燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









器から零れ落ちた水が
元に戻らないのと、同じように
生命は、この指の間を零れていく
目は逸らせない
それでも、なお戦えと言うのなら



Night.2 代えの利く生命









「――ッ!!」

意識が急激に引き戻された。
否、自分で引き戻した。
無理に目を開ける。
耐えられない。
これ以上は、耐えられない。
まどろみから覚醒した頭はガンガンと鳴るように痛んだが、それは問題ではなかった。
ベッドの上で荒く息を整え、は起き上がる。

――目を閉じることが、怖い

朝日が、ようやくを照らし出した。
けれど遠くから聞こえるのは、団員達の生活音。
日常は、もう始まっている。
はベッドから下りた。
少しふらついたのは、気付かなかったことにする。
寝巻代わりにしていたVネックの黒いシャツを脱いだ。
冷たい水で顔を洗い、手にしたのは七分袖の白いワイシャツ。
黒いベストを上に着て、襟を上げ、真紅のタイを結ぶ。
髪を手櫛でサッと直せば、鏡に映った自分は、いつもと同じ姿をしていた。
大丈夫、隈は目立たない。
黒の団服を羽織り、ベルトを締める。
銃の位置はいつもと変わらず、その横にあるナイフの位置も、変わらない。
もう一度鏡を見た。
左耳に光るのは、小さな黒いピアス。
奥歯を噛み締める。

「(行こう)」

黒衣を翻し、はドアに向かった。









黒の教団の食堂には、今朝も元気な声が響き渡っていた。
どこの班に属していても、ここの人間なら殆ど誰もが食堂で食事をする。
自然と人が集まるこの場所で、通り過ぎる人と軽く挨拶を交わしながら、は厨房の受付に顔を出した。
こちらから声を掛ける前に気付かれる。

「あらっ、じゃない! いやーん、朝から会えるなんて何日ぶりかしら!」

もの凄い勢いで頭をかき回され、はジェリーに苦笑を向けた。

「二週間ぶり、かな? 朝っていったら」
「そうそう、それくらいよ! やぁねぇ、また青くなってんじゃない? 少しは朝、強くなりなさいよ」

そう言われても、眠れないのだから仕方がない。
けれど明るく笑うに止めた。
そんなことは、言う必要も無いものだ。

「努力しとく。サンドウィッチ、サラダ、オレンジとグレープフルーツとイチゴとプルーンの盛り合わせ。あと、」
「リンゴ山盛り、ね?」

含むように笑われる。

「ははっ! うん、いつもの頼むよ」
「任せてっ」

待っている間、何人もの探索部隊に挨拶をされた。
何やら、今日は白服が多い。

「果物は後で持って行くわ。これだけ先に持ってって」
「ん。サンキュー」

愛してるわー! といういつもの声を背に受けつつ、は空いている席に座った。
そういえば、アレンは迷わずに食堂まで来れるだろうか。
弟弟子の迷子癖を思い出し、いや、しかし匂いにつられて来るか、などと考えは止まらない。
フォークをレタスに刺した。
欠伸をしながら頬張る。
ふと廊下に目をやれば、馴染みの科学班員達が、部屋の間を駆け回っていた。

「……近いな」

呟いた瞬間、目の前に大きな器が、ドン、と音を立てて置かれた。
驚いて顔を上げる。
不機嫌極まりない顔で、神田がそこに立っていた。

「は? ユウ?」
「わざわざ俺が持ってきてやったんだ、感謝するんだな」
「うっわー、朝からすげー俺様。お前絶対途中で毒とか入れただろ」
「誰が入れるか!」

拳をテーブルに叩きつけてまで否定する神田。
この反応が面白すぎるから、ついつい遊びたくなるのだ。
他の人によれば、神田がここまで人の相手をすることも珍しいのだという。
また神田相手に平然と笑っていられるもおかしいらしい。
しかし、に言わせれば、それは周囲が彼を理解していないからそう見えるのだ。
神田は割と冗談にも付き合ってくれるし、なんだかんだで優しかったりする。
今だって、あんなに怒鳴っていながらの前の椅子を引いた。
本気ではないのだ、お互い。
神田が好物の蕎麦を一口啜り、に聞いた。

