燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









厭わないさ
茨に頭を締め付けられても
槍を体に突き立てられても
重石に潰されながら歩くことも
構わないさ
君が救われてくれるなら



Night.126 御像を投じて









ジェリーの料理はどれもたまらなく美味しい。
あっという間にケーキを食べ終えてしまい、少し気恥ずかしさを感じるほどだ。
ミランダが憚りながらもケーキの二切れ目を取ろうとすると、隣からしゃく、という音が聞こえた。
空腹ではないと言っていたが、林檎料理の話ですっかり盛り上がったからだろうか。
が林檎を齧っている。

「俺、クロウリーにお礼を言わなくちゃって思ってたんだ」
「むぐっ? そんな、こ、心当たりはないが……?」

目を白黒させるクロウリーに、は嬉しそうな微笑みを向ける。

「アレンと字の書き方練習してくれたろ? あいつの報告書、びっくりするくらい読みやすくなってた」

その光景は、ミランダにも見覚えがある。

「私も見かけたわ。アレンくん、とても熱心に練習していて」
「うん。褒めたらアレンが嬉しそうにクロウリーが教えてくれた、って言うから」
「教えただなんて、そんな。一緒に練習をしたくらいのものである」
「クロウリーさん、とっても字がお上手だもの。きっと隣で見るだけでもコツを掴めたでしょうね」
「そうなんだよ、正統派っていうかさ……クロウリーって走り書きすら綺麗だもんな」
「ええ、本当に」
「いやいや、いやいやいや……」

ミランダとはうんうんと納得して頷き合う。
クロウリーは真っ赤になって、恐縮しきりだ。

「そ、そう言うだって、とても美しい字を書くではないか」
「俺のはただの人真似だから。きちんと教わった人の字には敵わない」

だからあんなに上手に教えられるんだろうなぁ……。
ぽつりと呟いた彼は、カップを持ってふう、と息をつく。

「俺と師匠は、あそこまで丁寧に見てやれなかったし……何より、その意欲を出させたのが凄いんだよ」

が眉を下げ、零すように綻ぶように微笑んだ。

「あいつ、教えてくれたクロウリーのためにも綺麗に書く、って凄くやる気になってたんだから」
「そうであったか……。まあ、アレンが喜んでくれているなら、私も嬉しいであるよ」

クロウリーが照れくさそうに頬を掻く。
ミランダは微笑ましい二人を見守っていたつもりだが、ふと笑ってしまった。

くんも、とっても嬉しそう。弟が嬉しいと、お兄さんとしても嬉しいものなのね」
「まあね。……ああ、そうか。二人は兄弟弟子がいないんだ」
「うむ、確かに」
くんとアレンくん……の他には、ティエドール元帥のところが大所帯かしら」

リナリーの師匠となった元帥は今はもう亡くなったという。
最近はティモシーがクラウドに師事することになったそうだが、現在ミランダが知る師弟関係はそれくらいだ。

「マリ達も兄弟弟子として一体感があるように思うが……神田がそうしているのは少し意外である」
「たしかに……」

クロウリーの言葉にミランダは頷いた。
先日アレン、神田と揃って任務に行った時は、とにかく空気が重たかった。
神田は単独行動を好むようにも見えたし、他人と合わせるのはあまり好きではなさそうだ。
けれど、そんな神田もマリとは親しげに自然に接している。
兄弟子に対する神田の態度を見れば、彼が決して冷たい人でないというのはよく分かった。

「ティエドール元帥のところは……そうだな、特にマリとユウは、うん、ちょっと特別かな」

はそれ以上は何も言わなかった。
共に困難を乗り越えたこともあるだろうし、それ故の絆が育まれることもあるということなのだろう。
クロウリーも自分の中で受け止めたようで、納得したように頷いた。

