珍しい日だなぁ、と心の中で呟く。

「ならいいや。おやすみぃ」

努めて明るく振る舞う。
氷が、立ち去ろうとするロードを追った。

「貴女も、会ったのですね?」

まるで確信を持った問い。
笑顔がひきつる。

「んなわけ、ないじゃん」
「そう……ですか」

二人は顔を合わせずに、反対の方向へ歩く。









その背は目の前にあるのに、いくら手を伸ばしても触れることが出来ない。
空気が音を吸い込み、クロウリーの存在を消してしまう。
あと少し、あと、少し……

「エリアーデ……」

クロウリーは呟きながら目を開けた。
隣のベッドでは、アレンが幸せそうな顔で寝ている。
兄弟子が来たことで、今日は元帥の夢も影を潜めているようだ。
途中で起きてしまうのは、ベッドを譲ってくれたラビに悪い気がする。
そう思った時、窓際から声がした。

「どうした? クロウリー」

彼は座り込んだまま、月を見上げている。
月明かりに照らされる、金色。

「あ……」
「眠れない?」

微笑んだのだろうか、空気が柔らかくなった。

「哀しい夢を……見たである」

ラビを踏まないように気を付けて、窓辺へ向かう。

「そう」

はそれ以上、慰めも追及もしない。

「私は……」

言葉が口を衝いて出た。

「愛していた者を、手に掛けてしまった……」
「……アクマだったんだ」

静かな声に、頷いた。
彼になら分かってもらえる、と引きだされる想いに、胸が熱くなる。

「理由の為に、生きるというのは……」

夢を見るたび、その想いに心を焼かれた。
エゴではないかと自問し、そんな筈はないと、どこか後ろめたい気持ちで答えていた。

「赦される、ことなのか……?」

がこちらを向く。
喉の奥から、熱が込み上げた。

「彼女への弔いに、なるのだろうか……」

零れた涙が団服に弾かれ、流れ落ちる。
俯くクロウリーの背に、手が添えられた。

「大丈夫だよ」

温かな声が吹き抜ける。

「こんなに愛されている人が、不幸せだったはずが、無いから」

不安だった心が、包みこまれる感覚。

「……こんなに愛してくれる人を恨む人は、居ないよ」

大丈夫、と繰り返されるたび、涙が溢れ出た。



自分より、十も年下だというのに。
甦る、出会いの感動。
明らかに他人とは違う、濃密な雰囲気。
「この人ならば自分をここに引きとめてくれる」と、確証もなく確信させる、安心感。



