燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









自分のものにしたいなど
願ったことは、ないから
いつまでも、いつになってもまだ
己の中の牙を折り続けている



Night.134 家族の肖像









何も見えないのは、何も見たくないからなのだ。
世界がミザンに優しかった試しがない。
きっとそうだ。
そう、思う。
思い出せない。
けれどもう、思い出したくない。
何も見えないままでいい。
それなのに。金色は、ダメなのに。

「人間を許せるのは、人間だけだ」

それなのに、聞こえた言葉に、つい顔を上げてしまった。
出処の分からない、大きすぎる恐怖が覆い被さってくる。
誰かにしがみつかないと自分を保っていられなくて、ミザンは手近な腕に縋った。

「ティキ、」

たすけて。

「もういいから、な? オレに任せて下がってろ」
「俺、……わたし、私、は、」

――家族ですよね?

この一言を口にするのに、全身が総毛立ち、震え、躊躇した。
言えない。
ティキの両手が肩を掴む。
きっと、何か言っている。
でも、聞こえないのだ。

「(頼むから、ティキ)」

ティキ。
もっと大きな声で話して。でないと。

「俺は、赦すよ」

あの金色の声ばかり、聞こえるから。

「……俺は『教団の神様』だ。伯爵、俺は、アンタの罪は、赦さない」

嗚呼。
紫の布を食い破るように、黄昏色の光が差し込んでくる、気がする。

「俺たちは神様が違うんだろ。なら、アンタはアンタの方法で、そっちの神様に赦してもらえ」

頬を撫ぜる暖かな風。
甘やかな吐息が、けれど確実に嘲るように耳元で笑った、気がする。

「――アンタは、神様なんかじゃないんだから」

気付けばティキの手を振り切って、千年伯爵さえ押し退けて、忌まわしい金色に飛び掛っていた。

「……だまれ」

息の根を止めなければ。
この両手で、直に、今すぐに。

「千年公……、千年公を、よくも、侮辱したな」

背後で、シェリルがどさりと崩れ落ちる音がした。
彼が金色の魔手から解放されて、素直に「よかった」と思う。
シェリルのことは正直よく分からない。
ミザンのことを受け入れてくれていない。
というより、彼はティキとロード以外に興味が無いのだろうと思う。
ミザンにとっても、ティキやロードほど重要な存在ではないし、千年伯爵ほど畏れ多い相手でもない。
けれど「家族」だから。

「(救ってやれば『家族』として愛してもらえるかもしれない)」

そんな打算が一瞬脳をよぎる。
不道徳な考えから、現実に引き戻された。
不吉な金色の首を掴む、その手首を折れそうなほど握り潰されている。
向こうも必死だ。
けれど、ミザンだって。

「赦さない、だと?」

軋むほど、捩じ切るつもりで、ヤツの首を捻り潰してやるのだ。
――金色は、ダメだから。

「ハッ。では一体どうするというのです? ユルサナイユルサナイと口に出すだけなら誰でも出来る!」

鐘の音が止まない。
黄昏色が、いつまでもミザンに染み入ってくる。
自分が揺らぐ。
自分が揺らぐ。
自分が揺らぐ。
捕われていたシェリルはもう解放されたじゃないか。
きっとその時、このカミサマの不思議の力は途切れた筈なのに。

「哀れな被害者である私を、殺すのですか? 哀れな第三エクソシストは? アルマ=カルマは?」

自分が揺らぐ。
自分が揺らぐ。
揺らいだ自分は、やはり、家族では無いのかも。
否、家族であると、証明してみせる。
千年伯爵を、ミザンの神様を侮辱されて、黙っていることこそ、家族でない証だ。

「それは、生命に手を加えることではないのか?」

自分が揺らぐ。
鐘の音の向こうで、聴覚に触れる鋭い風の音。
ミザンは咄嗟に相手の首から手を離し、飛び退く。
腕を掠めるのは、釘だろうか。
攻撃は止まない。
ミザンは転々と居場所を変え、追っ手を逃れる。
否、逃れてばかりなど御免だ。
必ず殺す。
ミザンがミザンでいるために。
ミザンが、家族から愛されるために。

「そうだよ」

咳き込み、濁った声で金色が答えた。

「俺も同じだ。さっきから、そう言ってたつもりだったけどな」

言葉には湿ってガラガラとした咳の音が混じる。

「(お前の位置は丸分かりだ)」

ミザンは確信を持って氷柱を放つが、流石に相手は視界が利くのだから、そう易々と当てることはできない。

「お前はあの時、こんな生き方、望んでなかったじゃないか」

数度の咳払いの後、金色が発した声は場違いな程に穏やかで朗らかだった。
否、奴はこれまであまり声を荒らげてはいない。
決して強い言葉ではなかったけれど、そんな分かったような口を利かれると、脳が沸騰するように熱くなる。