「マリにとってもにとっても、弟弟子は可愛いものなのであるな」
「うん、それはもう。……二人とも、いつもアレンに優しくしてくれてありがとう」

ミランダに対してもが頭を下げるので、先程のクロウリーと同じように慌ててしまう。
クロウリーもやはり少し前の状態に逆戻りしていて、二人で顔を赤くして恐縮する。
それがなんだか可笑しい。
結局三人で笑ってしまった。

「今回の任務が終わったら、またアレンと一緒に報告書を書くのもいいかもしれぬな」
「いいですね! ふふ、リナリーちゃんも誘って、皆でお菓子でもつまみながら」
「名案である。料理長にお願いしておかねば」
「――任務、」
「ああ。我々はロシア組なのだ。ソカロ元帥と一緒に……あっ! お、思い出してしまったである……」
「わわわ私達無事に帰ってこられるかしら……」

食堂での会話を思い出してしまい、二人で震え上がる。
が苦笑いを浮かべた。

「ソカロ元帥も根っから悪い人じゃないんだよ、……って言い切れないのがまた辛いとこだなぁ」
くんは、今回はアレンくんとは別なのよね? アレンくんは神田くんと一緒らしいし……」
「そうだね。――俺は本部待機なんじゃないかな、多分」
「多分?」
「うん。きっと、誰かが死んでから増援として加わるんだと、思う……」

空気が揺らぎ、澱み、色褪せる。
――嗚呼、









もう、ぜんぶ、おわりでいい









どうして気付かなかったのだろう。
否、どうして忘れていたのだろう。
この陽だまりに踏み込んだ時、確かに悲しみに、淋しさに、孤独に、捕らわれたというのに。
太陽の温もりを蓄えたはずの地面から、寒気が滲み出てくる。
が変わらぬ穏やかさで微笑んだ。

「その任務の話、……俺、聞いてないんだ。教えてくれる?」

黄金色の睫毛の下から此方を射抜く、感情を窺わせない漆黒。
自分達を映されて初めて気付く。
そうだ、ずっと変わらない。

「(どうして、気付かなかったのかしら)」

今日の彼はずっと、ミランダとクロウリーを見てはいなかった。
林檎の話をしている時も、アレンの話をしている時も。
ずっと視線を落としたまま、隣で微笑んでいた。
ミランダは言葉を失って、自分で自分の腕を抱く。
クロウリーが身震いをして、首を振った。
怖くて、恐ろしくて、畏れを抱いて震えるのではない。
ミランダを、クロウリーを襲っているのはただただ深い孤独と喪失感であった。
それが自分の感覚なのか、彼の感じるものなのか、境目が分からない。

「じ、実は、元帥達を中心に、いくつかのグループに分かれて各地へ赴くらしいのだが……」

クロウリーが簡単に任務の内容を説明する。
微笑みを口許に湛えたまま、けれどどこかぼんやりと話を聞くの手をミランダはそっと握った。
思わず手を引きそうになるほど、ひやりと冷たい。
見れば、切れ切れの呼吸に合わせて彼の肩が大きく上下していた。

くん、」
「違うんだ、別に、怒ってる訳じゃないし、拗ねてる訳でもないし、……ほんと、違うんだよ」

微笑んでいるのに。
言い訳のように捲し立てる言葉には、そんな顔しないでと呟く声には力がない。
放り捨てたようなぞんざいな声色で、けれど繊細に震えている。

「無事に……生きて帰ってきてね、って。それだけ。それだけ、二人に、皆に、言いたくて……」

言葉と息が焦ってちぐはぐになって。
冷たい手がミランダの手を強く握る。
震えている。
震えている。
震えている。
はくはくと空気を食むように、空を仰ぐように顎を上げて、彼は固く目を瞑った。

