燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
私を呼ぶ、声がする
応えるべきだ
その御許に侍るべきなのだ
けれど、どうか
この錨だけは
下ろしたままでいさせて
Night.133 この祈りが、証
「――染まれ」
が聞いたこともない冷たい声を発した。
その途端、ジョニーたちは見えない拘束から完全に解放され、揃って尻餅をついた。
上げ続けていた腕が痺れている。
バロウズは座り込む部下を引きずり、立たせようとする。
ペックがマシューと共に導管で塞がれたままの出口へ走った。
ルベリエとレニーはズゥを支える。
リーバーとバクがに駆け寄ろうとして――。
「下がれ!」
振り返りもせず、が一喝した。
一瞬怯んだリーバーの服をバクが鷲掴み、放り投げるようにして自分の背後まで下がらせる。
拳を握り、ひとつ頷いたリーバーは、尻餅をついたままのジョニーに手を貸してくれた。
「ジョニー、お前、先に逃げろ」
「班長はっ?」
リーバーがを振り返る。
「アイツを置いていけない」
「馬鹿か、リーバー! お前も来い!」
出口の導管を蹴り壊そうとしていたペックが、真剣な顔で首を振った。
「ボクらが残って何になる!? 足手纏いだ! ただ殺されるだけ! 分かるだろっ!?」
語気は強いのに、声は普段よりもずっと小さい。
ペックの視線の先には、がいる。
トクサをバクに押し付けて伯爵やノアと対峙する彼の、背中が見える。
震えながら大きく上下する肩は、以前に測った時よりも更に薄くなっていて、ジョニーは眉を顰めた。
「(また、服が合わなくなってる)」
数少ない貴重な戦力、エクソシスト、その中で大きな比率を占めるのは歳若い少年少女達だ。
ジョニーは、団服のデザインをする都合上、エクソシストと関わることが多い。
成長期の彼らは、測定通りのサイズに合わせて服を作ると、完成した時には成長がそれを上回ってしまう。
けれど、は違う。
「どう? また兄貴に近付いたでしょ?」
そう言って彼は得意げに笑うけれど、毎度服の方が大きい。
測定するたびに背中が痩せていく。
測定するたびに骨が浮いていく。
それを、ジョニーは誰より知っているのに。
それでも、思った。
彼がこの第一母胎保管室に姿を現した時。
否、彼の気配がこの保管室に近づいてきた時に。
足手纏いで申し訳ないと思うと同時に、彼を「神様」と呼ぶ探索部隊員の気持ちが分かってしまった。
「アイツはオレたちを助けに来たのに、置いて逃げるなんて、」
険しい眼差しで、リーバーが言う。
ペックが一蹴した。
「尚更逃げるべきだろ! だいたい、本当に助けに来たってんなら、ここも開けて欲しいんだけど」
ペックの背後で、開け、開け、と導管を叩いているマシューは、時折怯えたように振り返る。
バロウズの部下が立ち上がれないでいるのは、から目を離せないからだ。
可哀想なほどにすっかり青褪め、震えている。
「(ああ、そっか)」
彼も、彼女も、ジョニー以外の誰も、アルマ=カルマの姿に動揺しなかった。
吐くほど動揺したのは、ジョニーひとりだった。
それなのに「神様が人を殺した」ことに、こんなにも心を乱されている。
「……勝手だよ、オレたち」
「何か言ったか!?」
「消えろ!!」
苛立ったペックの声を、切り裂くような怒声がかき消した。
バクがよろめく。
トクサがの名を呼ぶ。
劈く衝突音。
瞬く間に聳え立った漆黒の壁が、と非戦闘員の間を遮っている。
紫の布で目隠しをした銀髪のノアが氷柱を突き立て、血の盾がそれを砕いていた。
間一髪、体勢を崩して攻撃から逃れた、その襟首をノアが掴み上げる。
ノアの右手に、再び氷柱が出現する。
鋭い切っ先が、限界まで体を反らしたの首を抉った。
「!!」
ジョニーは叫ぶ。
彼は、叫ばない。
散った血を新たな武器として、宙に釘を出現させる。
その釘の標的は、目の前の敵ではなく、伯爵だ。
ノアが身を捩って振り返り、氷柱を放つ。
漆黒の血の釘は、念入りに、全て射落とされた。
がノアの腹を力強く蹴り飛ばす。
まったく、あの痩せた体のどこから、そんな力が出てくるのだろう。
