燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









前には、待っていてくれる人
後ろには、望んでくれる人々
温かな笑顔に囲まれる
喪失の末に見た、世界がある
――今行くよ
そして必ず、皆をホームへ



Night.16 未来の優先順位









綺麗に片付いている部屋。
備え付けのベッドの他には、サイドテーブルと、大きな洋服箪笥が置かれている。
洒落た足のついたサイドテーブルの上には、折り畳まれたチェス盤と、束ねられたトランプが揃えてある。
あまり目立たないが細やかな装飾が施された洋服箪笥は、恐らく教団の誰が持っている物よりも大きいだろう。
下部には小さな引き出しが二つ付いている。
は、床にトランクを置いた。
箪笥の戸を開けて取り出した服をベッドに広げ、畳む。
そしてトランクの中へと丁寧に詰めていく。
それを何度か繰り返して、はふと、左の引き出しを開けた。
少し考えて、小型のナイフを二本取り出し、一本をトランクに収めた。
もう一本は、ベッドの上に置いていたベルトに取り付ける。
引き出しの中に残った数本のナイフを見つめ、またしばらく考えを巡らせた。
結局、もう一本をトランクへと収め、引き出しを閉じる。
次いで右の引き出しに手を伸ばし、触れることなく手を引いた。









ミランダは、リーバーの隣に座り、「刻盤」を発動させた。
昨日名前がついたこの対アクマ武器も、随分手に馴染んできた。
が隣に居ないことが不安を呼んでいるのだが、ミランダは小さく首を左右に振った。
いつまでも彼に頼ってはいられない。
彼は今日、旅立つのだ。

「そういやミランダ」

不意にリーバーが化学式から顔を上げた。
酷い隈だ。

、どこ行った?」
「出発の準備をしてないって言って、慌てて部屋に……終わったら此方に来るそうです」
「あー、そっかそっか。アイツ部屋に戻ってなかったからな」

納得顔で、リーバーはくるくるとペンを回す。
ミランダも昨日、人生初のペン回しに挑戦した。
しかしペンをあらぬ方向にふっ飛ばし、試薬の瓶を割って迷惑を掛けたのでやめた。
ジョニーがふらふらとこちらにやってくる。

「班長ぉー、これどうやって計算したんすかー?」
「あー? ……悪ぃ、間違えてんな」

疲れた顔でリーバーは紙を受け取り、計算を始めた。
ジョニーがミランダに笑顔を向ける。

「いらっしゃい、ミランダ」
「お邪魔してます」
「あれ? は?」

リーバーが顔を上げずに答えた。

「出発準備」
「あ、今日でしたっけ?」
「ああ」
「そっかぁ」

彼は肩を落として溜め息をつき、ミランダを見た。

「ミランダもすぐ行っちゃうんだろうね……」
「そ……う、なんですか?」

ミランダは答えようとして、リーバーに聞いた。
リーバーはジョニーに紙を返しながら、肩を回す。

「多分な。もう少し戦況を見て、だろうけど」
「そう、ですか」
「オレ達も頑張んないとなぁ……」

ジョニーは呟いて、覚束ない足取りで戻っていった。
その後ろ姿を見つめる。
リーバーが飲み物を口にした。

「今回はやっぱ、いつもの任務と違うよな」

ミランダはリーバーを見上げる。
引きしまっているのに、どこか悲しそうな表情。

「イノセンスの回収とか、奇怪の調査とかの任務の話聞いてると、オレ達裏方はあんまり意識しないけどさ」

科学班の室内を見回す。
各所から応援を呼ぶ声が上がるが、誰もが手一杯で動けない。
今、山積みの書類が崩れ、ミランダのイノセンスで元に戻った。
遠くからありがとう、と手を振られ、ミランダは会釈を返す。
リーバーは気をつけろー、と声を掛け、呟くように言った。

「オレ達、戦争してるんだよな」









賑やかな食堂。
カウンターから身を乗り出したジェリーが、熱くを抱きしめている。

「ジェ、ジェリーさん、あの……そろそろ離してあげないと、その……くん、が……」

否、それはもう締め付けるという表現の方が正しいかもしれない。

「え? あら、やだー。ごめんね!」
「げほっ……いや、いいけどね……」

が疲れたようにタイを緩めた。
昼前にやっと姿を見せたは、リーバーと少し話をして、そのままミランダを食堂に連れ出した。
勿論、イノセンスは発動させたままだ。

「本当に今日行っちゃうのね。まだ治ったばっかでしょ?」
「んな事言ってられないよ、戦争なんだから」

が苦笑する。
戦争、先程も聞いた言葉だとミランダは思った。
自分の経験なんて、当事者として被害に遭っただけ、という程度だ。
実際の戦場も知らない。
ジェリーが自分の腕をパシンと叩く。
その音で、不安を紛らわせた。

