燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









誰かが見ている
気付けば、窓が開いていて
布団がめくれていて
気付けば、あの子が
窓の向こうを指差して笑う
誰かが見ている
私の愛し子を、誰かが



Night.128 さようなら、世界









空気が重たい。
その部屋に近付けば近付く程、体の中心を穿たれるようで。
コムイの脱走を阻止するために同行した補佐官のブリジットが、扉の前で怯えたように足を止めた。
そう、――支配者が、其処にいる。
其処に。
我々の息の根など、簡単に止めてしまえる力を持つ、支配者が。
この建物は既に「彼」の支配下にあるのだと、否応なしに思い知らされる。
慣れている筈のコムイでさえ躊躇うのだから、無理もない。
此処で待っていてもいいと告げると、彼女は青ざめながら首を振った。

「なら、ボクの後ろからおいで」

せめてもの慰めにそれだけ言って、コムイは前室の扉を開ける。

「室長っ!」

奥の病室に繋がる扉を、部屋付きのナースが三人がかりで体全体を使って押さえている。
ガラス窓から中の様子を伺うと、まだ当人はベッド脇に立つ婦長と押し問答をしているようだった。
ドクターは、ベッドから少し離れた場所で、此方を見て、珍しいことに彼より先にコムイの来訪を察した。

「遅くなって悪かったね。入れてくれる?」

扉を二枚隔てても伝わってきていた切迫が。
強制的に退去させようとする空気の圧が。
呼吸さえ憚らせる焦燥が。
絶え間なく襲い来るそれらに、飲み込まれたら終わりだ。
今度こそ震えのやまないブリジットを傍の椅子に座らせて、コムイはナースが扉の鍵を開けるのを待った。

「(鍵までかけていたのか)」

妹の件が脳裏を過ぎるが、目の前の状況への対応としてはやむを得まい。
どうせ、彼がその気になれば、武器でも拳でも空気でも使って、このドアを破ることは可能なのだ。
寧ろ、そうしていないことに違和感さえある。
鍵が開いた。
コムイは取っ手を握り、扉を押し開けた。

「やあ、

応えはない。
手負いの獣が敵を前にした時のような、荒い、けれど抑制された呼吸の音。
快適な室温に保たれている筈の空気が、肌を切り裂くように冷たく、痛い。
黄金色は常よりも遥かに眩く神々しく見えるのに、前髪の下から覗く漆黒はいつになく暗く、重たい。
泥のように闇のように真っ黒なソレが、ぎらり、とコムイを見据えた。
捕らわれた。
射抜かれた。
一瞬完全に呼吸を忘れたが、コムイだって伊達に室長を務めてはいないのだ。
すぐに自らを立て直し、微笑みを向けてみせる。

「聞いたよ。リーバー君に会いたいんだって? 仲直りかな」
「リーバー班長は何処。どうして本部にいないの」

仲直りじゃあ無さそうだね、そうはぐらかすと、更に険しい目を向けられた。
空気が心を鷲掴みにして、一色に染めて教えてくれる。
彼はただただ、焦っているのだ。

「研究室にいない、射撃場にも、談話室にも食堂にも。本部に居ない、何処にもいない!」

強く断定して、が首を振った。

「また任務に同行した? 誰の班? どうして? 今回は危険な任務だって言ってたのに?」

矢継ぎ早の言い回しは、彼らしくない。
の様子がおかしいという病室からの連絡を受けて、コムイは早歩きで此処までやってきた。
魘されていたかと思えばいきなり飛び起き「リーバー班長」の居場所だけを何度も訊ねてくる。
分からないならコムイを呼べ、とも。
計器のアラートも鳴り止まないので落ち着かせようとするも、近寄るだけで威嚇してくるという。
「昨日」――もう日付は変わった、一昨日と言うべきか――のこともある。
興奮を長引かせるのは良くない。
早急に事態を鎮めるため、要求をそのまま飲んでコムイは此処へ出向いた。
室長の仕事ではない、と憤るブリジットとの言い合いさえ、歩きながらこなしたほどだ。

「どうして此処にいないって思うの? ううん、そもそもどうしてリーバーくんを探しているの?」
「答えろよ。どこ。早く」
「ボクの質問が先だ、。キミは今安静を言い渡されてる。これは、エクソシストに対する命令だよ」