ノアはアルマを掲げる導管まで吹き飛ばされ、癖毛のノアの足元に崩れ落ちた。
「金色は……ダメだ」
咳き込みながら、銀髪のノアが呟く。
ワイズリーと呼ばれたノアは、こちらを見下ろして勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
先程までのノアたちは、それ以前のジョニーたちと同じように、身動きが取れない様子だったのに。
「虚しいのぅ、カミサマ。貴様の信仰はガッタガタではないか」
ジョニーは心当たりがありすぎて思わずペックたちを振り返る。
はワイズリーの言葉を鼻で笑った。
「二番煎じかよ。確か、方舟の中で……お前も似たようなこと言ってたもんな。――ミザン」
銀髪のノア、ミザンがビクリと体を震わせた。
彼は頭を抱えて後退る。
サイズの合わない団服の中で肩を喘がせながら、が一歩踏み出した。
「どうして、お前が此処にいるんだ。いや、伯爵、アンタに聞いた方が確かか……?」
彼は左手で無造作に首を拭う。
血塗れた掌を口許に寄せてふっと息を吹きかけると、血は、霧のように掻き消えた。
「あっ、う、ぐ……っ!」
ジョニーたちを拘束していたノアが呻く。
首に回していた自身の手に、青筋が立つほど力が込められているのだ。
ノアの呼吸が上がる様子を見て、が優雅に微笑む。
あまりに傲慢な笑顔だ。
けれど、だって浅い呼吸を繰り返している。
人質にしたノアを操る度に、どんどん呼吸が速くなる。
「(負荷がかかりすぎてる)」
ジョニーだって、科学班員なのだ。
戦闘には詳しくないけれど、イノセンスとエクソシストのことはそれなりに知っている。
だからこそ。
「(もう、――)」
が、漆黒の帳越しに振り返った。
あの漆黒と、間違いなく目が合って。
体を跳ねさせたジョニーに向けて、が穏やかに微笑んだ。
「あきらめないで」と言うように。
此方を振り返ったが誰かに笑いかけたのは、一瞬だった。
油断なく千年伯爵に向き直る。
「答えろよ、伯爵。そのミザンは、何だ?」
彼の背は、漆黒の帳の向こう側にあって、手が届かない。
第三エクソシストのトクサは、悔しそうな顔をしている。
体が自由になりさえすれば、すぐにでも帳を破ると言わんばかりの剣幕だ。
実際には、突き飛ばされたままの場所で、帳に縋りついていた。
「方舟でキミにノアメモリーを破壊されてしまった、哀れなノアですヨ」
「今の方がよっぽど哀れだろ」
バクもトクサと同じように、よろめいた場所でそのまま座り込み、を見上げている。
まるであの日の、船の上のように。
「ミザンは許されたがってた……なのに、どうしてまた、こんな戦場に連れてきたんだ」
「お喋りするつもりがあるなら、シェリルを解放してくれマス? ほら、もっと友好的に、ネ!」
「話をはぐらかすなら、このままコイツを殺す。次の人質は、ティキだ」
「おやおヤ。切羽詰まっているからって、そんなに怒らないデ」
味方を人質に取られているというのに、伯爵に緊迫感は無い。
身動きも取れないバクの方が、間違いなく緊張していた。
震える手で縋るように、ポケットの中の小瓶を握り締める。
第三エクソシストに関する会議には、本部科学班第一班班長のリーバーが出席することが確定していた。
だからこそ、の薬の追加分を彼に託すつもりでいたのだ。
オランダの町医者からのメモによれば、あの薬では症状の改善に繋がるような大きな効果は得られなかった。
けれど少なくとも、痛みを紛らわすことには成功したらしい。
に使用感を訊ねたところで、本人に都合のいいことしか証言しないだろう。
第三者からの観測を得られたことは研究の面で大いに役立った。
その薬を、今こそ必要とする時だ。
けれどバクは、この帳を破ることが出来ない。
「いいですカ、。ミザニーが欲していたのはネ、許しではなく、愛なのデスヨ」
「物は言いようだな。結局、お前は自分を守ってくれる傀儡が欲しかったんだろ」
「そんなまさカ! ああいうのは、ミザニーの意思デス」
へ向けて、チッチッと指を振ってみせる。
「我々と共に家族の愛の中で生きるなら、お前たちに殺されないチカラが必要でしタ」
そこで、「人造使徒計画」の応用デス!
