燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  










愛を知っている
あなたの優しさを知っている
だから、いつか私が帰る日には
あなたはどうか
私を忘れて



Night.137 そばにいたかった









もう二度と会えないのだとしたら、記憶に残る自分の姿は笑顔であって欲しい。
自分如きを思い出すのに悲しみも痛みも要らない、勿体ない。
せめて嘆きも憂いもなく、ただ、思い出した時に勇気が湧くような。
そんな笑顔であって欲しい。
そう思っているけれど。

「(上手く笑えたかな)」

ミザンを振り仰いだ時、バクに遺した笑顔に自信はなかった。
思い描いた表情であって欲しいと、ただ祈るだけだ。
ミザンの背後には巨大な氷の板が浮かんでいる。
否、茨が這うような縁どりを見るに、あれは巨大な鏡なのだ。
そこから、ぬるりと這い出でたモノがある。
人だ。
頭部に無表情な顔面を貼り付けた、人形のようなヒト。
「ソレ」は空気を踏みつけ、宙に立っている。
には分かる。
あれは空気を踏みつけているのではなく、足の裏に浮かばせた小さな盾に乗っているのだと。
なぜそんな事が分かるかといえば、「ソレ」が、の姿かたちをしているから。
フォーが吐息混じりに囁いた。

「おい、アレ……あの氷の人形、お前のカタチしてるよな?」

答えるは、気持ちの昂りを抑えきれなかった。

「そう、見えるね」
「何を喜んでんだよ……」

思わず上擦ってしまった声に問い返すフォーは、甚だ怪訝そうにしている。
氷で作られたの背後で、鏡が割れる。
キラキラと氷の粒が舞い落ちる。
嗚呼、よりにもよってこんな状況で、愉しんでいる場合ではないのに。

「……ふふっ」

偽物といえど自分自身を殺す機会に恵まれるなんて。
笑い声が漏れたのは不可抗力だ。
ミザンの氷の鏡が生み出した、の紛い物。
宙に浮かぶ方法は自分と同じようだが、戦闘法も全て模倣されるのだろうか。
氷のが手を掲げる。
降り注ぐ氷の釘を、血液の釘で迎え撃つ。
氷の砕ける音。

「(なるほど)」

動きは、自分とよく似ている。
空中から駆けてくる氷像に、帳をぶつけて自分たちの身を守る。
ブンと腕を振りティキを遠ざけたフォーが、肩越しに声を投げてくる。

「どうする」
「あの目隠しを取りたい」
「よし」

目的を共有し、即座に二手に分かれる。
誰が合いの手を挟もうが、どうせミザンはを狙う。
氷の自分だって、ミザンが操っているのならの方を追ってくるだろう。
その間、ティキに横槍を入れられるのは困る。
交わす言葉が少なくても、彼女とならば息が合う。
フォーは察して自らティキの元へ向かってくれた。
フォーとバクが持ち堪えられる時間は、そう長くはない筈だ。
それは自身も同じ。
だから。

「(死ぬより早く、殺してやる)」

は帳を解除し、銃を握り直した。

「『理想の王(メシア)』!」

集中して技を繰り出すために手っ取り早いのは、命名することだ。
千年伯爵に名付けられた技名なんて業腹だけれど、今は背に腹はかえられない。
宙に浮かぶ血液の一部を空気に混ぜてミザンの体内へ送り込む。
途端にギクシャクと体を凍りつかせるミザンを一瞥し、は反転して、氷の自分が繰り出す蹴りを避けた。
銃を突きつけ足元を狙い、発砲。
砕けた左足に右足が縺れ、ぐらついた頭を狙ってもう一度発砲する。
確かに左足と頭部を粉微塵に破壊した。
それなのに、氷のは間髪入れず氷の銃を握り、引き金を引く。

「(頭が無いくせに!)」

氷の弾丸が肩を掠めた。
団服が裂ける。
あの氷像は、いったいどうやって狙いを定めているのだろう。
連射弾にも似た氷の弾丸を転がって避け、顔を上げると、氷像のには既に頭と足が復活していた。
その背後に浮かぶ氷の礫。
氷像の腕の動きに合わせて降り注ぐ氷を、こちらも磔で打ち壊す。
は上空に浮かぶ鏡を見上げた。