が震える唇をもどかしげに噛み締めた。
血が滲む。
空気が荒れる。
頭を鈍器で殴られたような衝撃が、脳を揺さぶっている。
早く早く早く早く。
早く早く早く早く、早く!
コムイのものでは無い声が、鼓膜ではなく脳に直接叩きつけられる。

「落ち着いて、教えてよ。ボクらは不思議なんだ。どうしてリーバーくんが此処にいないって、」
「分かるだろ、誰にだって!! 『空気』の中に兄貴がいないんだからっ!!」

引き裂かれたような叫び声が、コムイと彼の深い断絶を明らかにする。

「(『それ』が、ボクらには分からないんだよ)」

ドクターが立ち竦む婦長の腕を引いてベッドから遠ざけ、計器のスイッチを切った。
ドクターの考えは、了承した。
コムイは、もういい、と立ち上がろうとする彼の前に立ち塞がる。

「退けよ。俺は答えた。リーバー班長はどこ。いや、答えなくていい。自分で探すから、そこ退いて」
「リーバーくんは、北米支部にいるよ」

虚を突かれた彼が目を見開いた。

「……どうして?」
「第三エクソシスト計画に関する研究会議があるんだ」

するりと答えを返すと、の勢いも少し削がれたようだった。
浮かしかけた腰が、再びベッドの縁に落ちる。
そのまま呆然と項垂れるので、コムイはベッド脇に屈み、膝を着いた。
下からを見上げる。
焦点の定まらない瞳。
薄く開いた唇から、細切れに零れる溜息。
完全に憔悴している。
今なら振り払われることも無いだろう。
震える手を取り、そっと手首に触れる。
興奮からか、聖典の影響か、脈が速い。

「科学班の各班長が北米支部に呼ばれていてね、研究会議をしてるんだよ」
「……どうして、北米……」
「アジアじゃないのが意外かな? でもほら、北米にはエプスタイン支部長がいるからね」
「ああ、……そっか、あの人……。ねぇ、ジョニーもいないよ……」

リーバーの不在が分かるのならばと予想はしていたが、言い当てられるとやはり少し驚くものだ。

「うん。ジョニーは助手としてリーバーくんに着いて行ったんだ。大抜擢だね」
「そう、だったんだ……」
「居場所が分かって、安心した? それとも、……それでも、会いに行きたい?」

コムイに握られていない方の右手で、が自分の前髪を鷲掴みにする。

「……会わなきゃいけない」
「どうして?」
「危ないから」

大きく息を吸って、彼は言い直した。

が、危ないって言ってる」

その名前には覚えがある。
コムイはつい、彼の左手を掴む手に、力を籠めた。

「……。キミの妹だね」

頷いたが、そのまま右手で額を押さえて、耳を澄ませるように固く目を閉じる。

が、危ないって言ってる。が呼んでる。が、危ないって、教えてくれる……」



――の声が聞こえるんだ。



何も無ければ、何も聞こえないんだ。
でも、戦場では聞こえる。
戦場でなくても、危険が迫れば、が教えてくれる。
を見捨てた俺に、それでもあの子は、教えてくれる。
が危ないって言ってる。
それに、近頃神様がずっとこっちを見てた。
俺が、油断したから。
隙を見せたから、こっちを見てる。
なら、今一番危ないのは、リーバー班長だ。
俺が、迷惑をかけた。
俺を、心配してた。
そういう人を、神様は連れてっちゃうんだ。
神様に例外は無いんだ。
絶対に逃がしてはくれない。
一人も見逃がしてくれなかった。
一度もだよ。
リーバー班長が危ない。
もう、目を付けられた……俺のせいだ。
俺を殺してくれればいいのに。
殺すなら俺を殺せばいいのに。
俺が死ねばいいのに。
目をつけられた。
俺のせいだ。
俺のせいなんだ。
きっと奪われる。
神様は逃がしてくれない。
が、呼んでるんだ――

