燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









――染まれ



Night.132 理想の王









「なに、感謝されるような大したコトではありマセン。『そうせざるを得ない状況』を誂えただけのコト」

千年伯爵が、芝居がかった大袈裟な動きで右手をひらりと天井に向ける。

「ほら、ちょうど、キミがお母上を殺したあの日のようニ」

――嗚呼、「あの日」か。

大きな衝撃はなく、ただぽつんと言葉が胸に落ちた。
ね、懐かしいデショウ? 笑みを含んだ声が、遠くから聞こえる。
ジョニーやペック達の困惑した声が、遠くから聞こえる。
リーバーとバクの声に出さない心の動揺が、遠くから聞こえる。
ルベリエが厳しい声を放つが、その声だってどこか遠い。



――お兄ちゃん――



嗚呼、あの日だ。
世界が黄昏色に染まっていく。
破れた屋根から、壊れた壁から。
吹き抜ける風。
雪の香り。
染み入る寒さ。
鐘の音が鳴る。
皆の悲鳴が聞こえる。
鳴り止まぬ砲撃の音。
鐘の音が鳴る。
鐘の音が鳴る。
鐘の音が鳴る。
嗚呼、世界を黄昏色が染めていく。
けれど。

――お兄ちゃん――

今、は「教団の神様」なのだから。
たとえ声がみっともなく震えても、顔は上げてみせる。

――お兄ちゃん――

否、声が震えるわけが無い。
笑ってみせる余裕さえあった。

「半信半疑だったのデショウ。我輩の外見にはちょっと脅えていましたモノ」

――お兄ちゃん――

「(父さんは、そんな臆病な人間じゃない)」

「あの日」の父を、伯爵が嘲る。
けれど、父の本当の姿なんて、が知っていれば十分だ。
伯爵になんか、教えてやらない。
思慮深い父が、代償のあたりも付けずに伯爵の誘いに応じた筈が無いのだから。
クロスから話を聞いていて、本当によかった。
落ち着いていられる。
あの日の出来事の発端は、責任は、父へ思うままに綴った手紙を送った自分の行いにあるのだと。
悲しみや怒りで荒ぶる心を、己の不甲斐なさで押し込めていられる。

「キミは台所の食器棚の傍で棒立ちデ。たすけて、と伸ばされた手も取らずにネ」

「あの日」を千年伯爵に語られるなんて、それこそ死ぬほど嫌だけれど。
もっとも穢らわしいのは、伯爵が、父と母の目を通して物を見たことだ。
のせいで、両親を辱めることになった。
それが、悔しくて申し訳なくて堪らない。

「そのくせ、自分に銃口が向けられたら、途端に武器を手にして、迷わず引鉄を引いタ」

――お兄ちゃん――

「(なんだ。全部、見てたのかよ)」

あの日に戻れるなら、あの時の自分を殺してやりたい。
の手に、手を伸ばすこともせず。
それなのに、馬鹿みたいに、自分を守ることだけは一丁前な、自分を。

「目の前のアクマが「母親」であることに気付いていながラ。口では殺したくない、なんて言いながラ」

――お兄ちゃん――

イノセンスが、呼んでいたんだ。

「(そんなの、言い訳だ)」

こんな言い方は、卑怯だ。
もう戻らない幸せな世界を、壊したのはで、殺したのもだ。
千年伯爵を恨むことも、出来ない。
きっかけはだった。
俺が壊した。
僕が殺した。

――お兄ちゃん――

それでも、僕の家族は、可愛い愛しい妹は、俺を赦してくれるだろう。
それがどれほど苦しくて、どれほど惨めなことか。

――お兄ちゃん――

分からないだろう。
生きることも死ぬこともどちらも赦されないのだと、どれほど心に刻み込まれるか。
知らないだろう。

――お兄ちゃん――

せめてこの罪人の首に、必ず、正しい刃が振り落とされるようにと。
願うことしか出来ない。
その為に、生きているのだ。
神が過たぬように。
頼むから、神様、確実に、必ず、この首だけを落としてくださるように。

――お兄ちゃん――

その為に、嘆く誰かの声を聞いて、罪があるというのなら一緒に背負って贖って。
もうそうするしかいられないのに。
それしか、もう出来ないのに。
「で、あろうな。ノアを擁護したりすれば、おぬしももう神ではいられまい」









――お兄ちゃん――
――ゆるさないで――









嗚呼、こんなの、都合のいい幻聴だ。
を穢すなんて。
の思い出を穢すなんて。
の声を、そんな言葉で穢すなんて。
いけない。
いけない、けれど。

「――見くびるなよ」

脳が沸騰するようで。
身体の中身が今にも溢れ出しそうで。
ぐらぐらと、腹の底が煮え立っていて。
それでいて、すっと目が冴える。
黄昏色が掻き消える。
否、黄昏色に染めていく。
視界の真ん中に据えたワイズリーを、黄昏色で染めていく。
ティキを、片眼鏡のノアを、千年伯爵を、――ミザンも。
知るか。
いいや、思い知れ。
染まれ。
染まれ。
染まれ。
染まれ。