「(鏡を割ったら止まるのか、それともミザンを殺さないと止まらないのか)」

ならば、と銃身の歯車を親指で回す。

――回転――

「火炎弾!」

相手が氷ならば、炎に当たれば溶けるはずだ。
相手の四肢を狙って火炎弾を放ち、そのまま照準を動かして氷像の背後に浮かぶ鏡を狙い撃つ。

「何の真似かってきいてんだよッ!!」

銃声を打ち消すほどの神田の怒号が耳に飛び込んできた。
発された技名は「五幻」。
彼とは長い付き合いだが、初めて聞く。
間髪入れずに稲妻にも似た光が見え、瓦礫が砕ける音がした。
アレンとアルマは、どうなった?
第二エクソシスト計画を知っているフォーは、思わず振り返らずにはいられなかったろう。
だって、横目に戦況を窺った。
浅紫の髪を靡かせた神田が仁王立ちし、斬撃を受けたアレンとアルマが倒れている。
神田はアルマを追い詰めて六幻で胸を刺し貫く。
瓦礫から身を起こしたアレンの肩はざっくりと斬られていた。
トクサを飲み込んだアルマ細胞が吼える。
瓦礫を這う雷撃は、リーバーたちを守るために張っている帳を荒々しく舐め回した。
胸から全身を蝕む痛みに思わず呼吸が止まる。
足が止まる。
の意思に背いて、身体がビクンと跳ねる。

「――ッ!」

気休めだと分かっているのに、手が胸元を握り締めてしまう。
バクの薬は、痛みを紛らせるが意識も遠のかせる。
けれどそれは戦闘の興奮である程度補うことが出来ると、あのオランダの街で証明済みだ。
いくら愚かな自分でも、こんな生きるか死ぬかの瀬戸際で気を失う筈はない。
だから、どうか、早く存分に効いてくれ。
そう思うが、効いたかどうか分からぬうちに次の痛みが来てしまう。

ッ!!」

フォーの警告が聞こえる。
分かっている、それでも全身が激痛に引き攣って動けない。
「理想の王」の拘束が解けたミザンが、滑るように空を切ってこちらに向かってくる。
彼が引き連れる雹の攻撃を甘んじて受け、その間に切り抜ける策を練ろう。
そう観念したところ、目の前に小さな体が降ってきた。
フォーだ。
彼女は腰を捻り、刃に変えた両腕で降りかかる雹を振り払い、を庇う。
にはひとつも掠らなかったのに、彼女の肌はいくらか傷ついた。

「っ、フォー……!」

精霊石にも罅が入ったはずだ。

「大事ない! おいっ、倒れんじゃねぇぞ、バク!!」

フォーがミザンから視線を外さずに怒鳴る。

「倒れたらみんな終わりだ!!」
「邪魔です、木偶の坊」

氷の蝶に腰掛けたミザンが手を掲げると、フォー目掛けて氷柱が落ちてくる。
かつて方舟での腕を「解いた」技のことが思い出されて、は咄嗟に氷柱を撃ち、砕いた。

「――ッぐ、」

銃を撃つために腕を伸ばす、その動作だけで吐きそうだ。
不用意に氷に触れるべきでは無い、フォーに忠告したいが、言葉が出てこない。
ミザンの口元が嘲笑うように歪む。

「まだるっこしい手段は不要ですね」

瓦礫の地面から氷柱が生え、上空からは氷のがフォーを付け狙う。
は、その背後の鏡を改めて火炎弾で狙い、撃った。
一撃では弱い。
すかさず二射目に移ろうとして、身を捩り、振り返る。

「(なんだ?)」

――変な気配がする。

先程感じた、気味の悪い空気の騒めき。
不吉な存在感。
これは。

「健気だねぇ、でもそれが命取りだぜ」

ティキの声が上から降ってくる。
忘れていた、フォーは先刻までこちらと戦っていたのだ。
は膝を着いて銃を構え直した。
凶暴な蝶を連射弾で撃ち落とし、ティキ本人を雪冤弾で狙う。
ティキは照準を上手くすり抜けて、急接近する。
応戦したい、立ち上がれない。
の顔の高さで宙を踏むティキが、ポケットに手を突っ込んだまま腰を折った。
彼に付き従う蝶のゴーレムが、ガチガチと牙を鳴らして威嚇する。
を頭のてっぺんから丸齧りにでもするつもりのようだ。
ゴーレムの剥き出しであからさまな敵意に反して、ティキの敵意は煙のように纏わりつく。
ティキはを頭の上から見下ろして、低い声で囁いた。