「……が、危ないって、言ってるんだ。だから行かせて。今すぐ。リーバー班長が危ない」

彼が紡ぐ「」――その響きのなんと優しく、甘く、柔らかなことか。
雲間に光が差し込む間際の雨垂れのように、ぽつぽつと落とされた非科学的な独白が、空気を染める。
会ったこともない、見たこともない、彼によく似た金髪の少女が。
彼の独白が生んだ水溜まりの上で軽やかなステップを踏んでいる。
波紋が広がる。
愛しさが溢れて、手も伸ばせない。
手を伸ばしたら消えてしまうから。
彼女は、夢のように消えてしまうから。
全てを「妄想だ」と切り捨てることは容易い。
それは、キミの願望が生み出した幻聴だ、と。
死者の声など聞こえる筈がないのだ、と。
けれど。

「そっか。そうだねぇ……『』が言うんじゃ、仕方ないなぁ」

他の誰が言えても、コムイには、言えない。
の「」は、コムイの「リナリー」だ。
二人の立場と境遇は紙一重だった。
方舟から帰還したクロスに対する諮問会議の後、自問した。
自分なら、仲睦まじい兄妹を前にして正気でいられるだろうか。
妬まずにいられるだろうか。
況してやその妹を守ろうなどと思えるだろうか。
自分の妹がいない世界を、守ろうなどと思えるだろうか、と。
死んだ妹の声が聞こえて、それを無視するなんて出来るか。
況してや死んだ妹の声が、自分を一度でも助けてくれた事実があるならば。
否、そんな事実などなかったとしても。
きっとコムイだって、その声には抗えないし、抗わないだろう。

「室長!? 本気でおっしゃってるんですか!?」

驚愕と非難を籠めた婦長の悲鳴を、首を振って封じる。
今、には正常な判断が出来ていない。
だから、コムイが冷静に判断してやらなければならない。
室長として。
エクソシストの出払った教団本部に、誰かが守りの要として残る必要がある。
は適任だ。
なにせ「空気」とやらを通して人の動きを把握出来る。
今までもそうだった。
まさか、病室と棟を違える科学班の様子まで察するとは思わなかったけれど。
この分ならば、病室にいながら敷地全域の哨戒さえ可能なのだろう。

「ドクターも何とか言ってくださいよ! どうして何も言わないの!?」

前室の扉を押えていたナースの一人も、扉の傍からドクターに食って掛かった。
けれど、ドクターはとうに、を行かせる気でいた。
コムイもそうだ。
この部屋に来た時から覚悟をしていた。
コムイは知っているからだ。
ただの幻聴だろうが、ただの勘であろうが、「教団の神様」のソレには意味が伴うということを。
本部の守りも重要だが、他ならぬ彼が、危険があると断言する場所があるならば。
きっと、行かせるべきなのだ。

「条件があるよ、。全部に頷かないと、行かせてあげられない。いいかい?」

恐怖に駆られて焦燥に喘ぐ漆黒を、真っ直ぐに見上げる。
彼の興奮が、空気を震わせる。

「点滴は今からドクターが外すから、焦って勝手に引っこ抜かないこと」

が頷いた。

「向こうに着いたらすぐ。それと、リーバーくん達の無事を確認したらすぐ、本部に連絡をすること」

がもう一度頷いた。

「リーバーくんの無事を確認したら、すぐに帰ってくること。それともうひとつだけ」

コムイは立ち上がって彼の手を離し、壁に掛かったハンガーを手に取る。
いくら軽量化しても、やはり重たい、彼らの黒の鎧を。

「団服を着ること。守れる?」

黒の団服を手に押し付けて薄い両肩を掴めば、は目を逸らさずに頷いた。

「守る、だから、」
「うん。じゃあ、着替えて。……ドクター」

頷いたくせに今にも全てを振り切って駆け出しそうな金色を、押し止めながら振り返る。
軽い調子でやれやれと呟き、ドクター・ヒリスはいつも通りの笑顔での腕をとった。

「言ったろう。私はきみのやることに、反対したりしないよ」
「……うん」

点滴の針を外し、ドクターは彼の手首の真新しい裂傷に包帯を巻き直す。
それから解放されるなり、は間髪入れずに着替え始めた。団服の飾りボタンを留める段になって、堪りかねたように婦長が声を張り上げる。