発された言葉に背筋を凍らせたのは、バクだけでは無いはずだ。
「『元ノア』の肉体に『ダークマター』を融合した、ただそれだけの簡単なコト」
千年伯爵が押し留めるように手を掲げる。
大きく息を吸ったが、勢いを削がれて黙り込んだ。
ニッコリ笑った伯爵は、ワイズリーの能力に捕らわれたままの神田を指差す。
「『エクソシストの脳』カケル『別の肉体』。コレはいいデショウ。理の中で工夫をしたわけですカラ」
次いで、導管で宙吊りにされたアルマを指差す。
「デ・モ! 『第二エクソシスト』カケル『此方から奪ったアクマの卵核』、コレはいけまセン」
千年伯爵がズゥや、バク、レニー、ルベリエ、そしてジョニーたちを順番に指差した。
「お前たちは、何か思い違いをしているのデハ? 我々は自分たちが掲げた神で殺し合うのデス」
伯爵が肩を竦める。
「ソレは、明らかなルール違反デショ」
「何がルールだ」
が強く首を振った。
「そんなの、関係あるかよ。同じだろ、アンタも、俺たち教団も」
「おや、同じデスカ? 本当ニ?」
「同じだ。理不尽に、勝手な都合で、本人の意思を無視して、生命に手を加えて、」
「――ホラ。キミは生命に手を加えられることを嫌ウ。だからミザンを前にして、そんなにも怒ってイル」
狼の唸り声のように、低く抑えた声音を発するに対して、伯爵は肩を揺らして笑う。
「ミザンにさえ同情できるのに、どうして人造エクソシストなんてものを許しているんデス?」
「(ほら、やっぱり)」
嗚呼、――その質問に、踏み込まれたくはなかった。
教団の神様でもなんでもない「」の意思を、よりによって、千年伯爵の手で暴かれるなんて。
先日、アジア支部はの途上で話したあれは、やはり「神様」としてので、彼の本心では無いのだ。
そう思って、バクは自分の考えに心底驚いた。
「(疑ったのか? ……ボクが、彼を?)」
――自分で祀り上げておいて?
歯噛みするバクの背後には、凍りついた二人がいる。
あの実験を提案した者と、あの実験で一人生かされた者。
いや、二人だけではない。
この場にいるのは、第三エクソシストの研究を目にした者たちだ。
が帳に凭れて息を吸う。
彼に取り込まれて、空気が、浄化される。
ゆっくりと瞼を伏せて、また開くだけの時間が流れる。
あの研究を主導した者の息子として、バクは、神の裁きに身構えた。
「……だって神様は、赦してくれないじゃないか」
じたばたと醜く足掻く人間たちの前で。
「神様は、誰であれ平等に裁くだけ」
の声は、いつも通りの温度で、呟くように囁くように落とされる。
「人間を許せるのは、人間だけだ。世界で一番罪深い人間なら、きっと誰のことも許してやれる」
まるで新米科学班員たちと食事でもしているような気軽さで。
まるで「教団の神様」として微笑んでいるような慈しみをもって。
肩を組むことさえできるのに。
同時に、決して触れてはならない厳かさを伴って。
「だから、俺なら皆を赦せる。……ただ、それだけ」
バクは、いよいよ立ち上がることが出来ない。
取り返しがつかない。
取り返しのつかない事をした。
彼の境界線が見えない。
彼と「神」の境界線が、消えた。
震えるバクの後ろから、奥歯を噛み締める音がする。
「罪深いって、何だよ。お前が、何したってんだ……」
「(リーバー、気付いていないのか)」
お前にさえ、もう、気付かせるつもりが無いのか?
此方に背を向けていても、が笑ったのが分かる。
「さっき聞いたでしょ。母さんも、父さんも、おばあちゃんも、トーマスも、サーシャも……も」
みんな俺が殺した、って。
噛み締めるように、説き伏せるように、言い含めるように。
ゆったりと述べられた言葉さえ、こんなに気安い響きなのに、決して踏み込めない聖域の向こうから聞こえる。
「村の皆は、僕のせいで死んだ。『世界』を滅ぼした俺なら、誰のことだって許せるだろ」
が大仰に腕を広げる。
深呼吸なんてとても出来る状態ではないだろうに、大きく深く、呼吸をして。
その度に黄金色の光が彼から零れ落ちて、舞い上がる。
磔にされたようなその背中に、彼に、視線が、心が、嗚呼、吸い込まれる。
「それに、もし俺が、皆が言うように特別な存在なら……皆の罪を全部背負って贖うくらい、出来るはずだ」
その特別な力を味方にも敵にも十分に見せつけて、彼はパタリと腕を下ろした。
「罪は、それを赦した俺のものになる。『神様』が死ぬ時は、皆の罪も持っていく」
もう、彼が振り返らなくても、分かる。
不安に思うことなんて、申し訳なくなるくらいに。
バクが感じたより、バクが願ったより、皆が祈ったより、皆が望んだよりも、遥かに。
多くの声をその器に受け容れて、彼は、神で在ろうとしている。
彼の「家族」の罪を雪ぐために。
「赦すよ」
「教団の神様」は、真っ直ぐに千年伯爵を見据えて、宣言した。
「俺は、赦すよ」
――俺が代わりに、裁かれるから。
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