燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
あなたが、ただ健やかに
あたたかな人達と一緒に
慎ましくても優しい日々を
生きてくれること
それだけで、よかったの
Night.129 教団の神様
右耳にイヤリング型の通信機を提げて、は北米支部のゲートに駆け込んだ。
支部にはコムイが話を通してくれた。
警備班員の青年が、会議が行われている「第一母胎保管室」へ案内してくれるという。
正直、煩わしい。
北米支部の構造には詳しくないが、リーバーの気配を辿れば問題なく彼を探し当てることが出来る筈だ。
断っても良かったが、つい婦長の表情が脳裏に過ぎって断れなかった。
案内役がいれば、迷わず最短時間で辿り着けるに違いない。
そう思い直した矢先だった。
――様子がおかしい。
北米支部に繋がるゲートを潜った瞬間に、違和感があった。
階段を飛び降りるまでの一瞬でも、把握出来ることは多い。
鳴り響く警報。
支部の空気全体が恐慌に揺れている。
声はひとつも聞こえないのに、空気が脅えて、叫んでいる。
何より、床に足をつけて傍らを見れば、案内役であろう青年が大粒の涙を流しながらを見ていた。
両手を首に回して、自分の首を自分で絞めるような格好で。
涙を拭うことも、声を発することも出来ない様子で。
――助けて
――戻って
――助けて
――助けて
――助けて
――死にたくない
「ああ」
――死にたくない
――死にたくない
――死にたくない
――死にたくないんだ!!
劈くような警報が、彼の不安をますます煽るのだ。
だから、は一度福音をベルトに挟んだ。
両手を伸ばして、そっと彼の耳を覆う。
ちょうど同じくらいの身長だ。
目を閉じて、額を合わせて、深い呼吸を聞かせてやる。
「……わかったよ」
彼の耳に、この声だけが届くといい。
涙の向こうの瞳に、ちらとでも微笑みが映るといい。
いいや、見えなくても、彼の心に温もりが届けばいい。
の冷たい手では、あまり役には立たないかもしれないが、それでも。
「大丈夫だ」
彼が鼻水を啜る。
嗚呼。
たった今、この瞬間に、生きていてよかった。
今、彼の傍にいられてよかった。
それだけでも、今、生きていてよかった。
瞼を上げて、彼に不安を与えないようゆっくりと手を離す。
時間が無い。
意識を研ぎ澄ます。
目指す「第一母胎保管室」は下の階だ。
地下シェルターほどでは無いが、恐らく、下層の部屋。
長い階段の、その先か。
片手で彼の頬を拭い、もう一度微笑みかける。
彼の心が、軋むように叫ぶ。
――助けて!
――助けて!
――助けて神様、どうか、……っ!!
「行かないで――って、言わないでいてくれて、ありがとうな」
怖いだろうに、彼は心の中でさえその言葉を飲み込んだ。
その献身に、報いねばならない。
神様ならば、――が望む神様ならば、応えなければ。
望まれたのは、残酷な神ではない。
望まれたのは、平等な神でもない。
望まれたのは、声の届く場所で、手の届く場所で、寄り添う神だ。
助けてと伸ばす手を、縋り付く手を、包み込む神だ。
もう駄目だ、と止めた足を再び動かすための勇気だ。
自分で許せないような自分さえ、無条件で受け入れてくれる、甘やかな逃げ場だ。
生きていくための、一瞬の安らぎだ。
望まれたのは、が望んだ神様だ。
だから、――もう、背中を守ってくれる人がいないのだとしても。
だからこそ、――この身はもう、人ではない。
「必ず守るよ。だから、待っていて」
巻き直されたばかりの左手首の包帯を、解く。
力を篭めれば、古傷から血が滲み出た。
「聖典」
ぽたり、ぽたり、雫を落としながら、は駆ける。
――助けて
――助けて
――助けて
――助けて
途中で何人もの支部員が、案内役の青年のように立たされていた。
彼らの前を、駆け抜ける。
「必ず、守るから」
誰も奪わせない。
此処は今、の世界だ。
――お兄ちゃん――
自分の全てだった、僕の「世界」だったあの子のようには。