「俺の思考も記憶も読めるんだろう? なあ、……そのくせ、よくも、」

染まれ。
罪の色に染まれ。
俺の罪の色に染まれ。
染まってしまえ。
染まってしまえ。
染まれ。
分からないというのなら、分からせてやる。
よくも。

「よくも、どの口が、そんなくだらないことを」
「はっ。望み通り、洗いざらい語ってみせてもよいのだぞ?」

ワイズリーの声に、は唇を釣り上げた。

「――やってみろよ」

ほら、こっちだ。
この黄昏に。
染まれ。
黄昏は、死の色。
黄昏は、神の裁き。
黄昏は、世界を灼いた絶望の色。
染まれ。
死の色に染まれ。
染まれ。
黄昏色に染まれ。
俺の罪の色に染まれ。

「(この、悔しさも、苦しさも、痛みも嘆きも、ありったけの、すべてを)」

耳元で、張り裂けそうな鼓動が聞こえる。
体内を侵すアクマのウィルスが、残らず消えていくのが分かる。
「家族」が安堵する声が聞こえる。
「家族」の戸惑いを、ようやく受け取る。
嗚呼、そうなんだ。
俺は、期待されるような人間じゃないんだよ。
こんなに赦されない存在なのに、烏滸がましくも、一度、みんなを見放した。
諦めた。
もう、どうでもいいと思って。
けれどそれではダメなんだ。
どんなに教団が罪深く愚かでも、その罪も食らうと決めたのだから。
世界を救うという誓いを、前に進むという意志を。
その為に、人の道を逸れたとしても。
手も差し伸べてくれない神の代わりに。
意思も汲み取らない神の代わりに。
傲慢な教団の神が。
赦す、そう決めたのだ。

「染まれ」

ワイズリーが抱えるように頭を押さえ、目を見開いてを睨む。

「(今更気付いても、遅い)」

は、北米支部に到着してから一度も聖典を解除していない。
ミザンと組み合った後、それが未だ空気中に在ったことを見逃していた、そちらの落ち度だ。
数百と散らした血液を操作し制御するなど、今更、意識に上らせるまでもない。
神に侵された血液は、とうに目に見えないほど小さな粒となって、空気に紛れている。

「染まれ」

此処は、――神の庭。
神が支配する領域。
此処では、神の赦しを得て初めて、存在を許される。









――やってみろよ

鐘が、鳴る。

「(ナニを、された?)」

体が動かない。
呼吸さえ憚られる。
自分達は、いったい何をされたのか?
ワイズリーの言葉に不快そうにしていたが、笑った。
それしか分からない。
「神様」の挑戦的で扇情的な笑顔に一瞬気を取られた、その一瞬で、ティキの視界は黄昏色に染まった。
遠くから、近くから、鐘の音が聞こえる。
体が動かない。
ミザンの呻き声が聞こえるが、助けてやることも出来やしない。
何せ、指のひとつも動かせないのだ。
かき消すように、鳴り響く鐘の音。

「染まれ」

黄昏色の世界に、黄昏色の光が指す。
教団の神が天を仰いで首を反らし、陶酔するように息をついた。
彼の肌を埋め尽くしていたペンタクルが見る間に薄れ、消えていく。
教団の人間の中には、安堵の息を漏らした者がいた。
ティキは、唾を飲み込むことさえ出来ないというのに。
捕らわれたままの姿で、けれど、既に教団の神はこの場の支配者であった。

「染まれ」

――鐘の音が、聞こえる。

肌を刺す、冷たい風。
香る、雪の匂い。
視界を黄昏色が、覆う。
その中に、ぽつんと佇む影。

「(――イーズ)」

なんで、此処に。
いや、何処に?
「白」の自分の穏やかな日常の象徴が、あの子が、雪の中に佇んでいる。
雪に彩られた教会の前で。
黄昏色の向こう側で。
鐘が鳴る。
そうだ、この教会だ。
これは、きっとこの教会の鐘の音だ。
ティキが渡した銀のボタンを握り締めて、あの子が此方を振り返る。

「(そこ、何処だよ)」

何でそんなところにいるんだ、イーズ。
鐘が鳴る。
少年は、ひとり、覚束無い足取りで教会の扉へ向かっていく。
鐘が鳴る。
ダメだ、イーズ、やめろ。
鐘が鳴る。
おい、やめろって。
鐘が鳴る。
予感がある。
とても不吉な予感が。
鐘が鳴る。
やめろやめろやめろ。
胸に迫る、恐怖。
競り上がる、無惨な死の気配。
鐘が鳴る。
やめろ!
鐘が鳴る。
全てが黄昏色に染まる視界の中で、眩い光を帯びた金色へ、縋るように視線を送る。
は、笑っていた。

