燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  










呼んだら答えてくれた
嘆いたら応えてくれた
振り返るきみは笑っていた
きっと、いつ思い出しても
振り返るきみは、笑っている



Night.136 わたしが名付けた神様へ









は、自身に齎される痛みに対しては一切声をあげない。
少なくともバクは聞いたことがない。
かつて腕を骨折していながら呻くことすらせずに小舟を漕ぎ、探索部隊を本部まで連れ帰ったことがあるという。
コムイは呆れ返って頭を抱え、半ば愚痴めいた世間話として口にした訳だが、バクは驚きはしなかった。
コムイやリーバーのような本部内勤の職員にとっては、「教団の神様」は教会や聖堂と結びつく存在なのだろう。
けれど、バクたちアジア支部員にとっては違う。
戦う神だ。
戦場に在る「教団の神様」と、守り守られる間柄として懇意にしてきた。

「っ、ぁぁああアッッ……!」

だからこそ、目の前で彼が絞り出したそのひしゃげた絶叫は衝撃であり、恐怖そのものだった。
呼びかける声も、触れる手も、躊躇する。
日頃彼の意思に従って自在に宙を駆け巡る漆黒の血液は、今や完全に暴走していた。
捻れた山羊の角のような杭でトクサを刺し貫いている。
の体から、新たな血液がふわと舞い上がり、戦列に加わる。
悲鳴をあげて身体を震わせる彼を前にして、頭が真っ白になり、脅えながら手を伸ばす。

「神は我々をッ、敵と見做したのですか?」

全身にアルマの顔を生やしながら、トクサが迷子のように問いかけた。
が振り絞るように叫ぶ。

「違うっ……!!」

攻撃の気配。
の震える手が、驚くほど柔らかくバクを押し遣った。
アルマ細胞から発される衝撃波を浴びたのは、よろけたバクではない。
鉤爪に引っ掛けられて宙へ放り投げられたのも。
鋭い牙に、胴をがっちりと喰らいつかれたのもバクではないのに、尻餅をついただけの自分が体に痛みを感じている。
体が痛みに震えている。
恐怖に怯えている。
足が竦む。
地面に着いた手が震える。
こんな状況もうどうすることも出来ない、そう言って逃げ出したい。
けれど、バクは見た。
バクが名付けた「教団の神様」の手を。
アルマ細胞に喰らいつかれたまま、その口から抜け出そうと藻掻く手を、彼は、震えながら握り締めたのだ。

「(……ボクが諦めてはダメだ)」

もう彼をその名で呼ばないと誓った。
それでも、「教団の神様」の最初の信者はバクだ。
信じる者がいなければ、神は存在できない。
信じたバクに、彼は応えてくれた。
呼ばれれば頷き、訊ねられれば好きに呼べと微笑んだ彼が、「教団の神様」と名乗った。
自分自身を殺してまで。
今更、やめていいとは、言えない。
他ならぬバク・チャンが、をその位置へ押し上げた責任を放棄することは出来ない。

「(全員を、生きて帰す)」

はそのつもりで此処へ来てくれた。
ならば、バクは。

「(全員で、生きて帰る)」

千年伯爵を退け、ノアたちを退け、アルマと第三エクソシストを伯爵の支配から解放する。
その為にはこの場にいる三人のエクソシストが一人も欠けてはならない。
それだけでは足りない。
バクもズゥも、この場を打開する一手を持つ者は、過去に責任のある者は、戦うことを避けては通れない。
そうして、の拳に向けて小さく頷いた、そんな時。

「教団を捨てなサイ、アレン・ウォーカー。そうすれば我輩が、この憐れな殺し合いを止めてあげマショウ」

悪魔のような囁きが、響いた。
「製造者」の千年伯爵は、アルマと第三エクソシストの体内のダークマターを消し去ることができるという。

「(ふざけた提案にも程がある)」

そんな選択は軽々に出来るものでは無い。
アルマや第三使徒と直接の面識がないからといって、教団の都合で尊厳を奪われた彼らを切り捨てることは出来ない。
アレンに対して思い入れがあるからといって、彼の身の内に潜む「14番目」を無視することは出来ない。
こうしたバクたちの迷いを、優しいアレンはきっと慮ってしまうだろう。
アルマを、第三使徒を、仲間を思うあまりに誘いに乗ってしまいかねない。
彼に決めさせることだけは避けたい。

「ふ、ざっ……けんな……」

最早声にもならない吐息で、が吐き捨てる。
吐き捨てて、顔を歪めた。

「(選べないんだ、アイツにも)」

動揺するバクの耳を、アルマの哄笑が貫く。

「そんなことどうだっていいんだよ……ユウが死んでくれればッ、それでいいんだよぉッ」

アルマと神田は、互いに手加減をしない。
相手が何度でも死ねる体だと知っているからだ。
雷撃が神田を襲う。
アルマが吐き出した鋭利な杭が神田の体をいくつも貫通する。