決して奪わせない。
誰も、誰も奪わせない。
誰にも手出しはさせない。
不平等な、神様として。
「ティキ、遅いですねぇ」
ふわり、場違いなほど穏やかで柔らかな声色で、ミザンが呟いた。
紫のスカーフで覆った目を宙に向けている。
此処は黒の教団北米支部「第一母胎保管室」。
本日この部屋では、第三エクソシストに関する研究会議が行われていた。
壁際には、会議の参加者達がまるで磔にされた罪人のような格好で両腕を水平に掲げ、立たされている。
彼らの眼前に、後ろ手にステッキを持ち佇むのは、教団の宿敵・千年伯爵。
彼は、傍らで手持ち無沙汰に氷の蝶を弄ぶミザンの頭を軽く撫でた。
「ティキぽんが待ち遠しいのですカ?」
「いいえ、そういう訳ではありません。全く。まっっったく」
「ミザニーってば、僕のティッキーにだけやたら当たり強いよね?」
漆黒の棺に腰掛けるシェリルが呆れたように肩を竦める。
ワイズリーは「死んでいる」神田ユウを床に横たえ、その傍に胡座をかいた。
この支部の人間は、シェリルの能力により身体の自由を奪われている。
だから、教団の面々は眼前に放り出されたままの貴重な「人造使徒」に手を伸ばすことすら出来ない。
「(――なぜ、神田を……)」
ワイズリーにとって、他者の思考を読み取ることは容易い。
かつて第二エクソシスト計画の推進者であった老爺の、その心の裡も手に取るように詳らかに聞き取れる。
老爺の視線は、神田ユウへ。
それからその真下、ワイズリーの真正面の床の下に眠るもう一人の「人造使徒」へ移った。
彼は恐怖も散らすほどの絶望を顔に浮かべる。
「(――まさか、まさか狙いは……っ)」
「その通りだ、老師」
ワイズリーは、口に出して答えてやった。
「『愛』と『悲劇』――」
神田ユウの「再生」が始まる。
「おぬしらが一番よくわかってたはず。触れてはならんものに触れると、そこから何が吹き出すか」
これは、黒の教団の罪を暴き、この聖戦の理を正すための宴だ。
そう、今日この部屋に集まっていた面々は九年前の人造使徒計画を知っている。
だから、察せられたのだろう。
若い者から中央庁の制服に身を包む者まで、視線がアルマ=カルマに釘付けになった。
「黒の教団が最も憎むモノ。おぬしらは、自らつくった悪魔に抹殺されるのだ」
「(――ムダだ、九年前からアルマには意識がない)」
「そうだのぅ。アルマは閉ざしておる、ワタシの魔眼でも覗けぬ程にな。じゃが……こちらはどうかのぅ?」
神田ユウがむくりと体を起こした。
ちょうど彼の顔の真下で、九年ぶりの再会となるアルマが眠っている。
床に手を着いたままアルマに見入っている神田の様子に、老爺やアジア支部長は苦い表情だ。
一方で、千年伯爵はいたって上機嫌である。
「さぁさァ! アルマ=カルマちゃんに、断罪の朝ヲ!!」
コケコッコー!! と朝を告げる鶏の真似まで声高らかに披露して、それから。
赦さない
全てを押し退けて意識に割り込んできたそのコエに。
呼吸を、し損ねた。
ミザンが鋭く振り返り、長い銀髪が広がる。
「おやァ? ……これは、これハ!」
千年伯爵が部屋の入口を見遣る、その時にはワイズリーも、シェリルも顔を上げていた。
ぬいぐるみ姿でワイズリーの頭頂に乗るロードが、ターバンをきゅっと掴んだ。
――奪われる――
近付いてくる足音。
――拐われる――
否、その足音が鼓膜を震わせている訳では無い。
――見つかった――
けれど、聞こえる。
――奪わせない――
床を踏みつけて。
空気を踏みつけて。
――手出しはさせない――
心を踏みつけて。
鬼気迫る焦燥。
侵略する。
侵食する。
脳髄を揺さぶるように、征服者の碇が下ろされて。
決して逃がさぬように、敵意で編んだ茨が食い込んで。
――赦さない――
ぞくり、悪寒が駆け上がる。
存在を拒絶される。
存在を拒否される。
存在を否定される。
否定。
否定。
否定。
否定が圧縮されて、何か「よくないモノ」が接近してくる。
「ちょっと……おかしいでしょ、どういう事……!?」
