燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  










 裏切られた
 そう、あなたが感じたなら
 わたしの愛は
 きっと伝わったのでしょう



 Night.138 裏切った男









 ミザンは、――金色を、見た。

「神田!? 何するんです!」
「破壊する。そいつをよこせ」
「……あきれた! 一体何考えてんのかと思ったら、キミ、何も考えてませんね?」

 離れたところから少年たちの声がする。

「こんなになったアルマを目の前にして、思考に蓋をした……考えると辛いから!」

 そう。
 ――考えると、辛い。
 嗚呼、目の前の黄金色は記憶の「金色」と瓜二つというわけではないのに。

「ミザン!」

 呼ばれた声に覚えがある。
 ミザンをまっすぐ見つめるその瞳が、面差しが、「彼」と完全に重なる。
 思い出してしまう。

 ――ミザン!

 苦境の中でもそれと悟らせない、あの溌剌とした声。
 否、苦境の中でも彼は日々を前向きに生きていた。
 彼が語る未来はいつだって明るかったし、愛に溢れていた。
 彼の理想に共感して、同じ道を目指した。
 途絶えてしまった彼の歩みを引き継ぐつもりだった。
 けれどミザンは知ってしまったのだ、世界は愛に溢れてなんかいないのだと。
 いや、思い出してしまったのだ。
 愛に溢れているのは、世界ではなく彼――フィル・グレイスの方だったのだと。

「――フィル、」

 人間は嫌いだ。
 自分のことも嫌いだ。
 けれど、フィル――彼もまた人間だった。
 世界中どこを探したって、匹敵する人間はいない。
 奇跡のような人だった。
 フィル以外の人間は全て滅んでしまえばいい。
 そう思うのに。



 ――ただ、俺は人間が好きなんだ
 だから、助けたい、って思う
 俺に救える命なんて、世界から見たらちっぽけなものかもしれないけど
 それでも――守りたいんだ



「フィル……」

 彼の理想に寄り添いたかった。
 憧れた。
 焦がれた。
 彼の愛した世界を信じていた。

「ミザン、こっちを見ろ!!」

 普段飄々としているティキの声が、ひび割れている。
 どんな顔をしているのか見てやりたいけれど、ミザンはもう、黄金色から目を離せない。

「惑わされるな! お前はノアの一族、裏切りのノアだろ! それ以外のダレでもない!」
「ティキ……私は、……俺は、人を、殺した?」
「それがっ――いまさら、何だっていうんだ!?」

 あの方舟の中で、目の前の教団の神に裁かれ、赦された筈だった。
 それなのに、全てを忘れて過ちを重ねたのはミザン自身だ。
 自分で、この道を選んだ。
 体内に捩じ込まれたダークマターがコロセと叫ぶ、その衝動のままに生きた。
 生きていいのだと思えた。
 道具として、仲間として、友として、家族として、ティキやロードがミザンを愛してくれたから。
 愛されたいという奥底の渇きを、二人が潤してくれたからだ。

「ほんと、……今更ですよね」

 二人の愛を裏切りたくはないのに。
 何も思い出さないままのミザンだったならば、このまま身を堕としても良かったのに。
 でももう、その誘惑に乗れない。
 誰を裏切ろうとも「世界」を裏切ることだけはできない。
 フィルを裏切って、彼に顔向けできない自分のままでは生きていられない。

「(心底不愉快だ、神様ってやつは)」

 この黄金色の神様はきっとまたミザンを「赦す」だろう、数多の愚かな人間の一人として。
 ならばミザンが言葉を残すなら、託すなら、懺悔しようというなら。

「ふざけるなよ、カミサマ! おまえっ、アイツに何をした!?」

 いま向き合うべきは金色ではなく、かけがえのないものを失うかのような顔でいる、あの男なのだ。

「何も。ただ思い出すべきものを思い出させただけ……アルマと同じように」
「馬鹿言え! クソッ、余計なことを!」

 嗚呼、ティキ。
 どうか、私に失望して。
 どうか私を、愛さないと言って。
 私を見ないで。
 惜しむような声を出さないで。
 千年公の命令に従わない玩具は用済みだと、そう、冷たく打ち棄てて。

「……教団の神。貴方、もう一度私を赦せますか」

 ミザン・デスベッドは裏切りのノア。
 愛されたことを確信して、最後にあなたたちを裏切るノア。

「(心のどこかでずっと分かっていた)」

 千年伯爵はこちらを見ていない。
 今まさにミザンが彼を裏切ろうという、そんな瀬戸際でも、少年たちとアルマ=カルマに夢中だ。
 最初から彼は、ミザンを見ていなかったのだと思う。
 見ていたのは、大切な人を失ったという自分の悲しみだけ。
 その悲しみの捌け口として、悲しみを捨ててしまいたくて。
 そうして切り捨てられた感情から生まれた「ノア」が、ミザン。

