燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
もうやめて
みんながあなたを止めようとする
だから、私だけは
あなたのために望まれた私だけは
ずっと、隣で
あなたのために手を握るよ
Night.139 あなたの味方でありたい
――アルマ=カルマが、自爆した。
「!!」
膝をついたままのに覆い被さったのは、ティキを食い止めていたはずのフォーだ。
身を挺して爆風の余波からを守ってくれた。
果敢な行動とは裏腹に縋り付くように団服を握り締める彼女の涙で、肩が濡れる。
フォーの肩越しに見た爆心地では、神田の体がひび割れ、崩れた。
その傍らには、梵字の刻まれた丸い塊が転がっている。
あれはアルマだった塊だ。
アレンが血を吐きながら、神田とアルマのもとに駆け寄っていく。
驚いたことに、たった二人きりの第二エクソシストは、あの状態からも「再生」されていた。
アレンの腕の中でアルマの上半身が嘆く。
「――ッ!」
彼方を見つめていたの耳元で、フォーが顔を上げて息を呑み、体を強張らせた。
その反応に遅れて、は背後に迫る気配を感知した。
「(ティキ……!)」
咄嗟に自分の背後に「帳」の盾を張る。
耳障りにギィギィキィキィと鳴るゴーレムの機械音。
フォーがすぐさまから体を離し、腕を鎌の形に戻して応戦する。
振り返ると、ティキがその手に構えたティーズに「帳」を喰らわせていた。
まったく、既にあちらこちらが痛いのに、この身体にはまだ鋭い痛みの走る余地があるらしい。
「お前はそこで見てろよ、負け犬どものカミサマ。目の前でこの小さいのをぶっ潰してやるから」
「……ッ!」
は「帳」を解除して「磔」を飛ばすが、それを掻い潜るティキは言葉通りを見てもいなかった。
硬質の鎧のような両手をそのまま武器として、フォーだけを標的と定めて襲い掛かる。
後を追う血の釘が体を掠めても、ティキの攻撃は止まらない。
「千年公の計画を邪魔されんのは、ミザンにとっても不本意だろうしな!」
「アルマはっ、」
フォーが屈辱を噛み締めた顔で、唸るように敵に問う。
「アルマはどうなるんだ!」
「さあ、消えんじゃねェの?」
事も無げに言ってのけたティキが、愕然とするフォーに呆れた目を向けた。
「ダークマターは、自爆したら消えるだろ」
「ッ、あの子らを弄びやがって!!」
「弄んだ? それはお前ら教団のことだろ。――って、千年公!?」
嘲って吐き捨てたティキが、突然素っ頓狂な声を上げて上空を見上げる。
つられても彼の視線の先を追うと、導管の上で騒乱を楽しげに鑑賞していたはずの千年伯爵の姿がない。
見れば、包帯のようなものに拘束され、導管の上から引きずり落とされていた。
ワイズリーとシェリルが必死に彼を引っ張りあげようとしている。
クロスが「パンッパンのデブ」と揶揄したその体はかなり重たいらしく、ノアたちはそちらにかかりきりだ。
「(あの布は『道化ノ帯』)」
アレンの「道化ノ帯」が、伯爵を拘束している。
イノセンスを操るアレンは、神田を自身に掴まらせ、伯爵を落とした勢いに乗じて上空に跳ね上がろうとしている。
彼らの視線の先には、もはや人としても、アクマとしても形を保てなくなったアルマの姿がある。
神田がちらりとを見下ろす――それで、気付いた。
空気を読むまでもない。
彼は解き放たれたような、しがらみを捨て去ったような、含みのない微笑を浮かべていたから。
「(――逃がすのか、教団から)」
神田の肉体は、いつまで持つか分からない期間限定のものだった。
いつか、彼と永遠のサヨナラをする日が来るとは思っていた。
それは互いの肉体の限界故か、それとも戦闘の末かと思っていたのに、まさかこんな穏やかな別れだとは。
こんな形で彼に救いの手が差し伸べられるとは、想像もしていなかった。
優しくて繊細でどこまでも甘やかな、アレン・ウォーカーという存在が、神田ユウの運命を変えたのだ。
「……主よ、彼らに赦しを」
どうか、自由に。
空気が、の想いを伝えてくれただろう。
神田は応えるようにひとつ頷いて、それからアレンへと笑いかけた。
何事かをアレンに伝え、そして飛び降り、上空からアルマを抱き締める。