「貴様にとやかく言われる謂れはない!」

家族を害するモノだ。
生かしてなどやるものか。

「家族の愛に、愛されて生きること、これこそ私の望んだ生き方だ!」
「そうかな?」

ダークマターの能力を、ミザンは手足のように扱える。
それこそ自分の目よりも自由に。
宙から雹を生むこともできる。
氷の粒で相手を追尾することだって出来る。
けれど沸騰した頭では、氷そのものを制御することが出来ない。
まともな応戦もできないのに、また鋭い風の音が聞こえる。
金色の操る「漆黒」が飛来する。

「俺と戦ったことは忘れてるみたいだけど、自分が医者だったことは覚えてるのか?」
「(――私が『医者』だった?)」

自分が揺らぐ。
これは、金色の罠だ。
自分が医者だったこと、それくらいは「知っている」。
ロードやティキが教えてくれた。
だからこのメスが手に馴染むのだ。

「俺だって、この間知ったばかりなんだけど、……医者っていうのは、どうしたって患者を生かそうとする」
「(そういうものなのか?)」

思い出そうとすると頭が痛いのだ。
医者、医者、医者――イシャって何だ?
なぜ自分は今、医者ではないのだろう。

「(医者は、そんなに、綺麗なものでは、……なかった)」

何故、そう思うのだろう。
自分はどこで、「医者」を知ったのだろう。

「お前は、人間を完全に嫌いにはなれなかったんだ。『――』がいたから」
「(『――』って、誰だ)」
「だから、人を救うような仕事をしていたんだろ」

思い出そうとすると、頭が痛い。
黙れ、だまれ、黙れ、ダマレ。
黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!

「『――』に顔向けできないような生き方、望んでなかったじゃないか」
「黙れ! 私を殺そうとしたくせに!」

私に、その色を思い出させないでくれ。









例えば、道端の子供が通りすがりの酔っ払いに絡まれていたとする。
ティキはその現場を見たところで、特に子供を助けようとは思わない。
けれどそれがイーズなら話は別だ。
本人が「助けなんか必要ない」と言おうが、きっと白のティキは助けに走るだろう。
庇いに行くだろう。

「(コイツは、イーズじゃないけど)」

それと同じことだ。
嫌な予感がするのだ。
このままでは、ミザンがミザンでなくなってしまう気がする。
ティキは、唇を噛み締める。
ミザン・デスベッドに特別な思い入れがあるわけではない。
ノアの一族。
自分達とは少し違う、千年伯爵の悲しみから生まれた特異な「15番目」のノア。
成り立ちは自分達と異なるが、だからといって立場に違いがある訳では無い。
彼は仲間で、家族。
それだけだ。

「(特別な思い入れなんか、ないけど)」

家族が消されそうになっているのを、黙って見ていることはできない。
ましてや、ミザンの場合はこれで二度目なのだ。

「私を殺そうとした人間が、……笑わせる! よくも生き方など語ったものだ!」

このカミサマに狂わされて、このカミサマを殺すためだけに、あの日、ミザンは。
計画に入っていなかったミザンは、この黄金色の死神に、ノアの遺伝子を完全に破壊された。

「方舟とやらに放置されていれば、私は次元の狭間で消滅し、結局死んでいた」

方舟からミザンを救い出したのは千年伯爵。
彼を再び家族として迎え入れたいと頼み込んだのは、ティキとロードだ。

「私は感謝している。伯爵様や、私を家族として受け入れてくれる者たちの愛を感じて生きられる」

ミザンが満足げに胸を張る。

「今の人生だって、悪くない。私には、不満など何一つない!」

その姿に、ティキは思わず安堵の息をついた。
生かしてよかった。
救ってほしいと頼んでよかった。
スキンとは違って、まだ生きていたから、見過ごせなかった。
その気持ちに従ってよかった。
ティキとしては、あの小憎たらしい悪態を隣で聞いていたかっただけなのだ。
黒の自分の日常を失いたくなかったのだ。
白の自分の日常を奪われるのが我慢ならないのと、同じように。
吹雪のように荒れ狂う氷柱の向こうに、ミザンが大きな一枚の氷を生み出そうとした、その時。
部屋中の導管が一際大きく脈打った。
おおおぉぉおお……と部屋全体に響く、だんだん大きくなる唸り声。
ズル、ズル、と音を立て、波打つように生き物のように、這いずり回る。
白衣を着た教団の面々が脅えたように後退るが、その足を掬い、絡めとるように導管が暴れ狂う。

「わっ、わわわっ!」
「こ、こっちに来るなっ!」

教団員の中で、白のティキが愛用しているような分厚いメガネを掛けた二人が、一際大きな声をあげて脅えた。
は彼らを気遣うように振り返り、そのまま舌打ちを零す。

「くそッ……!」

導管は、元々部屋中に張り巡らされていた。
それを跨ぐような形で張られた漆黒の盾は、内側に敵を引き入れているのも同然だ。
導管の動きを制することが出来ない。
ティキは、蝶を舞わせての気を引いた。
険しい顔で此方を睨む瞳に笑いかけてやる。

