燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
人が想像するような意味では
この言葉は使えない
――主よ、彼らに赦しを――
残酷で冷徹な「神様」が
純粋で哀れな人間達を
不当に裁くことがないように
戒める為の、ものだから
Night.15 聖女と救い主
冷たい風が、ミランダの頬に伝う涙を撫でる。
拭っても拭っても、溢れてくる。
「――そのあとマダムが俺を見つけて、師匠と教団に連絡してくれたらしい。
次に目を開けた時にはもう、俺はこの建物の中に居たんだ。最初に見たのは、病室の天井だった」
がミランダの前でしゃがんだ。
濡れる頬に、触れる。
「泣くこと、ないのに」
そして口許に微かに笑みを浮かべ、ミランダの涙を拭う。
悲しい、表情。
笑顔になりきれなかった笑顔。
今は少し低い位置に居る彼を、ミランダは抱きしめた。
「ミランダ?」
「辛かったでしょう……? ごめんね、ごめんなさい……っ」
――そんなことを思い出させて、ごめんなさい
の声が笑う。
「辛いなんて言ったら、ジレーアに失礼だ」
「どうして……」
「俺のせいで、死なせたようなものなのに」
ミランダは強く首を振る。
「そんな……、くんが悪いんじゃないわ!」
背中を、優しく叩かれる。
が、少し震える声で言った。
「……師匠も、同じことを言ったよ」
ミランダの嗚咽が響く。
「目を覚ました俺に、真っ先にそう言った」
「だって、くんは、悪くない、もの……っ」
泣きながら、ミランダは繰り返した。
「悪くないんだもの……!」
耳元で、優しい声が囁く。
「ありがとう」
背中に回された腕が、ミランダを冷たい風から守った。
「……でも、俺が間に合わなかったのは、変えようもない事実だから」
ミランダは何も言えなかった。
ただただ泣きながら、を抱きしめた。
ひたすらに首を横へ振って、泣いた。
「……ありがとう、ミランダ」
この人はどこまでも優しい。
悲しすぎるほどに、優しい。
夜も更ける頃。
今起きているのは、連日残業の科学班を除けば、各班のほんの一部の人間だけ。
いつも賑やかな黒の教団も、流石に静かだ。
建物の中心で、ヴンと小さな音が響いた。
気付く者は誰も居ない。
昇降機が、ゆっくりと降りていく。
縦に長いその建物の、最深部へ。
闇が仄かに光を孕む。
淡い、幻想的な光。
聖女の声が浮かんだ。
「また……眠れないのか……?」
救い主が、声を返した。
「いつものことだよ」
ヘブラスカは、昇降機へ手を伸ばす。
その端に座ったが、笑む。
「朝が……辛いぞ……」
「……いつものことだよ」
「……何か、あったのか……?」
浮かび上がる白い頬に、ヘブラスカは手を触れる。
前に此処へ来た時よりも、大分血色の悪くなった頬へ。
ややあって、の手がそれを包んだ。
俯いた表情は、闇に呑まれて窺えない。
「ミランダに、『聖典』の話をしたんだ」
困ったような、笑ったような、声。
コムイは、知らない。
教団の誰もが、知らない。
「……やっぱり俺は薄情だなって、思った」
がヘブラスカに過去の話をしていることを、知らない。
彼が自嘲するように、笑う。
「酷い奴だよな、不注意で人を死なせたのに。
……俺は、あの日も、今日も、のことしか考えてない。多分俺は、」
「」
ヘブラスカは、反対の頬にも手を伸ばした。
「……もう、いい……」
長い沈黙。
の手が、するりと下へ落ちた。
固く拳を握っている。
神と謳われるこの青年は、時々、こんな風に酷く脆い。
全てを赦すと言った彼は、自分を決して許さない。
「……全部忘れて……今日はもう、眠るんだ……」
ヘブラスカの提案に、は首を横に振る。
顔を上へ向け、目を固く瞑り、大きく息を吐き出した。
僅かな逡巡。
「本題は違うんだ、ヘブラスカ」
少し戸惑ったような表情をしている。
「ずっと前から、聞きたかったんだけど……怖くて、聞けなくて……」
