燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









彼女は笑った
あなたをこの村に閉じ込めたくない
あの子は綴った
次のお休みが待ちどおしい
良い夫でも、良い父でもなかったけれど
せめて「我が家」を取り戻すために
――その、手を



Night.131 日は、暮れるもの









目に似た巨大な文様が床に浮かぶ。
それを見つめたまま、アレンと神田、そしてぬいぐるみ姿のロードは動きを止めてしまった。

「おのれっ、いったい二人に何をしたのです!」
「キーキー喚くな。ちょこっと神田ユウの脳をイジっとるだけだのぅ」
「ちょこっとぉ?」

ティキが訝しめば、シェリルも呆れ顔を見せる。

「ロードもいっちゃってないかい?」
「少年もいったな……」
「ワイズリーは、大雑把なんですよネェ」

ワイズリーはティキ達を五月蝿がりながらも、微笑みかける。

「九年前、おぬしらはたった二人の使徒だったのだろう?」

無数の太い導管によって、宙に吊られたアルマ=カルマへ向けて。

「今一度取り戻させてやろう、おぬしが失ったものの感触を」
「アルマには触れんでくれ! 頼む、どうか……っ、お、お願いします……! アルマにだけは……っ」
「野暮はよせ、老師」

老爺が嗄れた声を振り絞って懇願したが、ワイズリーは穏やかにそれを切り捨てる。

「ワタシらはノアだぞ? 貴様らへの慈悲など無い」

ロードとアレンは、神田ユウの記憶に飲まれただけだ。
害がある訳でもなく、少なくとも神田が覚醒すれば正気に戻る。
それまでは気長に待つしかないだろう。

「(さて、その間に……問題はこっちだ)」

ティキはワイズリーから目を離す。
嘔吐く音は、いつの間にか止んでいて、黄金色は沈黙していた。
抗うことをやめたのだろうか。
らしくねぇな、と思う一方で、第三使徒ジョイドとしての意識はざまぁねぇな、と嘲笑う。
そして、至極どうでもいい。
関心があるのはそちらではない。

「おい、ミザン」

呼びかけると、我に返ったように顔を上げる。
ティキにとって、今重要なのは黄金色ではなく、白銀色だ。
アルマを縛める導管から、隣の管に飛び移る。
俯いて、髪を握り締めるミザンが蹲っている場所へ。
彼が、細い片手を宙へ彷徨わせた。

「ティキ……、ティキ、」

ミザン・デスベッドは、いつだってティキを馬鹿にして、気のない声で名を呼ぶのだ。
裏返り、頼りない、縋るような声色を聞くと、此方の調子が狂ってしまう。

「ティキ、私は……俺は、ティキ……」
「はいはい、どーした」
「金色は、……金色はダメです、ティキ」

握った手は、異様に冷たくて震えていた。
教団の神様に脅えているのだろうか。
ティキは、手を軽く揺すってやった。

「ダイジョーブ。別にお前が相手する必要なんか、無いんだからさ」

そもそも千年伯爵は何故ミザンを此処に連れてきたのだろう。
一人残すのは可哀想だ、なんて嘯いていたような気がする。
再び氷を操る能力を得たミザンは、それを既に物にしている。
とはいえ、彼はもう所謂「ノアの一族」ではない。
戦力として数えた訳では無いだろう。
エクソシスト、とりわけ第二エクソシストや臨界者などには敵う筈もない。
では、何故?
ティキは、何も知らされていない。
きっと、ミザン本人も何も知らない。

「ダメです、ティキ……金色は……」
「ああもう分かった、分かったよ。金色はダメなんだな?」

おざなりに頷いて、はたと彼を見つめ直す。
この、紫の布は。
彼の目に掛けられた紫の布は。
彼の視界を遮っていたのではなかったか。
そもそも彼は今、目が見えないのではなかったか。
目が見えないならばわざわざ目隠しなどせずともよいのでは。
ミザンからノアメモリーを剥ぎ取った教団の神様は、この布越しにも存在を見せつけてくるというのか。
それとも。