間髪入れず浮かび上がったのは、アレンが操る方舟のゲート。
行き先は「?」で隠されている。
第二エクソシストたちが無事にそこを潜り抜けたのを見届けて、アレンはゲートそのものを破壊した。
「さよなら、アルマ……ノアにも教団も、もう手出しはさせない!」
神田とアルマの逃亡劇に敵味方誰もが目を奪われた、その只中でフォーの悲鳴が響く。
ハッと目を移せば、精霊石が限界を迎えたのか、空間の狭間に吸い込まれるように彼女の姿は消失した。
「思ったより呆気ねーの。じゃあな、カミサマ。お前もさっさと終わっちまえ」
捨て台詞とともにティキが寄越したのは無数のティーズだ。
それを目眩しにして、ティキ本人は役目は果たしたとばかりにノアたちの元へ向かっていく。
には、その後を追う余裕は無い。
ズゥが鋭く警告を発する。
「精霊石が割れた……第三使徒の呪縛が解けるぞッ」
〈福音〉で蝶の群れを撃ち落としながら、は躊躇なく血液を散布した。
こんな時に、否、こんな時だからか、記憶の中のクロスの声がを戒める。
――優先順位を考えろ。お前が守りたい奴は、そいつなのか――
フォーは死んだわけでも破壊されたわけでもない、召喚の持続時間が切れただけだ。
だから、目の前の生命に集中しなくては。
アルマをこの場から引き離しても、トクサの身体に組み込まれたアルマ細胞は消えていないのだから。
「憎い憎い教団が憎いぃぃ!!」
神田と共に何処かへ旅立ったはずのアルマの魂には、おそらく、深く深く、教団への恨みが刻まれているのだ。
それは、例え神田と運命を共にしようとも拭われるものではないし、癒えるものではないだろう。
は突き上げられるように咳き込みつつ、暴れ回るトクサの体を「磔」の杭で地面に固定する。
劈く悲鳴。
――私を……破壊するのですか……?――
制御不能のイノセンスで攻撃してしまった時の、あの頼りない声が脳裏に蘇る。
〈福音〉の「拘束弾」で縛りつけるつもりが、トクサの体が血の杭を弾き飛ばす方が早かった。
雷撃が放たれる。
「(ッ、防ぎ損ねた!)」
非戦闘員をこれ以上負傷させたくない。
近いのはバク、次点でズゥとレニー、それからリーバーとジョニーか。
が遅れて展開した「帳」を、雷撃が切り刻もうとする。
六本の手で瓦礫を掻きながら近付くトクサを、改めて「磔」でその場に縫い止めた。
「トクサ、……聞こえるか、……トクサッ……!」
叫び声と破壊音と雷撃の中で、とうに張れない声を張り上げて呼びかけても、トクサ本人には聞こえていない。
精霊石が割れ、疲弊し蹲るバクの眼前にアレンが降り立つ。
バクを守るようにして剣を構えるその背中に、ルベリエが怒鳴りつけた。
「重大な背信行為だ。自分が何をしたかわかってるのかね!?」
「兄さん動けますかっ、トクサを……!」
アレンはルベリエには答えもせず、嘆き、叫び、喚いて、苦しむトクサを優先しようとしている。
「キミはみすみす救える命を……第三使徒計画を潰すつもりかね!!」
「愚かナ……アルマ=カルマはとっくに死んでマスヨ。あれはもはや怨念だけで呻吟っているノデス」
千年伯爵が鼻で笑って、その糾弾を退けた。
「アルマ=カルマの悲しみは、それ程までに深かったということデショウ」
そのやり取りだけ聞けば、言葉だけ額面通りに受け取れば。
千年伯爵の方が、よほど人間の感情の機微に敏いようにさえ思えた。
「(だから、AKUMAなんてものを作れるんだろう)」
教団はどうしても聖戦への勝利にすべてを懸けてしまうから。
そのくせ中途半端にココロを残すから、どこかでこうして破綻する。
――嗚呼、口惜しい
「兄さんっ……!」
は唇を噛んだ。
この体が動くのならば、この場を自分に預けるよう説き伏せて、すぐにでもアレンにアルマを追わせた。
でなければ、もう既に十分悪いアレンの立場がさらに悪くなる。
けれど。
「(無理だ)」
もう一歩も体が動かない。
立ち上がれる気がしない。
そんな言葉は、決して心にも上らせてはいけない。
決して空気に乗せてもいけない。
動けなくたって、出来ることはまだ、ある。
幸いにしての武器はすべて、自分の短い腕よりも遠くへ届くのだから。