「オニーサン、よくもアイツのメモリーを消してくれたな」

口を開こうとすると、抑えていた呼吸の乱れが露わになる。
それが悔しくて情けない。
けれど、言ってやるのだ。

「……ミザンが言うなら、まだしも……お前、何に怒ってるつもりだ、ティキ」









息を切らしたが、それを隠しもせずに口を開く。
余裕ぶることも出来ない「神様」の惨めな姿に、ティキは少し溜飲が下がる思いがする。
神を騙る弱い人間の負け惜しみにはもう少し付き合ってやってもいい。

「大事な家族を傷付けられたんだ、何が悪い?」

そう返しながら、自問する。
自分は何にこんなに憤っているのだろう。
の声は決して大きくはないのに、ずっと耳に残る。
頭の周りをゆっくりと歩き回りながら話されたかのように。
ぐるり、ぐるり、と近付いたり離れたり、彼の問いが、自分の問いがティキの鼓膜から心を侵していく。
家族を害されたから憤った、だって?

「(なんか、違うな?)」

スキンを殺された時のことを思い返してみる。
あの時涙が出たのはノアメモリーの嘆きだった。
けれどミザンのメモリーが消されたと思われる時、ティキとロードは涙を流しただろうか――答えは否だ。
ミザンが害されたことで湧き上がるこの感情に、ノアメモリーは関係ないのか。
だとするならば。
メモリーも持たないミザンを殺さず手放さず、千年伯爵に強請ってまで自分たちの傍に引き止めた理由は。
それは単純で純粋な、ティキとロードの愛着によるものなのだ。

「(……そっか。オレって、意外とミザンのこと気に入ってんだな)」

白の自分の労働現場でイーズが無法者に殴られたら、自分は同じように憤るだろう。
そう思ったら笑ってしまう。

「(ミザンがイーズと同じってか)」

イーズの方が純粋無垢さで勝る分ずっと可愛らしい。
いやいや、ミザンも一途で可愛らしいと言えば可愛らしいかもしれない。

――また勝手に部屋に入って……何様ですか、貴方
――いや、ちゃんとノックもしたしさっきから声も掛けてんだけど
――言い訳は結構、伯爵様のお言葉以外で鼓膜を震わせたくありません。
――はあ? 相変わらずすっげぇ言いよう。その「伯爵様」から伝言預かってきてるっつーのに
――えっ。……えっ!!
――声のトーン変わりすぎだろ。あのな……
――待ちなさい!貴方の口が伯爵様のお言葉を復唱するなんて、お、お、畏れ多いことを!
――どーやって伝言しろって言うんだよ!?
――要約しなさい! ……いえ、折角の伯爵様から私への、私だけに宛てたお言葉をティキだけが知っているなんて癪……
――なんでもいいよ、もう。千年公が呼んでるぞ
――なんでそれを一番に言わないんですか! 馬鹿ティキ!
――理不尽!
――無駄話をしている場合ではありませんっ、伯爵様をお待たせするなんて! 伯爵さまぁぁぁっ!
――ちょ、待てよ、お前そんなに速く走れんの!?