「(お前、……そんな顔、できるのか)」

体が自由ならば、毒づいていた。
残酷な笑顔だった。
綻んでいるのは唇だけ。
凍えるような目は、イーズの、更に向こう側を見ている。
鐘が鳴る。
彼の腕を捕らえていたアクマが、ガクガクと震え出した。
鐘が鳴る。
ペンタクルが薄れていったとは対照的に、アクマは内側から黒い染みに侵された。
鐘が鳴る。
ぎこちなく、ギギギ、とボディを軋ませてを解放したアクマは、そのまま粉々に砕け散った。
拘束を解かれたが床に片膝をつく。
軽く両手を握っては開き、そして笑みを消して、傲慢な眼差しでシェリルを見上げた。

「――染まれ」

鐘が鳴る。

「クソッ……!!」

喉を握り潰されたような声で、シェリルが呻いた。
シェリルに拘束されていた教団員達が、の背後でいっせいに床に崩れ落ちる。

「うわあっ」
「な、なんだ!?」
「解放、された……?」

屈辱に満ちた悔しげな呻き声を聞けば、が彼の拘束を強引に解除させたのは明白だった。
導管で塞がれた出口へ走る者。
怯えたまま座り込む者、老爺を支える者。
そして、へ駆け寄ろうとする者。
彼らへ、神は一喝した。

「下がれ!」

が膝に手を着いて立ち上がる。

「こっちに来るな。出口の近くへ」

座り込んだままの第三エクソシストを助け起こし、肩を貸して後退させた。

「ハハハ、お見事デス、! 神に穢されたその血液を、我輩達に吸わせたわけデスカ」

伯爵が高らかに笑う。
ティキは首を巡らせてそちらを見遣った。

「教団の皆さんは無事の様子……まさかキミ自ら、人間を選りわける傲慢な神の如き振る舞いをするとはネ?」

千年伯爵はいまだ不自然な体勢で凍りついたように固まったまま、けれど声には余裕を滲ませる。

「この技、我輩が直々に命名してあげましょうカ? さしずめ『理想の王(メシア)』トデモ」

は、答えない。

「黙れ、千年伯爵!」

近寄ってきたアジア支部長が、青褪めながら伯爵を見上げる。

「貴様には、彼をそう呼ぶ資格はない。例え話であったとしても、だ! ……っておい、、」

啖呵をきった彼にトクサという名の第三エクソシストを押し付けて、が伯爵を振り返る。
その肩が震えながら上下するのを見て、ふと、ティキは気付いた。

「(……ん? あれ、オレの首、動かせてる……?)」

体を支配していた不可視の強制力が、少しずつ解けている。
鐘の音が止んだ。
気付けば視界の黄昏色が、先ほどよりも薄れていた。
もう、イーズの幻覚は見えない。
あれは幻覚だ。
今なら分かる。
仲間達はあの子に、あんな場所で、寂しい思いをさせる筈がないから。

「秘策は終わりか? 神様。随分と呆気ないのぅ」

頭を抱えていたワイズリーが、こめかみを揉みながら顔を上げた。

「いたたたた……今はデザイアスを一人締め上げるだけで精一杯と見える」
「それで、充分だ」

が誇らしげに笑う。
彼の右手が力強く握り拳を作ると、シェリルがビクンと体を跳ねさせる。
シェリルは部屋の外の支部員達と同じように、自分で自分の首を絞める格好を取らされた。

「……さっさとアルマを解放しろよ」
「だれ、がっ! 貴様の言うとおりになど……!」
「入口も、早く開けてくれ。皆を逃がせないだろ」

イノセンスの力を帯びた血液が、ノアとアクマの行動や思考を縛り付ける。
一瞬の隙を生んだその奇怪な業を、ティキは初めて目撃し、我が身をもって味わった。
けれど「」と対峙するのは初めてではないのだ。
だからこそ、ティキには分かる。

「いや? そろそろ限界だな、オニーサン」

彼が顎に汗を伝わせる姿なんて、滅多に目にするものではない。
指摘すれば、漆黒はギラリと此方を睨めつける。
そんなに余裕の無い瞳を、ティキはやはり、見たことがない。
イノセンスを破壊しそこねた、あのドールの街でさえ。

「図星じゃねェか」

ここから追い込むのは簡単だ。
早いところシェリルを解放させてやろう。
遂に自由を取り戻した肉体を解し、ティキはいざ導管を蹴り、へ迫ろうとした。
――が。

「消えろ!!」

横をすり抜けたのは、棚引く白銀の髪。
が両腕でトクサとアジア支部長を突き飛ばす。
彼と、彼らの間に聳える漆黒の盾。
が振り返るのと、叫んだミザンが握り締めた氷柱を振り下ろすのはほぼ同時だった。









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