のたうち回るトクサが「磔」の杭をググッと押し上げている。
それを力尽くで抑え込みながら、アレンの銀灰色を、自身の漆黒で捕らえる。
「アルマ細胞を、内側から〈聖典〉で中和する……いや、この場に繋ぎ止める。お前は、トクサを正気に戻せ!」
ノアたちの動きを封じたように、或いは先程アレンに現れたノアの兆しを制したように、出来るはずだ。
一も二もなく頼もしく頷いて、アレンは即座に飛び出した。
トクサの攻撃をかいくぐって剣でいなしながら、彼の名前を呼び続ける。
は拳を握る。
「(いけるか、〈聖典〉)」
否、尋ねるのではない。
己の意思で命じるのだ。
立ち上がれはしないとしても、フォーの奮闘のお蔭で、まだ息をしてもうひと働きする余力がある。
はできるだけ深く息を吸って、吼えた。
「いくぞ、〈聖典〉――『理想の王』!!」
無秩序に暴れるトクサに、血液の霧を吸い込ませる。
体が軋む。
身体の内側が燃えるように、けれど同時に凍りつくように、罅割れる音がする。
――お兄ちゃん――
の声が聞こえる。
慣れ親しんだ、鐘の音が近付いてくる。
――お兄ちゃん――
挫けそうだ。
――お兄ちゃん――
でも、挫けたくないんだ。
理不尽に弄ばれた生命、せめてその尊厳を取り戻すために食い下がりたい。
「我々の因果を現したということか……第三使徒はもはや、助からん……」
嘆いたズゥの隣で、レニーが伯爵へ怨みの籠った目を向ける。
「人事みたいに言いやがって……千年伯爵(あんた)さえいなければ、私たちは……っ」
自分の身を守るためにアレンがアルマの顔を切りつければ、耳を塞ぎたくなる悲鳴が響き渡った。
トクサの顔の同じ箇所が傷付いている。
はイノセンスに強く命じる。
抑え込め、トクサのアルマ細胞を、怨念を。
抑え込め、力尽くで構わないから。
時間を稼げ、きっとアレンがトクサを正気に戻してくれる。
自我を取り戻しさえすれば、あの気高い志を持った第三エクソシストは自力で打ち勝つことが出来るはずだ。
「伯爵の言葉など信じるものか……っ、第三使徒計画は何としても必要なのだ……!!」
けれど、兄弟弟子の思惑を度外視して、髪を振り乱してルベリエが叫ぶから。
「これは命令だ、ウォーカー、ただちにゲートでアルマを破壊しに行くのです!! 行かねば貴様はもうエクソシストではない!!」
「……ふざ、けんなっ……」
思わず零れ落ちた本音と共に地面にボタボタと垂れた血は、どこからの出血か分からない。
肺か、腹か。
おそらく鼻血も出ている。
はぐっと歯を食い縛り、血の味を噛み締めた。
教団が有効な勝ち筋を見付けられなかった、長すぎる百年。
人の道は、幾度となく踏み躙られてきたのだろう。
それは勝利に懸けて、足掻き藻掻いて、やむを得ず選び取った道なのだ、きっと。
だから「教団の神」として、彼らの行いを責めたりはしない。
彼らが責められたいと願うまでは。
それでも、嗚呼、アルマを破壊するだなんて。
殺せだなんて。
教団の都合で、彼の人生を振り回したのに。
「イノセンスめ! 憎い! 憎い!」
「トクサ、目を……っ、目を覚ませ!!」
トクサの絶叫が、アレンの呼びかけが聞こえる。
彼ら第三エクソシストの信仰を、献身を、教団は大義のためと利用したのに。
目の前で苦しむ彼を見捨てることなんてできない。
彼は、彼らは神の敵などではないのだから。
「キミは僕なんかよりずっと優れた戦士じゃないか。しっかりしろ!!」
「〈聖、典〉!」
再びイノセンスへ呼びかければ、口から地面に零れた血液がふわりと霧状に広がった。
――お兄ちゃん――
そのままの意図に従って、トクサに吸収されていく。
――お兄ちゃん――
彼の全身に血を巡らせろ。
彼の隅々までを支配しろ。
「(効け、いける、アレンにも効いた、いける、帰ってこい、帰ってこい、帰ってこい、トクサ!)」
騒乱の中で、の肉声は届かないだろうけれど。
それでもイノセンスを通じて、この空気を通じて、きっと思いが届くはず。
「トクサ……お前は、兵器なんかじゃ、ないんだから……」
エクソシストは、紛れもなく兵器だ。
でも、それを言っていいのは自分たちだけだ。
「トクサ、お前には、ちゃんと、自分だけの心があるんだからっ……!」