「ぐぁぁああっ」

叫んだ神田は傷を押え、血を吐きながらもふと地面を見つめて動きを止めた。
その神田を、アルマは背後から狙うのだ。
バクは思わず叫ぶ。

「ダメだ、アルマ!! もうこれ以上殺してはいかん!!」
「エドガー博士……?」

アルマの声が、答えた。
視線の先では無い、上方から聞こえた声に、言葉に思わず身構える。
エドガー、――それは父の名だ。
バクとアルマに直接の面識はない。
バクの両親は、人造使徒の実験にバクを立ち会わせなかった。
けれど、バクと父は似ている。
髪の色も、顔も、声も。
アルマが絶望の中で殺したエドガー・チャン・マルティンに、バクは、似ていた。

「エドガー……博士ぇええぇええ?」

バクを父の名で呼んだのはアルマ本人ではなく、トクサを包み込むアルマ細胞だ。
いつの間にか彼を飲み込み、ひとつの肉体を形成しようとしている。
アルマ細胞がガバッと口を開けた。
喰われていたが転がり落ちる。
アルマ細胞の喉奥から、眩い光を――見た瞬間に、全身を切り裂かれた。

「ぐぁああっ」

あちらこちらから悲鳴が聞こえる。
非戦闘員の誰もが、刃物のような稲妻を浴びていた。

「憎いよぉ。エドガー博士も、みんなみんな、ぼくらを壊した奴ら全部!!」

皮膚が裂ける。
団服が焦げる。
降り注ぎ地から這い上がる雷が傷付けるのは、体の表面だけでは無い。
表皮からも、体内からも、血が噴き出して、血を吐き出して、ただ声が迸るままに叫ぶ。
アレンがトクサを正気に戻そうと呼びかけるが、トクサはもうアレンのことを認識出来ないようだった。

「さあ、我らノアと共に来なさイ、アレン」
「伯爵……なんで……っ、なんでそんなにアレンを連れて行きたいんだよ……っ」

再びアレンを惑わす伯爵の声に、ジョニーが叫んだ。

「アレンが……『14番目』のノアだったとしてもっ、あんたを殺そうとした敵じゃないのかよぉっ!?」
「そばにいたいカラ……我輩は、14番目のそばにイタイ……」

こちらを愉快そうに見下ろしていたノアたちでさえ、思わぬ告白に完全に面食らっていた。
その時だ。
バクの体を、光が包む。
新たな雷撃かと痛みの記憶に身構えるが、アルマの憎しみは一向に襲ってこない。
雷撃が止んだ? ――否、違う。
バクの体を、レニーを、ズゥを、ルベリエを、本部の面々を、黒い球体が覆っていた。

「なんなのっ……!?」

レニーが叫ぶ。
中央庁出身の科学班員たちも動揺している。
警戒するのも当然だ、彼女たちは先程初めてこれを見たばかりなのだ。
教団の神様が操るイノセンス、聖典。
「帳」が、半透明の黒くて薄い膜のような球体となってアルマの攻撃からバクたち一人一人を守っている。
――動くなら、今だ。
ズゥが瓦礫の欠片を握り締め、猛然と地面に陣を描く。
バクは被っていた帽子をむしるり取るように脱いで、精霊石に血を垂らした。

「守り神が宿りし精霊石よ……っ、我、チャンの血の元に応えよ……っ、――封神招喚!!」

精霊石の力でアルマ細胞の攻撃を押し返す。
アジア支部の封神フォーが、ふわりと宙に召喚された。
アルマ細胞の巨大化した手に握り潰されそうになっていたアレンがようやく解放される。
フォーは戦況を見てとり、アルマ細胞を警戒したままアレンへ声をかけた。

「あたし達が第三使徒の力を抑えてるうちにアルマを破壊してくれ!」

彼の返事は無い。
フォーが愕然として、アレンへと詰め寄った。

「まさか、伯爵の誘いに応じるつもりか?」

アレンがフォーに思いを吐露するのを聞きながら、バクは振り返らずに声を張り上げる。

「レニー!」

ズゥを支えていたレニーが、近くにいるはずだ。
ほら、背後から瓦礫を踏む音が聞こえる。
レニーはバクとは違って九年前の実験に加担していた。
教団への憎しみを露わにするアルマの姿には、さぞショックを受けているだろう。
けれど、今頼れるのは彼女しかいない。

「頼む、ボクの足元に瓶が落ちているから……それを、に! 飲ませてくれ、早く!」

バクの団服は既に焦げ落ちている。
そのポケットから転がり出た小瓶を、彷徨うような足取りで歩み寄ったレニーが拾った。
それから、彼女はハッと息を飲んでバクの視線の先へ駆けていく。

