燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









優しさと喜びの象徴は
心に希望を運び入れ
愛しさと哀しみの傷に
絶望を呼び込んだ
廻る夢の中
繋がる、悲劇の断章



Night.14 橙色の鎖









――目を開けたら、目が合った。

「……!?」

慌てて飛び起きたに、顔を覗き込んでいた橙色のワンピースの女性は、悪戯っぽく笑いかける。

「おはよ、くん」
「お……おは、よ……」

目覚めた瞬間の衝撃から逃れられないまま、は彼女を呆然と見上げた。
彼女は笑う。

「ほーら、ちゃんと目を覚まして!」

彼女は有無を言わせず、に服を渡した。
カーテンを開けたのは、間違いなく彼女だろう。

「もうっ、今日は二人が家に居る最後の日じゃない。いつまでも寝てたら、一日が勿体ないわよ」

彼女はくるくるとよく動く。
彼女の好きな橙色のカーテンをしっかり束ね、窓を開け、突如振り返る。

「言い忘れてたけど、クロス様はもう起きてるよ」
「え……嘘っ!」
「ホント」

太陽のような笑顔。

「でも、今日は精神統一がどうこう言って、朝からワイングラスと戯れてる」

彼女は本当によく笑う。
その分よく泣き、よく怒るが、彼女は本当によく笑う。

「だから私達は買い物にでも行かない? というか……その……」

顔を赤くして口ごもる様子は、年上だとは思えないほど可愛らしい。
は小さく笑った。

「いいよ。師匠への贈り物でしょ?」
「まだ何も言ってないのに!」
「ジレーアの考えることだからね」

笑ってからかうと、少し頬を膨らませ、やがて照れたように笑った。
ジレーア・ティークは、そんな女性だった。
心に幾重にも纏った氷の衣を、温かな光でゆっくりと溶かしていく、太陽のような人だった。









「クロス様? 私達、行っちゃいますからね」
「おう。オレはここで精神統一中だからな、好きにしろ」
「うっわ、師匠、酒くさ……」
「お前、それちょっと傷つくだろうが」
「もう、だったら飲まなきゃいいのに」

ジレーアが呆れたように言って、の手を引いた。

「行きましょ、くん」
「そうだね……此処に居たら鼻が曲がりそうだしね……」
「……おい、てめぇら」

凄むクロスに、二人は声を揃えて笑った。

「行ってきまーす!」

ジレーアの家は大通りから少し離れた所にある。
大通りへの道は、迷子になるのではと思うほどに曲がりくねっているが、実はただの一本道だ。
両脇を民家の壁に挟まれた、狭い一本道。

「そういえば、今日は大通りでお祭りだったかも」

ジレーアがぼんやりそう言った。
この人は何故か、こうした世間の行事に疎い。

「珍しいもの出てるかもね」
「うん」

途中、唯一この通りに表玄関を向けている民家に通りかかって、声を掛けられた。
小さな家の小さな庭で、花に水をやっている老婆。

「あら、今日も仲良しさんだこと」
「こんにちは、ボウエンさん」

ジレーアが手を振り、駆け寄った。
この老婆、マダム・ボウエンも教団のサポーターである。
二人はその筋で知り合って以来の、親しい近所付き合いなのだという。

くんも、こんにちは」
「こんにちは、おばあちゃん」

もすっかり顔馴染みだ。

「今日、二人の出発の日なの」
「おお、そうだったねぇ。寂しくなるねぇ」

マダム・ボウエンは庭から手を伸ばして、の頭を撫でる。

「またおばあちゃんの所に遊びにおいでね」

は笑って頷いた。

「今日はお祭りだから、楽しんでおいで」
「あ、やっぱりそうだよね? うん、行ってきます」
「私も後から行くとするかね。二人とも、またね」

マダムに手を振って、二人はまた一本道を歩く。
家の裏側ばかりが面しているからか、喧騒は遠く、ここは静かだ。

くんも、エクソシストになるんだもんねぇ……」
「どうしたの? 急に」

彼女が、少し落ち込んだように笑った。

「もう会えないかもしれないんだなって、思ったの」
「師匠はまたきっと、ふらふら此処に来ると思うよ」

言ってから、とジレーアと顔を見合わせ、噴き出した。

「ほんと、良いのかしらね。元帥さんがあんなで」
「他の人は知らないけど、絶対に師匠がおかしいんだと思う」

そして、ジレーアを見上げる。

「だから、師匠にはまた会えるよ」

ジレーアの頬が染まる。
乙女の、淡い恋心。
彼女は俯いた。

「そうだと……いいな」

はそんなジレーアを見て、微笑んだ。
彼女が師匠に恋をしているのは、知っている。
ジレーアが恋しそうに、愛しそうにクロスを見つめる様を、もう何度も目にした。
嬉しそうに、楽しそうに彼の話をする姿も、声も、しっかり焼きついている。
そのジレーアの姿が、いつの間にかの中で大きな位置を占めつつあった。
記憶の傷さえ、癒してしまうのではないかというほどに。
彼女が、愛しい。
ジレーアはきっと気付いていないだろう。
それで構わない。
自分は、師匠に恋する彼女が、好きなのだから。