肩はまだ、フォーの涙で濡れている。
アジア支部の守り神が、亜第六研究所の過去を苦い思いで抱えていることは知っている。
人間たちの生と死を見つめたあの強気な守り神が涙したのは、これが初めてではない。
のことでさえ、そんな些細なことでさえ彼女は怒ったり、悩んだり、悔いたり、泣いたりする。
それを見てきたからこそ。
――嗚呼、口惜しい
勝利に懸けて兵器を創り出すなら、心なんてモノは奪ってしまえばよかったのに。
それでも彼女は名を与えられ、人格を持ち、愛して、愛された。
第二エクソシストや、第三エクソシストに至っては、初めから意思と尊厳のある生命なのだ。
――お兄ちゃん――
だったら「」は、彼らをひとつの生命として尊重したい。
「帰ってこいよ、トクサ……!」
ふ、と〈聖典〉にかかる負荷が弱まった。
遥か高い位置から、らしくない気弱な声がした。
「わたしを……破壊しない……のか……? なぜ……」
トクサの目が、直接相対するアレンを見下ろしている。
彼の自我が戻りかけている、それで〈聖典〉への抵抗が減ったのだろう。
は僅かに息を継ぐ。
「キミこそなぜ諦めるんです」
アレンが心底不思議そうに問い返すと、トクサが意を決した表情で歯軋りをした。
「そのまま……イノセンスでアルマ細胞を弱め……ろ。アルマの怨念を抑え込む……っ!」
「はい!」
いける、このまま押し切れる、きっとトクサは打ち勝てる!
――そう、思ったのに。
突如どこからか飛んできた札が、「縛羽」が、アレンを拘束した。
「な……っ!?」
アレンが驚愕に目を見開く。
「発動を解きたまえ、アレン・ウォーカー!!」
その「羽」を飛ばしたのは、「鴉」出身の監査官で。
それなら、トクサとも旧い知り合いのはずで。
今はまさに、アレンとトクサと、そしてと、三人で死力を尽くすことでようやくアルマ細胞に抵抗できていて。
その状態で、一角を担うアレンの力を封じられてしまっては。
――お兄ちゃん!――
打つ手がない。
「ぎゃおおおおおあああああ」
トクサの絶望が空気を震わせる。
膨れ上がっていく体は「磔」を弾き飛ばして無秩序に暴れ回る。
――お兄ちゃん!――
アレンがリンクを制止する。
それを上回る怒声でルベリエがリンクに命じる。
――お兄ちゃん!――
アレンは、大丈夫、俺が抑えてる、抑え込めている、だから待って、手を出さないで。
今はまだ「アレン・ウォーカー」が残っているんだから。
――お兄ちゃん!――
鳴り響く破壊音と、轟く第三エクソシストの絶叫と、その中で血液の盾が崩れる音なんて聞こえなかった。
リーバーは、自分とジョニーを守っていたその血が液体に戻った時、立ち上がって、一度転んだ。
その戦場に近付くことは不可能に思えた。
「(……でもっ!!)」
でも、自分を鼓舞してもう一度立ち上がる。
足を縺れさせて、既にバクが辿り着いたその場所へ、跪く。
「今なら助かるかもしれないんだ、リンク!!」
「きくな! ウォーカーは暴走している、締め上げてゲートを開かせなさい!!」
アレンとルベリエが、それぞれにハワード・リンクを説得している。
その音は、声は、彼にはまだ聞こえているのだろうか。
瓦礫に崩れ落ちた体は、リーバーの目が確かであれば、じりじりと動いていた。
まるで、地面を這ってでもアレンの方へ向かうように。
バクが彼の体を引き止める。
「我々は自らが掲げた『神』で殺し合わねばナラナイ。力を欲するなら『ハート』を探すコトデスヨ」
方舟によって第三エクソシストたちを強引に回収した千年伯爵が、ノアたちと共に消える。
一帯には痛すぎるくらいの静寂が下りて、その中で、彼の手が地面に爪を立てる小さな音が妙に大きく聞こえた。
「、……伯爵は、もう消えた……第三エクソシストたちも……」
自身も満身創痍なバクが、彼を抱きかかえて必死に首を振る。
「もういい、もういいっ……」
それに応えるように、リーバーの耳元で空気が嘆く。
――駄目だよ――
彼の声で。
――アレンは、俺が。兄さんなんだから――
拘束され地面に転がされたままの弟弟子が、バクの声に反応したのかこちらを見て、言葉にならない悲鳴をあげた。
BACK NEXT MAIN
250807