ヘブラスカを見据えようとしたのだろう。
視線が、揺れた。
「……イノセンスが記憶を持つなんてこと、あると思う……?」
「イノセンスが……?」
が頷いた。
「……聞いたことは、無いな……『聖典』か……?」
「いや……『福音』が」
「妹の記憶、か……」
握られた拳が、震える。
「夢、見てるみたいなんだ」
「……夢……?」
小さな首肯。
「開放の段階を上げようとすると……あの時のことが、目の前に広がって……」
ヘブラスカは気付いた。
いつ何時でも彼が腰に据えている黒い銃が、寝る時も枕元から離さないというあの銃が。
今、の手元にない。
「の声で頭が埋め尽くされて……」
たまたま忘れたのか。
「何も考えられなくて……体が、動かなくなる……」
それとも――
「心の問題だろう、……辛いだろうが、焦らなくて」
「今まではっ」
が強く首を振る。
「第二開放なんか、要らなかった。そんなの使わなくたって、やっていけた。でも……長い任務が、あるんだ」
「……聞いている……」
「向こうもノアを出してきた。それって、伯爵が本腰を入れたってことだろ?
今まで通りになんか、いく筈が無い。力が必要なのに……」
空気が、重く垂れこめる。
――の周りの空気は、彼の色に染まるんだ――
いつかのコムイの言葉が甦る。
「どうしよう、ヘブラスカ……俺は、また……」
間に合わないかも、しれない。
小さな呟きが、闇に沈んだ。
「はぁっ……はっ……」
肩で息をするミランダ。
しばらくして、また修練場を走り出す。
息が切れる。
足が縺れる。
瓦礫のひとつに躓いた。
「きゃあっ」
咄嗟に腕で顔を覆うが、派手に転んで、したたかに体を打った。
滲む涙。
滲む血。
ミランダは目を擦って涙を拭き、走り出した。
もう何時間、こうしているだろう。
あの話の後、科学班で修行の続きに入り、発動状態のまま昼食と夕食を摂った。
ようやく今日の訓練を終え、と別れたのが十一時。
部屋に戻りシャワーを浴びてすぐにここへ来たから、かれこれ四時間くらい経ったのだろうか。
足は、止めない。
今日はとても眠れそうにないと思ったが故の行動だった。
今ならば彼の言葉の意味が分かる。
貴女のイノセンスは幸せだと微笑った。
チャンスをもらったと言った自分。
――イノセンスを得るとき、誰もが温かな記憶を手にしているわけではないのだ
思えば、アレンの左腕。
ミランダも最初は訝しんだ。
心無い視線に晒されたことは、一度や二度では済まないだろう。
アレンより教団生活が長いというリナリー。
彼女も、あの笑顔の奥に抱える何かがあるのかもしれない。
イノセンスが与えてくれたチャンスには、感謝している。
しかしミランダ自身も、今となってはその力に虚しさも見出してしまった。
今日の訓練で確証を得たことだ。
やはり、発動を止めると、時間が元に戻ってしまう。
特性だろうとは言った。
元帥に最も近い位置にあり、イノセンスをよく理解する彼が、はっきりとそう言った。
つまり、訓練次第で改善されるという訳ではないのだ。
この時間の中で受けた傷は、発動停止の一言で体に返る。
致死の傷まで返してしまう。
無かったことには、出来ない。
死者は、蘇らない。
「……っ」
ミランダは走る。
怖かった。
この手に多くの命を預かることになるのだ。
ミランダの一存で、人は生き延び、そして生を終える。
「う……っ」
涙が零れる。
今ならば、の言葉の意味が、よく分かる。
――耐えうるだけの覚悟が、貴女には、あるのか?――
コムイから、聞いてしまった。
「聖典」は命を蝕むと。
彼は覚悟したのだ。
それでも彼は覚悟して、進むことを選んだのだ。
「少しでも……長く……っ」
――この時間の下にある命が、一瞬でも長くこの世に在るように
ミランダは、走り続けた。
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