思い出を美化しすぎていた。
可愛くはない。
ミザンは千年伯爵に心酔するあまり、彼を讃えようとしていつだってティキを罵倒するのだ。
それでも、黒のティキはなんだかんだでミザンとは頻繁に行動を共にしていた。
彼の部屋で、じゃれ合いのような気軽な会話をするのは、黒の自分の日常だった。
ティキは、それを割と楽しんでいた。
「友人」だ。
ミザンは、ティキにとっては友人だ。
その方が、家族という表現よりも余程しっくりくるように思えた。

「イノセンスに侵されるのは許せなくて、ダークマターに害されるのは許せる?」

なんて穏やかな問いかけだろう。
肩を喘がせているくせに、ティキを見上げたは笑っている。
アルマの覚醒前にも見せた、あの意地の悪い眼差しで。

「アクマの力を与えてまで、自分の傍に置いておきたかったなんて……なかなかのエゴイストぶりだよな」
「調子に乗って、勝手なこと言ってんなよ」

別に、特別な力なんか無くても、またいつものように馬鹿をやって過ごせればそれでよかった。
反論は漆黒の眼差しに威圧され、押さえ込まれる。

「俺の意思で、お前の意思で、ミザンの命と人生を弄んだ。俺もお前も同じ、傲慢な人間だろ」
「お前と一緒にするなよ、オニーサン……いいや、カミサマ! 大体、お前がミザンに余計なことをしなければ!」
「同じだろ。俺たちは、相手に文句を言う資格も権利も持ってない」

ヒュ、と空気が鳴った。

「けど、目の前で起こっていることは見逃せないよ」

いつの間にか漆黒の釘がティキを取り囲み、狙っている。
飛び退くが、振り切ることが出来ない。
ティキを追尾する釘、それに応戦したティーズが刺し貫かれる。

「ちっ」

自在に飛ぶ釘のひとつが左のふくらはぎに刺さったかと思えば、釘はそのまま風船のように膨らみ、脚に取り付く。
その風船が弾けると、ガクンと体が傾いた。
強烈な痛み。
左脚の肉が干からびている。
回復まで待っていられるだろうか。
いつになく本気な相手と渡り合うには、あの釘の速さを上回る速度が必要だ。
あれはイノセンスでの攻撃。
ティキには透過する術がない。

「ミザンは本当に人間を嫌うことも憎み切ることも出来てない。だって、――がいたから」

が穏やかに微笑んだ。
ティキは目の前の金色から目を離し、叫んだ。

「ミザン、後ろだッ!!」









ちょこまかと動き回る小さな影は、素早くて、大振りな氷柱では攻撃しづらい。
目障りなハエのようだ。
かと言って雹の礫を降らせても、小さな身体に不釣り合いな大きさの両腕が簡単に振り払ってしまう。
その上。

「お前っ、ホントは見えてんだろ、その目!」

余計なことまで喋る、やかましい敵だった。

「わざわざそんな目隠しする理由がどこにある!?」
「その口、よほど塞いで欲しいようですね!」

相手の顔面に向けて集中的に雹を飛ばす。
追尾しても、敵が鎌のような両腕を大雑把に振るうだけで払い落とされてしまう。

「(煩わしい……鬱陶しい)」

少し離れた場所で暴れている、第二エクソシスト達と「14番目」のやり取りが聞こえる。
奴らのことを、ミザンは何一つ知らない。
知る必要もないのだと言われたし、興味もなかった。
けれど、知らないからこそ痛いほど分かる。

――愛している

愛する者と、愛される者がそこにいる。

「(愛されたい)」

愛されたかったことだけは、覚えている。
愛されたかった。
混濁した記憶の中で、目眩がするほどの渇きを覚えながら、ミザンの名を呼ぶ声があって。
それに、ただ縋ったのだ。
名前を呼んでくれる人がいる。
親しみを込めて、愛情をもって、名前を呼んでくれた人がいる。
それはティキや、ロードや、千年伯爵や、――未だ思い出せない誰かの――。

「ミザン、後ろだッ!!」

ティキの渾身の叫びが鼓膜を打った。

「獲った!!」

重なって、背後で聞こえた声。
耳元で鳴る刃物の音に、思わず背筋に嫌悪感が走り、肌が粟立つ。
痛みも何もない。
自分が何をされたのか、それが分かったのは一瞬遅れてのことだった。

「所詮は死に損ないのボロい肉体でできた即席AKUMA。卵核で力が湧いたとて、まあ知れてマスネェ」

何よりも優先したい千年伯爵の声が、遠い。
こめかみから後頭部にかけて常に緩く頭部を締め付け、両の眼を覆い隠していた紫の布が。
はらり、と。
首元に垂れ、落ちた。
ミザンは眩しさに目を細めて、そして――









――金色を、見た。









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