「ティキ、」

ティキは指先でミザンを宥める。
そうしながらも、もう黄金色から目を離せない。

「分かった。……分かったっての」









吹きさらしの街角で肩を寄せ合い生きてきた。
幼い二人を守るように。
「兄弟」のように。
生きるために中央庁の誘いに乗った。
ルベリエの手を取り、ここまで助け合って生きてきた。
自分でも、世界を救えるのだ。
何も持たなかった自分達が、世界を救うのだ。
そうして、存在を証明したい?
それとも、存在を承認されたい?
そう問われれば否定はできまい。
けれど「世界を救いたい」。
アレンへ叫んだその想いに偽りはない。
だからこそ、神に捧げられる路を選んだというのに。

「(くそっ、こんな姿で)」

トクサは唇を噛む。
地面に座り込んで、立ち上がることさえできないなんて。
こんなことならアレンなど放っておいて、さっさとマダラオに吸収されておくべきだった。

「(よりによって「教団の神様」を前にしてこんな無様を晒すとは)」

千年伯爵への敵意を上回るのは、すぐそこで捕らわれている黄金色への激しい劣等感だ。
聖女が彼にもたらした予言は「神の寵児」。
なるほど、言い得て妙とはこの事で、神の寵愛を受ける者は確かに存在するらしい。
――
神に二つのイノセンスを許された存在。
トクサがどれほど望んでも適合できなかったイノセンスを、二つもだ。
挙げ句そのうちの一つは、本人の身の裡に宿っているというのだから、敵わない。
神は、初めから寵愛する者を決めていた。
初めから、気に入りの羊に印をつけていたのだ。
寵児がその待遇に甘んじているのならば、難癖をつけることもできた。
けれど、あの黄金色にも、捧げられるものなどきっともう何も無い。
如何にトクサがこの身を捧げて救おうと思っても、敵わない。
それなら敵わないなりに、トクサが捧げられるものも全て捧げよう。
そうして世界を救う。
本部で偶然この黄金色に射抜かれ、そう、覚悟した。
だからがアクマに捕まった時、あそこまで声を張って、何とか勇気づけようとしたのに。

「……目的は、アレンの退団パーティー……って言ったな? 伯爵」

咳き込みすぎて声を嗄らしたが、顔を上げて伯爵を睨め付けた。
それを、トクサは首を反らして見上げる。
彼が敵に捕らわれている状況は、好ましくない。

「なのに、そこのワイズリーっていう奴は、端からアルマを目覚めさせる気だった。何で?」
「(どういうつもりだ、)」

先程まで、ずっとは噎せていた。
無理矢理飲まされたアクマの血液を吐き出そうと、必死だったように見えた。
けれど、トクサが気付いた時には、既に抗うことをやめていた。
通常アクマの血の弾丸を受けた者は、ペンタクルに肌を彩られ、そのまま砂になって砕け散る。
今、教団の神と呼ばれる彼の肌は、ペンタクルの形も分からぬほど変色している。
もういつ砂になってもおかしくはない。
それなのに。

「二人の記憶を暴いて、……アルマに、何をさせる気なんだ」

驚くことに、本人が一切焦る様子もなく、落ち着いて千年伯爵に語りかけたりするものだから。

「確かに……アレンは第二使徒計画とは無関係なのに」

呟いたリーバーを含め、壁際に捕らえられている教団の面々は、いつの間にか危機感を失っているようだった。
先程まで、なんとかアクマの血のウィルスを浄化するよう、あれほど必死に呼びかけていたのに。
ルベリエさえ事の成り行きを見守っている様子だ。

「(一刻の猶予も無いだろうに……!)」

とはいえ、トクサも確かに気になってきた。
二人の第二エクソシストを、アレン・ウォーカーの退団にどう利用しようというのだろう。

「ただアレンを教団から追放するためだけに、随分と回りくどいことをするじゃないか」

ワイズリーと呼ばれたノアが、肩を揺らす。

「言葉に気を付けた方がよいのぅ、カミサマ。弟弟子を教団から追い出したいように聞こえるぞ」

そもそも第二エクソシストの件は、一般の教団員にさえ秘匿されている事柄だというのに。
伯爵は、いったいどこで九年前の情報など手に入れたのだろうか。
驚くべき情報力だ。
ワイズリーが、トクサを軽く見遣って鼻で笑った。