「私は反対しますよ!」

眉を吊り上げて、婦長はコムイもドクターも睨みつけた。

「どうしていつも、そうなの。これじゃあ前の本部が襲撃された時と同じよ!」

声には次第に涙が混じる。

「貴方の言葉通りなら、私達なんかとっくに死んでるわよ。こんなに、こんなに心配しているのに」

ナース達が駆けてきて、震える婦長の肩を支えた。

「『エクソシスト』だからでも、『教団の神様』だからでも無いのよ……どうして、分からないの」

が、初めて婦長とナース達を目に映す。
きょとんと目を丸くして、心底不思議そうに。
彼の歪みを、隠さず余さずその表情に乗せて。
婦長は、その目に見つめられても泣き崩れなかった。

「人はみんな平等なの。貴方だって、貴方に、大切にされるべきよ」

真っ直ぐに見つめられて、彼の方が目を逸らした。

「昨日の今日よ。行ってはダメ。安静にしていなさい、

既に一昨日となった「昨日」のことだ。
ブックマン師弟とティエドールの立ち会いのもと、ヘブラスカに聖典の検査をさせた。
いつものように彼女の触手が体内に侵入した瞬間、突然、が自傷した手首の古傷が全て開いた。
ヘブラスカの手だけではなく、彼を支えていたティエドールも弾き飛ばされた。
噴き出した血液がまるで巨大な泡のように膨らみ、既に意識のない彼を飲み込んで宙に浮いたのだ。
コムイの手もヘブラスカの手も阻んだ、血の結界。
それはたった六十秒の出来事だった。
泡は唐突に弾け、落下するを慌ててヘブラスカが受け止めた。

――リナ嬢のイノセンスの反応とも違う――

ブックマンにさえ怪訝な顔をさせた出来事から、まだ三十時間も経過していない。

「でも、俺、……行かなきゃ」

躊躇いがちに、が呟いた。
ややあって、そうでしょうね、と婦長が返す。
それから彼女はきりりと眉を吊り上げて、けれど優しい声で言った。

「……気をつけて。約束を守って、すぐに帰ってくるのよ」

ハッとしたように目を瞠り、が息を飲んだ。
今度は目を逸らさずに、頷く。

「ありがとう」

ドクターが外に繋がる扉の鍵を開ける。
福音をホルスターにも入れず、そのまま携えて扉に向かったは、部屋を出る前に一度振り返った。

「いってきます」

エクソシストでも、教団の神様でもない、素朴な笑顔で。









今日、北米支部には本部からの来客がある。
なんでも、本部科学班の精鋭達が研究会議のために訪れたそうだ。
彼らが到着したのはつい一時間ほど前のこと。
現地時間で夕方なのだから、本部のあるヨーロッパでは既に深夜に差し掛かろうという時間だ。
噂通り、本部科学班は他に輪をかけて仕事中毒者の集まりらしい。

「……いけない、いけない」

思い出し笑いをしている場合ではない。
先程本部から連絡があり、またも来客があると言われたのだ。
しかも今度は、あの「教団の神様」がやって来るという。
本部科学班の班長に用があるそうで、北米支部警備班入団二年目の自分が、何故か案内を頼まれた。
歳が近いからだろうか。
「神様」はアジア支部で同年代の研究員たちと懇意にしていると聞くし、同じ意図での抜擢かもしれない。
何にせよ、大役を仰せ付かった以上はしっかり務めを果たさなければ。
間もなく、あの方舟のゲートを潜って、「神様」が。
胸が高まり、――その時、飛び上がるほどの音量で警報が鳴り響いた。

――敵襲!!――

「は?」

――敷地内にアンノウン出現、結界突破されます!!――

「敵襲って……」

何だ、どういう事だ。
敵って、アクマか? それとも?
そんな事態は、本部のような場所でこそ起こる出来事だと思っていたのに。
現実味がない。
親兄弟を喪った、故郷を失った、あの日の恐怖が蘇る。
襲ってくる。
今、しなければならないことは?

「本部! 聞こえますか!?」

「神様」を、呼ばなければ。
否、来てはならないと、伝えなければ。
いいや、呼ばなければ!

「本部!! ほんっ、」

通信が繋がらない。
声が手折られた。
引き攣る呼吸、震える体。
自分の両手が、自分の首に回される。
自分で、自分の首を絞めている。
自分の意思ではない。
こんなことは望んでいない。
助けてくれ。
助けてくれ。
助けてくれ、今こそ。

「(かみさまっ……)」

涙だけは勝手に滴り落ちていく。
その濡れた視界の中に。



――黄金色が。



眩い黄金色が、降り立った。









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210808