涙を拭いて、クロウリーは微笑んだ。

「ありがとう……」

はふわりと笑みを浮かべ、また空を見上げた。
月が、傾いている。
朝は近いな、と考えて、ふと気付いた。

……ずっと起きていたであるか?」
「うん」
「眠くならないのか?」

彼は一瞬横目でクロウリーを見て、また視線を戻した。

「……うん」

横顔に、どことなく陰りが見える。
疲れているのかと問えば、ただ微笑だけが返ってきた。
こちらを映さない瞳。
彼との隔たりを感じさせるのは。

「……神と呼ばれることは……君の重荷に、なりはしないのか……?」

がこちらを見る。
少し驚いた顔をして、視線を惑わせた。

「き、聞いてはいけないことだったか?」
「いや……そんなこと言う人、あんまり居ないから」

彼はまた窓を見る。
しかし目は上げずに、笑った。

「本意では、無いんだけどね。……ただ、ここには傷を持つ人が多いから」

彼は笑みを絶やさない。

「皆が少しでも救われた気になるって言うなら、それでいいと思ってる」

神でも、悪魔でも、どっちでもいいんだ。
年齢に不相応なほど、落ち着いた笑顔で。

「君は……強いな」
「……そうでもないよ」
「いや、見習いたいである。何を支えにすれば、そんなに強く居られるであるか?」

聞けばは少し考え、優しく笑った。

「人間」
「……神を、信じないのか?」

空気が、変わった気がした。

「居る、とは思うよ。残酷で冷徹な神様が、きっと」

クロウリーの閉ざされた世界に、そんな考えはなかった。
面食らって、声が震える。

「何故……っ」
「……もし、皆の信じるように、神が全知全能で、良心の塊なんだとしたら。
こんな戦いの世界は、生まれなかったと思うんだ」

乾いた笑顔。



頑なに、こう信じるまで。
戦争は、どれほどのものを、彼から奪っていったのだろう。
それでも彼は、笑うのだ。
今までも、きっとこれからも、自分以外の、誰かの為に。



涙が、頬を伝った。

「クロウリー?」
「何でも、ないである……」

手の甲で、目を拭う。
心配そうな顔に、笑いかけた。

「よく分かったである……私など、足許にも及ばない」

は瞬いて、やがて微笑んだ。
差し込む月光の中、風のように。
まるで何もかも、諦めてしまったかのように。



ラビが寝返りをうった。
傍らでこんなに話していたというのに、全く起きる気配が無い。

「もう一度寝たら? クロウリー」

がそっと言った。

「きっと早くに出発するだろうから」

答えようとしたその時、背後でベッドの軋む音がした。
二人は振り返る。
左目を押さえながら、アレンが起き上った。

「ど、どうしたであるか?」

クロウリーは戸惑いつつも声を掛ける。
慌てた様子で、アレンがベッドから下りた。

「アクマです!」
「な……っ」
「数は」

の声が鋭く飛ぶ。

「かなり多いです……数えきれません!」

クロウリーも歯が疼くのを感じた。
ラビの肩を揺する。

「ラビ! 起きろ、ラビ!」

壁に手をついて、が立ち上がった。

「隣、起こして来い」
「はい!」

冷静な声に、アレンが駆ける。
奮闘するクロウリーの後ろから、は呟くように言った。

「起きろよ、ラビ。置いてくぞ」

ピクリと体が動く。
次いで飛び起きたラビに驚き、クロウリーは一気に壁まで後ずさった。

「わー! ごめん!」

必死なラビの頭を、軽く叩く

「アクマが向かってきてる」

ラビが不敵に笑って、バンダナを直した。

「りょーかい」
「お兄ちゃん!」

リナリー、ブックマン、アレンが部屋に入ってくる。
漆黒の銃を取り出し、が全員を見回した。

「三つに分かれよう。ブックマンとラビ、リナリーとクロウリーは町の中に。
俺とアレンは、シモンさん達を避難させる」

言うが早いか、爆音が聞こえ始める。
各々が武器を発動させる中、ブックマンがを見た。

、」
「分かってるよ」

交わされた言葉をいやに印象に残して、クロウリーはリナリーに続いた。









先行く背中を追って、アレンは母屋を目指し、走る。
前方から、アクマ。

「兄さん! あれ……!」

レベル2と思われるアクマが、母屋に照準を合わせている。
二人が武器を構える前に、アクマの弾丸が放たれた。
爆風の後に、半壊の母屋。

「三人を頼む!」

言い残して、が単身でアクマへ突っ込んでいった。
アレンは頷く間も惜しんで、母屋に駆け行った。

「シモンさん! 返事してください!」

壁が崩れ、煙と埃が舞っている。

「……か、……誰か……!」

瓦礫の中からの声。
左手で瓦礫を取り除くと、壁に挟まれた瓦礫の洞窟で、スーを抱いたシモンがうずくまっていた。

「シモンさん!」

彼は顔を上げて、アレンの背後に目を走らせた。

「ケマルを知らないか!?」
「一緒じゃ、ないんですか?」
「ちょうど向かいの井戸に行っていて、そうしたらこんな……!」

飛んでくる瓦礫や流れ弾から二人を守りながら、アレンは振り返った。

「兄さん!」

が舞う。
近場の一体を撃ち落とし、アレンのもとへ駆けてきた。
三人を見て、低い声で問う。

「ケマルは?」
「家から出て、井戸に行ってるらしいんです!」
「分かった」

左眼が、アクマを感知した。
慌ててアレンがそちらを向くと、既に知っていたかのようには引き鉄を引いた。
空中で弾けた炎。
久し振りに見た「福音」の力は、以前と変わらず頼もしい。

「エクソシストはっけーん!」

新たなレベル2の出現に、二人は顔を見合わせた。

「お願いします!」
「頼むな」

同時に声を掛け合い、は攻撃を掻い潜って駆け出す。
止むことのない砲弾の嵐から、アレンは左腕を盾にして二人を守り続ける。
瓦礫の一つ一つに声を掛けるは、やがて一カ所で立ち止まった。
アクマの動向を窺いながら瓦礫を取り除き、少年を引き上げる。

「良かった……!」

アクマが増え続ける中、思わずアレンは口にした。
シモンがアレンの脇で様子を覗き見る。
怪我が無いか聞かれているのだろう、屈んだの前で、ケマルが何度も頷いている。

「何だよ、お前まだてこずってんのー?」
「オレ、もらっちゃうよぉ?」
「えー! ダメダメ!」

またアクマが増え、アレンは視線を走らせた。
あと少しこちらに気を引けば、親子は無事に抱きあえるだろう。



傍らのシモンが、身を乗り出した。

「ちょっ、シモンさ……」
「ケマル!!」

アレンの声を遮って叫ぶ。
が振り返った。
ケマルが顔を上げ、シモンを見る。

「パパ!!」

こんな状況でなければ、どれほど微笑ましい光景だろう。
少年は、の手を抜けて、父の元へ一目散に駆け出した。

「来ちゃ駄目だ!!」
「行くな!!」

一瞬遅れて、アレンとが同時に制止の声を掛ける。

「お、人間みーっけ」

アレン達に飽きたアクマが、ついにケマルを目に止めた。


駆け出す黒衣。
立ち竦む少年。
アクマの不吉な笑み。
シモンの悲鳴と、依然止まない砲弾。
アレンはシモンを引き戻し、固く目を瞑る。









そして、福音を記す声が、聖典を紡いだ。









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091108