「さあ、作るわよー! 景気づけに、アップルパイなんかどうかしら?」

隣を見て、ミランダは驚いた。
の表情が、かつてないほどに輝いている。
彼はパッと手を挙げて、嬉しそうに言った。

「ホールで十個!」
「じゅっ……!?」
「まっかせて! というか、準備してたのよねー」
「さっすがジェリー!」

ミランダは思わず尋ねる。

「大丈夫なの、くん。た、食べきれるの?」
「ん? いけるいける。一応俺も、寄生型の端くれだからね」

そういえばそうだった。
けれどミランダはこの一週間、こんなに爆発的な食べ方をしたを見たことは無かった。
胃がもたれそうだ。

「はいっ、お待ちどーん!」

げんなりするミランダと、うきうきと厨房を覗き込んでいた
電光石火の早業でアップルパイが出てきた。

「やった! ありがとう」

周囲の空気まで輝かせて、が笑う。
ジェリーが金髪を撫でた。

「リンゴ、たくさん用意して待ってるからね。ちゃんと帰ってきなさいよ」

金色が微笑む。

「……うん」

席とってくる、と言って、彼はアップルパイを運び出していく。
につられてデザートに洋梨のパイを注文したミランダ。
彼の背を見送りながら、ジェリーが言った。

「昔は、もっと食べたのよ」
「そうなんですか?」

ジェリーは頷いて、注文の品を出す。

「でもまだ、リンゴ料理だけはちゃんと食べてくれるのよね」

ミランダは料理を受け取った。
の近くに座っていた団員が、代わる代わる彼に話をしている。
笑って、微笑って、時には苦笑いで、彼はそれに答える。
囲む人々は、安心したような、嬉しそうな表情だ。

「お、ミランダ。流石、ジェリーは仕事早いよな」

周りの人に手を振って、は正面に向き直る。

「それじゃ、いただきます」
「いただきます」

切り分けられたパイを口に運び、恍惚としてが呟いた。

「……美味い……」

ミランダは噴き出した。
彼にも、こんな一面があるのだ。
がニヤリと笑った。

「ミランダも絶対、それ食べたらこうなるって」

笑いながら、ミランダは自分のパイにフォークを刺した。

くんほどじゃないと……おいしい……」
「だろ?」

得意げにが言った。
幸せそうに次々とパイを平らげる。

「あ、そうだ。これからのことなんだけど」

ふと彼は顔を上げた。

「多分ミランダは、しばらく本部待機だと思うんだ。だからその間、ひたすらイノセンスの訓練は続けてて」
「ええ」

ミランダは頷く。
が微笑んだ。

「あと、科学班じゃ起こる現象もたかがしれてるだろ?
場所もたまには代えて訓練してみて。一応、ジェリーとヨハンと、婦長に声掛けてあるから。
もし建物自体をターゲットにする時は、通信班に顔出せばすぐ全体に連絡してくれるから」

次々と出てくる場所と人の名前に、少し圧倒される。

「まさか、午前中ずっとその人達に話しに行ってたの?」

は一瞬きょとんとして、頷いた。

「そうだけど……大丈夫、みんな優しいから、緊張することないよ」

それと……と続けるを呆然と見つめる。
余りにも自然に言うものだから、期待を負担に感じる隙すら無かった。
ありがたいものだ。
眉を下げて微笑み、ミランダはそこではたと気付いた。
のアップルパイは順調に彼の口に消え、残すところあと二つとなっている。
対して自分はまだパイにしか手を付けていない。
ミランダは急いでフォークを手にした。









探索部隊の一人が、舟を留めている。
その舟に、はトランクを乗せた。

「トマか、よろしく」
「はい、よろしくお願いします」

軽く笑みを交わして、は岸で団服を羽織った。
リーバーとミランダが見送りに来ている。

「今、アレン達は東に向かってるらしい」
「うん。調べてくれた汽車で行けば追いつけるだろ?」
「ああ。ズレるかもしれないから、連絡だけはこまめに入れろよ」
「分かってる」

袖を通し、銀のボタンを掛ける。
地面に置いていたベルトを持ち上げると、ガシャッと重い音がした。

「向こうは今の所、順調に進んでるそうだ。そういえば、ラビが心配してたぞ」
「ラビか……ちょっと面倒だなあ」

笑って言うと、リーバーが苦笑した。

「まあ、そう言うな」

ベルトを通し終えて、は銃の位置を確認する。

「(大丈夫、抜ける)」

一つ頷いて顔を上げる。
よし、と何故か気合いを入れたのはリーバーだった。

「気をつけろよ」

優しい笑顔だが、はどうしても、望まれる答えを返してやれない。

「場合によるね」
くん」

ミランダが、の手を掴む。
手袋越しに、彼女の手の温もりを感じる。

「死のうなんて、絶対、思わないでね」

いつもならこんな言葉、返してしまうのに。

「……うん」

は頷いた。
彼女がそっと手を離した。
白い手袋の上に、光る物。

「鍵……?」

尋ねると、ミランダが笑った。

「お守り。次に会ったら、返して」
「だ、そうだ。無事でいなくちゃいけないな」

リーバーが、駄目押しに笑った。
その笑みにつられて、苦笑する。

「……了解」

鎖を首に下げ、鍵を団服の中に仕舞ってから、舟に片足を掛けた。

「行ってきます」
「ああ。皆のこと、頼むな」

舟に乗り込む。
トマのオールが、水を割る。

「分かった」









「……世界に、神の加護を――」

聖女は一人呟く。

「――神に、安らぎを……」









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