……!」

アルマ細胞の口から吐き出されたまま転がっているを、レニーが抱き起こした。
怨嗟の雷撃は弱まったとはいえ、まだ続いている。
バクたちにその痛みが届かないのは、ひとえにのイノセンスがそれを防いでいるからだ。

「口を開けて、お願い!」

自分の身に受けてみて初めて、その痛みを生々しく知る。
あの雷撃を十人分、まとめて食らったなら事切れていてもおかしくない。
帳が存在するうちは彼も生きているのだと、分かっているのに不安になる。
の顔は見えないが、レニーが慌てて小瓶を振るのが見えた。
恐らく、追加で飲ませろと要求されたのだろう。
この薬はそんなに一気に服用させるものではないのだが。
二人には窮地を脱した後で、よくよく言い聞かせなければならない。

「心は決まったみたいだな、少年」

アルマを救えないと嘆くアレンに、ノアが切りかかる。
フォーがそれを庇って背に傷を負った。
精霊石にヒビが入る。

「フォー!!」

耐えてくれ。
まだ、アレンもも立ち上がっていないのだ。

「あんま千年公をジラしてやんなよ」
「後腐れが無いように、お仲間は全て葬ってやりますよ。あの黄金色も、含めて」

紫のスカーフで目を隠した男も、氷の蝶に腰掛けてこちらを見下ろしている。
とレニーを包む球体の黒い盾へ、氷柱が執拗にぶつかり、砕ける。

「誰かを助けるっていうのは……そんなカンタンじゃねェんだよ!! 決めつけんな、バカ!!」

叫ぶフォーを、癖毛のノア――ティキが再び狙っている。
けれど、改めて神ノ道化を発動したアレンが、その攻撃を防いだ。

「カンタンじゃない、か……。できるかな……? 助け、られるかな……?」
「……そ、そんなのわかんねェよ!!」

気まずさに顔を赤くして怒鳴ったフォーへ、アレンはどこか安心したように顔を綻ばせる。

「――アレン」

声がした。
雷撃を一手に引き受けた彼の、ぶれない声がした。
弟弟子を慈しむように、眩しそうに目を細めてが微笑んだ。

「人もアクマも、両方とも救いたいって……そう言うお前を、俺はずっと、誇らしく思ってるよ」

座り込むレニーの肩に手を掛けて腰を浮かせた彼は、流石に眉を顰めていたけれど。
立ち上がった時には、もう、此処が戦場であることを感じさせない顔をしていた。

「俺はアイツらのことを人伝てにしか知らない。……二人を頼む。こっちの皆は、俺が守るから」

背を押されたアレンが、胸を張って答える。

「――はいっ!」
「ふたりを止めて、ウォーカー! アルマを助けられるとしたら、ユウだけよ!!」

レニーの血を吐くような声に、瞳に決意を宿してアレンが頷く。
アルマ細胞の巨大な腕に砕かれたアレンの脚の傷を、ズゥの癒闇蛇が治した。
アレンは大きな声で「ありがとう!」と謝意を述べて、激戦の中に突っ込んでいく。
上空では、銀髪のノア、ミザンが苛立たしげに頭を掻き毟った。

「ああああはははははは! 神様、カミサマ……? 結局、誰を許すことも、殺すことも、貴様には出来やしない」

ミザンの背後に巨大な氷の鏡が形作られて、ナニカがぬるりと中から這い出そうとしている。

「その覚悟も持てない、決断も出来ない、不出来な偶像め!!」

はノアには目もくれず、地面に向けて軽く手を振った。
瓦礫に埋もれていた福音がの手に吸い寄せられる。
その感触を確かめるように握り締め、俯いて銃に優しく口付けたの横顔に、汗が滲む。

「(まだ薬も効いてないだろう)」

バクが作ったのだ、それくらい分かる。
即効性を追求した。
だからといって一瞬で効果が現れるようなものではない。
ふと目を上げた彼は、精霊石の力でアルマ細胞を押し返すバクを見て、励ますように微笑んだ。
は、自身に齎される痛みに対しては一切声をあげない。

「フォー。ちょっとだけ、助けてよ」

アルマと神田の戦いは終わらない。
アルマ細胞が発する雷撃も止む気配はない。
ミザンの氷柱も降り注いでいる。
そんな中で、彼の周りだけはまったりとした空気が流れている。
昼下がりの食堂のような、或いは深夜の封印の扉の前にいるような。
フォーが声を詰まらせた。

「なんだよお前……そういうこと、言えるようになったのか」

は言い返しもせず、穏やかに目を伏せる。
――「教団の神様」は、自身に齎される痛みに対しては一切声をあげない。
バクは堪らなくなって、両の目を熱くして叫んだ。

「全員で生きて帰るぞ、!!」

その「全員」の中にどうかキミを入れてやってくれ。
果たして、祈りは届いたのだろうか。
不意を突かれて目を見開いたは、くしゃりと笑みを零して、ようやくノアへと振り返った。









   BACK      NEXT      MAIN



230204