「何が?」
「……お前こそ何?」

聞き返すと、神田のこめかみに青筋が浮かんだのが分かった。
震えながら、絞り出すような声で再度聞かれる。

「だから、さっき何か呟いてたろ」
「さっき?」

うさぎの形のリンゴをくわえて、は考え込んだ。
何か言っただろうか。
口の中でうさぎが温かくなったころ、ああ! と手を打った。

「アレか! いや、科学班がさっきから駆け回ってるからさ。次の任務も近いなって意味」
「そういうことか」

いつの間にか、神田の後ろ、の正面に探索部隊の何人かが集まっていた。
大柄な男性、バズを筆頭に、泣きながら一つのテーブルを囲んでいる。
は目を細めて呟いた。

「……誰か死んだのか?」
「さあな。お前が聞いてないなら、俺の知ったことじゃない」

苛立たしげに目を瞑り眉をしかめ、神田が蕎麦を啜った。
彼の苛々した空気が、探索部隊の一団にも伝わったらしい。
バズを始め、何人かがこちらを向いた。
それに気づいているだろうに、神田は舌打ちを一つ、さらに続けた。

「メシ食ってる時に後ろで死んだ奴の追悼なんかされたら、味がマズくなる」

まあまあ、とが神田を諌めようとしたときには、やはりもう遅かった。
今にも掴みかからんばかりの勢いで、バズが怒鳴る。

「何だとコラァ!!」

神田の片眉が、ピクリと跳ね上がる。

「やべ……」

流石にもフォークを置いた。
他の探索部隊の面々も、冷や汗を垂らして硬直している。
何せ、バズが怒鳴った相手は神田だ。
良い奴ではある、ただし、バズとは考えの経路が違いすぎる。
分かっているはずなのに、余程頭に血が上っているのだろう、バズは怒鳴り続けた。

「もういっぺん言ってみやがれ! あぁ!?」
「バズ、やめろ。ユウも、もう口出すな」

固まった探索部隊の視線を受けて、彼らに代わり、が制止の声を掛ける。
しかし、目の前には既に箸を置いてしまった神田が。

「うるせーな。メシ食ってる時に後ろでメソメソ死んだ奴らの追悼なんかされちゃ、味がマズくなんだよ」
「テメェ……それが殉職した同志に言うセリフか!」

泣きながら額に青筋を立てて、バズは怒鳴る。
対する神田の表情を見て、はこれは本気で止めるべきだと察した。
目が据わっている。

「おい、やめろ、バズ!」

バズは感激したようにを見た後、首を横に振った。

「ありがとうございます、でも止めないでください、さん!」
「これが止めないでいられるか、馬鹿!」

思い切りツッコミを入れてしまったが、今はそれどころではない。
バズの勢いは止まることなく、彼はなおも言い募る。

「俺たち探索部隊は、お前らエクソシストの下で命懸けでサポートしてやってるのに……
それを……それを……っ」

筋骨たくましいその巨体で、大きな拳を握り、バズは神田を殴ろうと構える。
全員が息を呑み、探索部隊の何人かは目を覆った。

「メシがまずくなるだと――!!」

ブンと空気を鳴らし振り下ろされたソレを軽く避け、神田が立ち上がり、バズの首に手を伸ばす。

「うぐっ……」

情け容赦なく、バズの首が締め上げられていく。

「ユウ!」

は立ち上がるが、急に視界がぐらりと歪んだ。
このタイミングで立ちくらみなんて。
何とか手探りでテーブルの端を掴み、体を支える。
右手で口を押さえた。
朝食なんか、食べなければよかった。

「(く、そ……っ)」
「馬鹿はテメェだ、座ってろ」

肩越しにを睨み、神田はバズに視線を戻した。
制止の声が無くなった今、彼の手にはさらに力がこもる。
口元に嘲笑を浮かべて、吐き捨てるように神田は言った。

「サポートしてやってるだ? 違げーだろ、サポートしかできねぇんだろ?」

周りを囲む探索部隊の表情が、物言いたげな釈然としないものになる。
だが、神田を前に、誰も反論できない。

「お前らはイノセンスに選ばれなかったハズレ者だ。
死ぬのがイヤなら出ていけよ。お前ひとり分の命くらい、代わりはいくらでも居る」

これだけは、いくら神田でも聞き捨てならない。
今まではバズの為を思って声を掛けてきたが、は初めて神田を非難するために顔を上げようとした。
しかし、が動く前に、神田の手を強く握った人がいた。