「今度こそ、私の望むものを与えてくれると? ……貴方はまだ、そう言えるのですか」

 進むべき時だと他ならぬミザンが感じてしまったら、世界を停止させることなどできない。
 頭上で、氷の鏡が溶け落ちる。
 氷の「」が形を失って溶け崩れる。

「やめろ、ミザンッ!!」
「もちろん」

 ひっくり返りそうなティキの声を、静かな神の声が覆い隠した。

「いつだって、何度だって、お前が望むなら」

 鎌のような両手を振り回す小柄な少女が、ティキを遠ざける。
 この少女がミザンの目隠しを切り裂いたのだ。
 向こうの怒鳴り合いも、戦闘の音も、何もかも遠い。
 白い少年が、浅紫の髪の青年に刺し貫かれていても、何もかもが遠い。
  まるで突然教会の中に踏み込んでしまったかのよう。
 否、あの黄金色を中心として、ミザンの周囲にだけ急拵えの祭壇が出現したかのように。
 ティキも、鎌の腕の少女すら弾き出し、俗世の何もかもと隔てられた聖域の中で。
  水音さえ際立つような静謐な空間を創り上げた神が、ミザンだけを視界に収めて腕を持ち上げる。

「福音」

 銃口が、ミザンを真っ直ぐに捉える。

「――銀の弾丸」

 弾丸は肉に埋まり、抉り、骨を砕いてミザンの身体を貫き、押し飛ばす。

「主よ、彼らに赦しを」

 神の声が、神に赦しを乞う。
 たった一人、ミザンの為に。
 黄金色は一拍呼吸をするほどの間を置いて、ミザンから視線を外した。

「(……これで、終わりか)」

 思えば、何もかもが呆気なかった。
 フィルの死を知ったあの日も。
 病院の関係者を抹殺したあの日も。
 神の赦しさえ、拍子抜けするほどあっさりと齎される。
 ミザンは思いのほか落ち着いた心持ちで呼びかけた。

「ティキ」

 少女を振り切って神の背に襲いかかろうとするティキに、この声が届くとは思わなかったけれど。
 ただ自分の満足のために口にしたのに、彼は足を止めて振り返ってくれた。
 倒れたミザンを見下ろすティキの顔からは一切の表情が消えている。
 それが彼らしくなくて、おかしくて、ミザンはちょっとだけ笑える気がした。

「怒るなら、私を」

 その怒りはミザンのものだ。
 居場所をくれたティキとロードを裏切った、ミザンのものだ。
 あの黄金色は最後に手を下しただけ。
 神にくれてやるなんて、勿体ない。

「(私がお慕い申し上げているのは伯爵様だけれど、あなたのこと、存外嫌いではなかったですよ)」

 癪だから、それは言ってやらない。
 嗚呼、肉体がひび割れていく。
 方舟の中で同じように撃たれた時は、こうではなかった。
 いま、ミザンの肉体はダークマターとの混じり物だ。
 それ故にアクマが破壊される時と同じ反応が起きているのだろうか。

「どうか、ロードに、よろしくお伝えください」
「……ッお前、社交辞令なんて言えたのかよ」

 ティキが髪を掻きむしり、せっかくのヘアスタイルをグシャグシャにしている。
 顔を歪めて、そんな、打ちのめされた眼差しをするなんて。
 彼らしくない。
 嗚呼、やっぱり、少しだけ、愉快だ。

「あなたは、伯爵様の元へ。こんな『裏切りのノア』のところになんて、いないで」

 ――さあ、行って。

 最後の言葉が、きちんと音になったか分からないまま、ミザン・デスベッドは機能を停止した。









 神田が六幻でアレンを刺し貫いたことは、も視界の端に捉えていた。
 けれどそこから、――いったい何が起きた?
 神田に攻撃しようと手を伸ばすアルマ。
 両者を弾き飛ばしたのは、宙に浮かんだアレンと、彼を包む結界だ。
 アレンが唇を引き上げて笑っている。
 笑い声が地鳴りを生んで世界を揺らす。

「ありがとウ、神田ユウ。覚醒デスヨ!!」

 千年伯爵がノアたちと手を挙げて陽気に喜んだ。
 曰く、神田がイノセンスでアレンに攻撃を加えたことで「14番目」が覚醒したのだという。
 リーバーが呻いた。

「最初からそれが狙いで、アルマと神田を利用したのかよ……!?」
「……クソッタレ」

 何もかも、好きなようにいいように弄びやがって。
 ――いや、毒を吐くのは後だ。

「(止めなければ)」

 そう、思うのに。
 の視界は、突然ガクンと位置を下げた。

「はッ……」

 動揺する。
 大丈夫、膝を着いただけだ。
 けれど脚に力が入らない。
 体に力が入らない。
 心臓が喉元で脈打っているかのようで。
 怒りも悔しさも何もかも綯い交ぜに吐き出してしまいそうで。
 座り込むのを何とか堪えて、は奥歯をぐっと噛み締める。
 には、分かる。