「同じ土俵に立っているなどと、本気で思っていたのか?」
「(クソ……ッ!)」

あの、額の第三の目。
それに、神田ユウとアルマ=カルマへの所業。
巻き込まれたアレンの様子。
薄々気付いてはいたが、確信に変わる。
このノアは、他者の思考を読み取れるのだ。
それが、読み取るだけなのか、操ることさえ出来るのか。
どちらにせよ、迂闊にものを考えれば、その内容はこうして相手に筒抜けになってしまう。

「きっかけで動ける人というのはネ、実はとっくにそうすると決めている人なのデスヨ」

千年伯爵が、アルマを拘束する導管に「どっこらしょ」と腰掛けた。

「ご存知でしょうケド、そこの半端者はなかなかの頑固者デス。キミと同じでネ」
「はは……アンタらノアの一族よりは、よく似てる兄弟で、微笑ましいだろ」
「否定はしませんヨ。ま、キミ達もあんまりクロスには似ていませんケドネェ」
「別にあの人とは家族でも親子でもねぇし」

素っ気なくが呟く。
こんな状況なのに、トクサは彼の意外な一面を見たようで、少し面食らった。
教団の神様も、感情に流された人間のような顔をするのか。
修練場で対峙した時とはまた違う、不貞腐れた子供のような表情を、するのか。
千年伯爵は、機嫌よく笑った。

「ま、そんなワケで、キミの例を参考にして、親切な我輩が手ずからお膳立てしに来てやったのデス」
「……俺の例?」
「なに、感謝されるような大したコトではありマセン。『そうせざるを得ない状況』を誂えただけのコト」

芝居がかった大袈裟な動きで、仇敵は右手をひらりと天井に向ける。

「ほら、ちょうど、キミがお母上を殺したあの日のようニ」



――なんだって。



視界に、黄昏色の影が降りる。

「殺した?」

きんと冷えた雪が、肌を擽る。

「母親を?」

どこかから、鐘の音が聞こえる。

「神様が、人を……?」

困惑した声は、或いはトクサ自身が発したものだったかもしれない。
どこからか、鐘の音が聞こえる。

「呑気な雑談に付き合う必要など無い!」

ルベリエが叫ぶ。

「いいか、! 今すぐその拘束から脱出するのだ!」

日頃の付き合いが深いらしいリーバーやバクは、声も出せずにただただ困惑した顔を彼に向けている。
中央庁から移籍した科学班員達が、囀る。

「か、神様が、そんなこと、するはずない」
「そうだ、こんなの……伯爵の、罠ですよ」
「ええ、きっとそう。何かの間違い、ですよね?」

否定して欲しい。
否定して欲しい。
否定して。
どこからか、鐘の音が聞こえる。
トクサは自分が何を呟いたかもよく分からないままで、説明を求めてを見た。

「全てのアクマのこと、覚えているのか?」

伯爵にそう問うたは、微笑んでいる。
声は支えを失ったように、僅かに底を震わせていたけれど。
確かに、は微笑んでいる。

「大した記憶力だな」

そして、彼は否定をしない。
壁際から呻き声が聞こえる。
彼と親しくない者ほど、真っ青になって震えていた。
から目を離せない。
どこからか、鐘の音が聞こえる。

「キミってヤツは……自分がどれほど神から目をつけられているか、全く自覚していないのですカラ」

心底呆れた声音で溜息を吐いてみせた伯爵が、チッチッ、と指を振った。

「アクマの眼、それ越しでも十分デス。キミの異常さは、しっかりみっちり伝わりましたヨ」

千年伯爵の顔は、アクマの仮面のようにも見える。
何を話していても、表情がまるで変わらない。

「いつまでも、いつまででもキミに見惚れていたかったのに、アクマの視線でしかキミを追えないナンテ」

そんな伯爵が、うっとりと夢見るように、たっぷりと余韻を含ませて「微笑んだ」のだと。
今、はっきり分かった。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。