シェリルが棺から腰を浮かしかけ、一転、警戒をあらわにして棺の蓋を踵で押さえつけた。
棺もガタッと音を立て、それから息を潜めるように静まった。
シェリルが違和感を覚えるのも当然だ。
この部屋の前の通路には、自ら首を絞める格好の支部員達が恐怖に震えながら立ち並んでいる。
一人残らずシェリル自身がその能力で捕らえているのだから、この部屋に近付く者など在る筈がないのだ。
「(――どうして、此処に)」
割り込んだその思念の主を振り返る。
草臥れたネクタイを締めた短髪の研究員、厚い眼鏡をかけた部下から「班長」と呼ばれる人物だ。
その班長は、磔のまま顔色を変えた。
真っ先に反応したのはその男と、アジア支部長、それから中央庁の男だ。
遅れて、残りの面々が何かを察して目を瞠る。
――どうして此処に――
――お前は、いつもそうだ――
――来い、今すぐに――
――どうか、頼む――
――あなたさえ来てくれたら――
――これで助かる――
――本当に、来るものなんだ――
――何とかしてくれ――
――死にたくないっ――
――捕まってごめん、……!――
驚愕、後悔、期待、懺悔、安堵、歓喜、驚愕、不安。
全て織り交ぜたら五月蝿すぎて、五月蝿すぎて。
忌まわしいほどに頭が痛むのに。
黄金色が、降臨して。
何もかもを、その眩さでかき消してしまう。
千年伯爵が高らかに笑った。
「まさか、そちらからお出まし頂けるとハ!」
黄金色の光の塊が、入り口から飛び込んできた。
人間の形をした光。
教団の黒服を纏う、黄金色のエクソシスト。
深海を思わせる漆黒の眼が、ざっと室内を撫でた。
教団の面々を一瞥し、そして。
彼は、ノアの一族を完膚なきまでに、存在ごとまるきり除外して。
――嗚呼、間に合った――
それだけを心に抱き締めて、うっとりと「微笑んだ」。
その微笑みが自分に向けられていないことが、彼の瞳に自分が映っていないことが、不安で。
恐ろしくて。
楽園から追放されたような気がして。
だからどうにも、羨ましくて。
手を伸ばしかけたワイズリーの頭上で、茫然とロードが呟く。
「カミ、サマ」
微笑みひとつで教団員達の恐慌を吸い上げて浄化した「教団の神様」。
微笑みひとつでワイズリーとシェリルの呼吸を奪った「教団の神様」。
「(嗚呼、……コレか……!)」
まったく、ティキの説明は拙いし、双子の説明ときたらその片割れにしか通じない。
だから彼らの記憶を覗き見たのだが、記憶の中の「教団の神様」にさほどのインパクトは無かった。
分かったことと言えば、エクソシストの中ではそこそこ手強そうな相手だということ。
それと、あの体格で意外にも武闘派だということくらいか。
まともに素手で戦ったら、頭脳派のワイズリーは一瞬で意識を奪われるだろう。
正面からぶつかり合うのは得策じゃないのぅ、などと気楽に構えていたのだが。
鳥肌が引かない。
真髄は、コレだ。
「黒の教団」の人間から向けられる想いを、願いを、吸収して増幅して解き放つ異常な存在感。
この場は外界から切り離され、新たな理が敷かれた。
「神」に赦された者だけが存在でき、「神」の眼に映らない者は存在を否定される。
強引だ。
傲慢だ。
なんと暴力的なのか。
腹の底から湧き上がる震えを抑え込めずに、思わず、引き攣るように持ち上げた口の端から息を零した。
「(何が『教団の神様』だ)」
黒の教団のためだけの神だと聞いた。
教団の人間を惑わすだけの、彼らに甘い夢を見せるだけの神だと。
――とんでもない。
彼の世界から排除されたワイズリーやシェリルの心さえ、彼は強引にもぎ取った。
驚くことに、これはほんの一瞬の出来事だった。
教団の神様はただ、部屋に飛び込み、目を細めて微笑んだだけなのだ。
呼吸も視線も心も時間も強引に奪い去っておきながら、世界の内側だけを遍く愛する神なんて。
そんなもの、その世界の外側からすれば災厄以外の何物でもないじゃないか。
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