「でもね」

突然、意識が引き戻される。
ジレーアが真剣にこちらを見ている。

くんにも、また会いたいの」

太陽のような笑顔で、笑う。

「だからまた、二人で一緒に会いに来てね」

想い出の上に張った氷を一枚、溶かされた気がした。
は微笑んだ。

「……うん」

これ以上ないくらいに、心から笑った。
ジレーアは驚いたような顔をして、それから、嬉しそうに頭を撫でてくれた。
温かな時間。

――それを、爆音が打ち壊した。

「っ!?」

ジレーアが肩を跳ね上げる。
は道の先を見た。
喧騒が、悲鳴に変わっていく。
何人もの人が、転ぶのが見えた。
その上空を飛んでいく、球体の兵器。

「アクマ……!」

反射的に腰の銃を抜き、ジレーアを背にする。
背後のジレーアと、眼前の大通り。
唇を噛む。

「すぐに戻るから、どこかに隠れてて!」

振り返りながらそう言うと、視界いっぱいに、橙色のワンピース。
抱き締められたと気付いたのは、一瞬、後のことだった。

「待ってるわ、未来のエクソシストさん」

は、頷いた。

「絶対、すぐ戻るから!」

ダッと駆けだした。
爆音の最中、狂乱の大通りへ。
守るべき者と、赦すべき者の元へ。









その音は、背後から聞こえた。









大通りで断続的に響いているのと同じ、爆音。
時間が、酷くゆっくりに感じられる。
それなのに、心臓は早鐘を打っている。
は、振り返った。
周囲の音が全て、さざ波のように引いていった。
体に残ったぬくもりが、急速に冷えていく感覚。
球体の哀しい兵器。
その前で砕け散った、「愛しい人」だったモノ。

――はらりと舞い落ちる、橙色のワンピース

その橙色が、の想い出の傷の中へ、やすやすと入り込んだ。
今まさに氷の衣を溶かされた、脆い心の内側へ。
重なるのは、あの日見た、燃える黄昏の橙色。

――心臓が、ドクン、と強く脈打った。

「あ……あ……っ」

体が震える。
目の奥が、喉の奥が、体の奥が、熱くなる。

「……どうして……」

涙と共に零れる言葉と、機械の声が重なった。

「ニンゲン……殺ス……」

右肩を、強い衝撃が襲った。
惰性で後方へ飛ばされる。
地面に叩きつけられ、肺から空気が出ていった。
銃が転がる。
手が届かない、否、伸ばそうと思わない。
アクマのウイルスが、身体を巡っていく。
他人事のように漠然と、死ぬのかな、と思った。

――お兄ちゃん――

浸食が、引いていく。
代わりに、地面に広がった自分の血が、漆黒に染まっていく。

「(な、に……?)」

心臓が、また強く波打った。

「う……っ、あ……」

異様なその感覚に、思わず声が漏れる。
頭の中が真っ白になっていく。
しかし、不思議とやることは分かっていた。
には、はっきりと分かっていた。

「(待ってる)」

今、心臓はを待っている。
その力を手にするのを、残酷なまでの沈黙と共に、待っている。
ちょうど、あの日を呼んだ、重い銃のように。

――お兄ちゃん――

はふらつきながら立ち上がった。
地面に広がっていた血が、傷口から溢れる血が、宙へと浮かび上がる。
一本道の先に進もうとするアクマ。
この先には、マダム・ボウエンが居るというのに。
何より、クロス・マリアンが居るというのに。
守り切れなかった女性の、一番大切な人が、居るというのに。

「……させない」

浮かび上がった血が、輝きを放つ。
漆黒の銃が、師匠の言うように「福音」なのだとしたら。
人間が与える呵責と赦免を司る力なら。
この漆黒の血の名は、

「『聖典』」

神による、贖罪と加護を司る力。

「主よ――」

いつもの口上に乗せて、は腕を上げる。
血が一斉に広がり、アクマを覆った。
拳を握る。
合わせて、アクマを包んだ血の塊が、一回り小さくなる。
キラキラと零れていく、砂のような、アクマと血の残骸。
あの笑顔が、脳裏に浮かぶ。

――クロス様がね

クロス様ったら
クロス様は
クロス様の
クロス様に
クロス様と
クロス様
クロス様……

ねぇ、くん――

「……主よ……っ」

口上が続かない。
涙が、嗚咽が込み上げる。
口上が、続かない。

――お兄ちゃん――

は力無く手を開いた。
アクマと血が、霧散する。
急に意識が遠くなる。
ジレーアの面影が、曖昧になっていく。
また、間に合わなかった。
届かなかった。
守れなかった。

――お兄ちゃん――

糸の切れた操り人形のように、は膝から崩れ落ちた。
まるで、鳴っている鐘の内部でその音を聞いているかのような、鮮烈な声の嵐で、頭の中が埋め尽くされる。
もう、何も考えられない。
それでも。

「神様なんか……大嫌いだ……」

ただそれだけ、いつまでも、強く思い続けた。









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