「口惜しい限りデシタ……挙句、穢れた神なんぞに攫われてしまった我輩の嘆きがキミに分かりマスカ?」

嗚呼、あの日が懐かしいですネ――









皮はキミのお父上、魂はキミのお母上、愛し合っていた夫婦のアクマ……。
思い返せば、ブローカーから引き渡されたキミのお父上は、あっさり我輩の言葉に頷きマシタ。
とはいえ、その割には数日待ってくれ、などと「妻を喚ぶ日」を指定したのですケド。
一日でも先に妻に会うのは、子供達に悪いから……なんてネ!
半信半疑だったのデショウ。
我輩の外見にはちょっと脅えていましたモノ。
懐かしいですネェ。
もっと早く村に行く方法もあったのに、あーのアクマちゃんときたら、線路を辿ることに拘っテ。
ええ、ええ。
キミと妹が出迎えてくれたところからはもう、よく、よく覚えていマス。
我輩としては、台所に向かうキミの後ろ姿をもっと見ていたいと思っていたのデスガ……。
お母上は、迷わず妹ちゃんを撃ち殺しマシタ。
キミは台所の食器棚の傍で棒立ちデ。
たすけて、と伸ばされた手も取らずにネ。
そのくせ、自分に銃口が向けられたら、途端に武器を手にして、迷わず引鉄を引いタ。
引き寄せられるように、呼ばれたかのように、銃を手にしましたネ。
ま、事実「呼ばれた」のデショウ、「そちら」の神様ニ。
その瞬間から、キミはエクソシストになってシマッタ。
目の前の存在が「母親」であることに気付いていながラ。
口では殺したくない、なんて言いながラ。
それでも、神様の手で、直々に、エクソシストにされてしまったキミは――









どこからか、鐘の音が聞こえる。

「だからキミは、迷わずお母上を殺したのデショウ?」

おんなじコトですヨ。
表情は変わらないのに、伯爵がニンマリと笑う。

「キミは、エクソシストになってシマッタ。エクソシストはアクマを破壊する存在、ですものネ?」

トクサは、を見上げた。

「(……反論を、しないのか)」

よくある話だ。
夫が妻を喚び、娘を殺す。
ありふれた悲劇だ。
ただ、その場に居合わせた息子がイノセンスの適合者だったというのは、珍しいケースだろうが。
それでも。

「(当たり前じゃないか)」

たとえ自覚がなくとも、適合者が対アクマ武器を用いてアクマを破壊することを「殺した」とは言わない。
この場合は寧ろ、母が父を殺し、皮を被って、娘を殺した。
その時点で、既にの家族は皆死んでいたのだ。

「(否定をしないのか、)」

どこからか、鐘の音が聞こえる。
が目を伏せ、それから真っ直ぐに千年伯爵を見据えた。

「だから?」

今、その漆黒からは、日々謳われる慈愛は微塵も窺えない。

「……まどろっこしいな、ほんと」

ただ大儀そうに、吐き捨てるように問う。

「俺、今、アンタのせいで気分が悪いんだから……何が言いたいのか、はっきり言ってもらえる?」
「おぬしがエクソシストとして覚醒したように、そやつをノアとして完全に覚醒させてやる。そういうことだ」
「は?」

口を挟んだワイズリーに対して、は不愉快さを隠しもしなかった。

「ノアとして覚醒してしまえばもはや、教団に居残ることは出来ぬ。教団の神だとて、庇いきれんだろう」

ワイズリーが愉快そうに笑う。

「それとも、庇ってみせるのか?」
「……アレンが本当にノアになったなら、俺はあいつを、殺す」
「で、あろうな。ノアを擁護したりすれば、おぬしももう神ではいられまい」

どこからか聞こえていた鐘の音が、止んだ。

「――見くびるなよ」

静かな声が、地面を這う。
ワイズリーが、不意に顔を顰めて手で耳を押さえた。

「俺の思考も記憶も読めるんだろう?なあ、……そのくせ、よくも、」

空気の密度が増す。
重たい冷気が這い寄ってくる。
視界に、黄昏色が、ちらついては遠ざかる。
トクサを巻き込まぬように、遠ざかっていく。

「よくも、どの口が、そんなくだらないことを」
「はっ。望み通り、洗いざらい語ってみせてもよいのだぞ?」

ノアも頭痛を感じたりするのだろうか。
痛みを堪えるように引き攣った頬で挑発するワイズリーへ、が、笑いかける。
視界を掠めた黄昏色が、トクサから遠ざかり、ノアの足元にまとわりつく。
ワイズリー、トクサを捕らえたノア、導管に座る他のノア達、伯爵さえも。
彼らは一様に顔色を変え、体をぶるり、と震わせる。
「教団の神様」が、一声呟いた。



――やってみろよ









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