「(アレンの気配じゃ、ない)」

 愛すべき優しさも、拭いきれない甘さも、隠しきれない淋しさも、無い。
 これは「14番目」の気配だ。

 ――『14番目』が教団の仲間を傷付けるようなら……その時は僕を、殺してくださいね――

「(……お前を殺したりするもんか)」

 殺しはしない。
 諦めたりしない。
 だって、完全にアレンが飲み込まれたとは、言いきれないじゃないか。
 それが苦し紛れの負け惜しみのような言い訳に過ぎないと自覚していても。
「アレン・ウォーカー」が一欠片でも残っている可能性がある以上、は望みを捨てられない。
「14番目」がアレンの肉体で悪さをする前に食い止めてみせる。
 請け負ったのだから、叶えてみせる。
 そう、自分に言い聞かせて顔を上げる。
 羽交い締めにでもして拘束したいが、情けないことに、とてもすぐには立てそうにない。
 ならば、次善の策だ。
 アレンは「14番目」に乗っ取られている、イノセンスで対抗出来るはずだ。

「(効いてくれ、頼む、)」

 今なら意思ひとつでいくらでも古傷から血液を絞り出せる。
 それでも打てる手を尽くしたくて、は敢えて手首を握り締めて圧をかけた。
 新たに絞り出した血を一滴残らずまとめて浮かせる。
 宙を仰いで笑うアレンの頭上で、そのままそれをぶちまけた。

「(頼む、聖典――理想の王!)」

 自身の内側が引き絞られ、引きずり出されるような感覚。
 激しい脈動、そのたびに痛みに灼かれる。
 このフィードバックが来ているということは、聖典が相応のエネルギーを使っているということ。
 効果があるということだ。
 効け、早く効け。
 頼む。
「14番目」がどこまでアレンに侵食しているか、には分からない。
 大雑把でいい。
 繊細でなくてもいい。
 アレンの中身をのイノセンスで満たして、ノアを押し出してしまえばいい。

!」

 フォーが叫ぶ。
 直後、の背中に軽い衝撃があった。
 金属音にも似た、軋むような音がする。

「振り向くな! こっちはあたしに任せろ!」
「いいのか? カミサマ。このちみっこいのが倒されると、第三エクソシストの呪縛が解けちまうんだろ?」

 ティキの声だ。
 無防備に晒したの背中を、フォーが代わりに守ってくれている。

「お前はオレには勝てないさ、ちっこいの。カミサマの背中を守るなんて、無理だよ」

 ティキの声は飄々として、語尾にまで嗜虐心が満ち満ちている。
 先程まではミザンを前にして恐慌状態だったというのに。
 ――空気が、彼の冷えた心を伝えてくる。
 ミザンの死が、ティキの心に楔を打ち込んだのだ。
 激しく交錯する音が聞こえる。

「カミサマは仲間を見捨てたりなんか、しないだろ?」
、アレンに集中しろ! こっちに構うことなんかない!」

 フォーの声は切羽詰まっている。
 互いに緊迫した攻防だ。
 はもはや藁にも縋る心地で懇願するように胸元を握り締め、聖典を操作する。

「(頼む頼む頼む頼む、効いてくれ、効けッ!)」

 その時、奇妙で悍ましい笑い声が止んだ。
 アレンが体を引き攣らせる。

「……左眼……?」

 アレンが呟いた。
 その眼差しに、纏う雰囲気に、優しさが滲む。
 甘さが滲む。
 無垢な理想が滲み出る。
 完璧にノアの気配を押し返せたわけではない。
 それでも「アレン・ウォーカー」が自我を取り戻したことを、は確信した。
 目を見開いて、その姿を焼き付ける。
 ハッと息を吸い込んで、途端に噎せ込んだ。
 それまで息を止めていたことに今更気付いた。
 噎せながら、震えるように息を吸い込もうとして、それが叶わなくて。
 力を込めすぎて固まった指で、力任せに襟を広げる。
 アレンがアルマを食い入るように見つめた。
 何かを口走ろうとして、――神田に抱き上げられたままのアルマが、叫んだ。

「言うなぁあぁっ」

 全身を泡のように膨れ上がらせ、輝かせながら、アルマは神田を突き放すようにして、エネルギーを振り絞る。

「なんでなんだよ、アルマ!!」

 神田の問いかけにも答えないまま。
 左眼で何を捉えたのか、立ち竦むアレン。
 悲痛な声で叫ぶリーバーたち。
 涙を滲ませるバクやズゥが見つめる中、アルマの体が光に包まれ、膨れ上がる。

「(自爆……!?)」

 伯爵が、歓声をあげた。

「すばらしい執念デス、アルマ=カルマ。さらバ!!」









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