「さあ、盾を解いて仲間を助けに行ってやれよ、カミサマ」

言いながら、ミザンの肩にそっと手を置いた。

「ティ、キ、」
「どんな声出してんだよ」

興奮を遮られて喘ぎながら呟く声に、思わず吹き出してしまう。

「(オレの名前を呟くなんて、全然お前らしくない)」

まっすぐ千年公だけ見てろよ。
オレのことなんて、もっと蔑ろにしたって構わないんだよ。
もっと横柄に振舞ってもいいんだ。
見えないだろうと分かっていても、安心させてやりたくて、ティキは笑う。

「オレに任せろって、言ったろ」

ミザンが躊躇いがちに唾を飲み込み、それから、嘲るようにハッと息を吐き出した。

「ふざけてんですか。私が、助けさせてやってるんですよ」
「ハハハッ、それでこそ」

は自分が張った盾を解除できない。
ミザンの氷とティキが、非戦闘員を狙っているからだ。
一瞬の逡巡が状況を変える。
暴れる導管は千年伯爵のように「教団の神様」と話し合う気がない。
はひらりと身を躱すが、着地点にも導管が滑り込む。
器用にその上を弾んだが、それでもたたらを踏んでよろめいた。

、オレ達のことはいい! お前は捕まるな!」

何本もの導管に絡め取られた金髪の「班長」が叫ぶ。

「お前が捕まったら終わりだ!」

が顔をあげ、躊躇いを振り切るように決然と手を伸ばす。
漆黒の盾が解除された。
盾は巨大な釘に姿を変え、非戦闘員を捕らえた導管を強引に破壊する。
その傍から新たな導管が束になって教団の者達を絡めとる。
ティキは軽く肩を回した。

「さて、やってやろうぜ、ミザン」
「まあ待て、本題を忘れるなよ」

ワイズリーが宙に吊り上げられたアルマを見上げて笑った。

「アルマ=カルマの覚醒を妨げてはならぬ」

その声に、捕らわれている老爺と白衣の女が、アジア支部の支部長が、悲痛な声を漏らす。

「アルマを目覚めさせて、何をさせる気なんだ!?」

彼らの引き攣った顔を見遣って、存分に微笑みかけ、ワイズリーはふいと顔を逸らした。

「最初から親切に教えてやっているではないか」

導管の上で、千年伯爵がおどけて頷く。

「ええ、エエ。安心安全明朗会計をモットーにしてますからネ、我輩」

が足を止めて、千年伯爵を振り仰いだ。

「アレンを、教団から退団させる……」
「そウ! よく覚えていましたネ」

嬉しそうに笑って、伯爵は手を叩く。
が伯爵に目を留めたのは僅かな間だったが、その一瞬で事態は大きく変化した。
ワイズリーの能力で過去に捕らわれていた筈のアレンが、突然立ち上がったのだ。

「へ? ……動いた!?」

余裕綽々だったワイズリーが、細い目を見開く。

「少年?」
「アレン?」

ティキとの声が重なる。
導管の動きが激しさを増す真っ只中で、アレンが体を震わせながら唸った。

「いつまでこんなの垂れ流してるつもりだ……っ」

一方、神田の方は苦しげに眉間に皺を寄せている。
アレンとて悪夢を見ているかのように顔を顰めているのは同じだが、こちらはこめかみに青筋を浮かべている。

「あのターバン野郎なんかにいーようにされて……っ、過去(きおく)のぞかれて!」

アレンが目を開く。

「いつもの短ッッッかいキミのド短気はぁ」

イノセンスの宿る左拳を大きく振りかぶり――、「どこ行ったんですかーーーー!!」
神田の顔面に真正面から殴りかかった。

「キレるとこ、そこーーーー?」

拳の角に当たり、神田の額の「目」が割れる。

「うがっ! 頭痛ぅーっ!」

アレンの額の「目」も割れ、ぬいぐるみ姿のロードもむくりと起き上がった。

「イノセンスで額割るって、容赦ないね、アレン」
「元々僕らこーゆう間柄ですから」

殴り飛ばされた神田に連動するように、シェリルの足元に倒れ込んだワイズリーが喚いている。
額の「第三の目」を割られた衝撃で、持病の頭痛が出たらしい。
導管の動きは益々激しくなる。
ティキはミザンの腰を抱き上げて、シェリルの隣に退避した。

「ちょっ、ティキ、どこ触ってんですか! 変態!」
「は!? 人聞き悪ィ! 生娘か!」
「そこ、人の隣でイチャイチャしないでくれる?」
「頭イタイのだー! イタイイタイイタイイタイ、うぬぅー」
「はーい、ワイズリー無能タイム入りましたー」

ティキ達にもワイズリーにも茶々を入れられるくらい、シェリルは神様による拷問のダメージから回復したらしい。
ひでーな、と呟いてはみるが、安堵で頬が緩むのは抑えられなかった。

「やだ、ティッキーったら、ボクのこと心配してくれてたの!?」
「あーあー鬱陶しい」

こちらのほのぼのとした雰囲気とは裏腹に、ロードの声がふわふわと警告を発する。

「でもねぇ、アレン。ちょーっと遅かったかもぉー」









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