「ストップ」

奇怪な左手、左頬の呪いの傷痕。
アレン・ウォーカー。

「関係無いとこ悪いですけど、そういう言い方は無いと思いますよ」
「アレン……」

兄弟子に向かって安心させるように微笑み、それからアレンは神田を強い目で見つめた。
神田が冷たくアレンを見下ろす。

「……放せよ、モヤシ」
「(モヤシって……)」
「アレンです」

予期せぬ呼び名に面食らいつつ応じるアレン。
の気をしっかり削いだ神田は、アレンを見ずに、ただ鼻で笑った。

「はっ。一か月でくたばらなかったら覚えてやるよ。ここじゃパタパタ死んでく奴が多いからな。こいつらみたいに」

アレンの手に力が篭もる。
バズの首から神田の手が離れた。
力なく崩れ落ちるバズに、仲間が駆け寄る。
の位置から見るに、気絶しているだけのようだ。

「だから、そういう言い方はないでしょ」

アレンが神田を睨みつける。
神田もキツイ目つきでアレンを見た。

「早死にするぜ、お前。嫌いなタイプだ」
「そりゃどうも」

負けじとアレンが言い返す。
は傍らで、痛みだしたこめかみに手を当てて唸った。

「お前らなぁ……」

食堂の中心で睨みあい炎を燃やす二人。
何と声を掛けたものかと迷っていると、タイミング良く廊下から声が掛かった。

「あ、いたいた! ! 神田! アレン!」

前者、は救われた顔で。
後者二人は不機嫌に、三人はそちらに顔を向けた。
廊下には大量の本を抱えたリーバーと、リナリーの姿。
リーバーが口に手を当てて言う。

「十分でメシ食って司令室に来てくれ。任務だ」

了解、とは手を上げる。
ハイと頷くアレン。
フンと神田は顔をそむける。
三者三様に返事をした後で、アレンが悲痛な声で呟いた。

「まだ何も食べてない……!」

はその背を優しく押す。

「頑張って食って来い。ありがとな、アレン」

アレンは照れたように笑ってから、急いで自分の朝食のもとへ走っていった。
弟弟子をしばらく見つめ、は振り返る。
そのついでに神田をひと殴り。

「テメッ! 何しやがる!」
「馬鹿野郎、こっちの台詞だ」

神田の瞳を睨みつけ、しかしすぐに苦笑する。

「もっと言い方、あんだろーが」

小さな舌打ちが聞こえる。
神田の反省にしては、十分すぎる返答だ。
彼の肩を軽く叩いて、探索部隊達の傍にしゃがむ。

様……」

バズはやはり、気絶しているだけらしい。

「大丈夫。すぐに目、覚ますよ」

安堵する隊員たちに、微笑みを向けた。

「司令室から戻ったら大聖堂行くから、待ってて」

俺の弔いで良ければ。
そう付け加えると、いっせいに啜り泣きやら号泣やらが始まった。
は立ち上がる。

「だから、もうこんなとこで弔いなんかすんなよ? 故人だって、食堂ではされたくないだろうぜ」

自分の微笑み一つで、仮初の平和が保たれるのならば。









アレンの初任務は、仲が悪くなったばかりの神田と一緒! という衝撃的な出来事から二十分後。
つい先程、神田とアレンが座っていたソファに、今度はとリナリーが腰を下ろしていた。

「さて、リーバー班長、二人に資料を渡して」

コムイはいつものようににこやかに言っているが、の心境はそれどころではない。

「ユウとアレン……? うわぁ、最悪……」
「どしたの、お兄ちゃん」

唸るを訝るように、リナリーが覗き込む。
コムイも興味深くを見つめた。

「ボクも気になるなぁ。さっき神田くんとアレンくんに何があったか」
「オレには炎が見えたけどな」

は大きなため息をひとつついた。

「さっき食堂で、探索部隊たちがさ……」

事の次第を、最初から話す。
聞き終えたリナリーとリーバーが顔を見合わせた。
二人とも苦笑している。

「お兄ちゃん……」
「大変だったな……」
「もっと俺を労ってやって」

苦笑交じりで肩を竦める。
コムイだけが、ふんふんといつもの表情で頷いていた。

「今回キミたち二人に行ってもらうのは、バズが追悼をしなきゃならなくなった原因の村だよ」

とリナリーの表情が一変する。

「マジかよ……」
「もう、誰かが死んだのね」

奥歯を噛み締める
リナリーが哀しい顔をして呟いた。
コムイが地図を広げる。

「フランスとルクセンブルクの国境地帯に、ここ最近、アクマが大量に出没している村がある。
もしかしたらそこにイノセンスがあって伯爵が集中的にアクマを送っているのかもしれない。
イノセンスがあっても無くても、アクマを破壊して、生存者を保護してほしい」

二人は頷く。

「分かったわ、兄さん」
「了解」

コムイはを見据える。

「特に!」
「ん?」
「リナリーに怪我させたらただじゃ……」

バシッ
景気の良い音。
リーバーが呆れ顔で上司の頭をはたいた。
けれど、これはいつもの冗談だと、誰もが分かっている。
はリナリーと顔を見合わせ、笑った。

「分かってるよ。俺がリナリーに怪我なんかさせたこと、ないだろ?」
「……キミも、無理はしないで」

祈るような言葉に、ただ微笑みだけを返した。









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