「そんなこと、言いたくなんて、無いのになぁ」

無線を繋ごうと立ち上がったクロウリーが、彼を見下ろして目を見開いた。
ミランダの手を痛いほどに握って、懇願するように縋るようにが俯いて。

「痛くて怖くて辛いって、分かってる場所に、そんな所にどうして、皆が、」

首を振る。
震えている。

「そんなの、俺だけでっ……いいのにね……どうしてこんな世界のために、皆が……どうしてっ、」

慈しむように抱き締めた世界を、全霊で振り払うように。

「……ねえ、くん」

だからか、船の上で見たあの背中を、思い出した。
あの時は、師であるクロスも、弟弟子であるアレンも安否不明の状況だった。
ならばきっと今も、彼の胸の中は。

「何か、悲しいことがあったの?」

地面の草は揺れていないのに、ミランダの髪も揺れていないのに、暴風を浴びているような圧を感じる。

「――アレンに、」

地面が、悲しみの沼のように、どぷん、と三人を飲み込んでしまいそうで。

「……殺してくれだなんて、言わせたくなかった」

振り絞るように唸るように。
彼は言葉を吐き出して、首を振って、振って、振って、振って。

「そんなこと言わせたくなかった。そんなこと、言わなきゃならないような、こんな世界のために、」

ミランダは呼吸さえ出来なくて。空気が張り詰めて、余計なものを切り詰めて削ぎ落としたような緊張の中で。

「……どうして皆が命を懸けなきゃならないんだ」

彼が、吐息を全て費やして、呟く。
ミランダの手が、ミランダの心が、そして恐らくクロウリーの心も、呪縛から解放される。
放り出された。
逃がされた。
はあっ、と大きく息をして、どっと汗が吹き出て、思わず二人は顔を見合せる。

「俺だけでいいのに……全部俺が、やるのに」

糸の切れた操り人形のように脱力したの、その指先が地面を掻く。

「痛いのも、怖いのも、辛いのも苦しいのも悲しいのも、全部全部全部、全部っ、」

ミランダは咄嗟に彼の肩を抱き、ほとんど同時にクロウリーが膝を着いて彼の背に手を当てた。
示し合わせた訳では無い。
ただ、彼に、その続きをもう言わせたくはなかった。

「私達、おんなじね」

肩を抱きながら、ミランダは思い出す。
新本部に引っ越してすぐのこと、エクソシストは集められてアレンと「14番目」との関係を聞いた。
あの日の自分の気持ちを、思い出す。

「私達もアレンくんから同じことを言われたの。……大事な人にそんな事言われるのは、悲しいわよね」
「アレンは私達の恩人でもあり、友でもあるゆえな……」

クロウリーが深く頷いた。

「それに私は、……今だって悲しいである」

――何が?

さもそう言いたげな無垢な瞳を向けられて、ミランダはつい口を挟んだ。
だって、言わんとすることが分かったから。

「俺だけでいい、なんて。そんな言葉は、貴方にだって言わせたくなかった……ね、クロウリーさん」

二人は同じ気持ちで彼に手を伸ばしたのだと、確信する。

「うむ。私は、君の言葉を覚えているである。誰かに大切に想われている人が幸せでない筈が無いと」
「……それは、……俺じゃなくて、クロウリーのことだよ……」

の声は地を這うようで、それでいてふわりと、消えてしまいそうに揺れている。

「君が、君をどれほど責めようとも……君が我々を想ってくれるのは、揺るがない真実である」

だからか、静かで穏やかで優しく、しかし足場のしっかりとしたクロウリーの声は、強く聞こえた。

「その君に全て背負わせるだなんて、そんな世界は、私だって嫌であるよ」

怯えるように、の背中が震える。
当てた掌から、彼にこの熱が伝わればいい。
どんなに頼りなくとも、自分達はもう、守られるだけの存在ではないから。

「辛いものも悲しいものも怖いものも、皆で少しずつ分け合ったら、きっと軽くなるはずである」

クロウリーが彼に向かって微笑みかける。

「そうしたらきっと、こんな世界でも乗り越えていけるであるよ」

視線を落としたままで、地面の影を見つめたままで、暗いままの瞳を抱えてが顔を上げた。
小刻みの呼吸を宥めるように、クロウリーはその背で優しく手を弾ませる。

「世界のことは嫌になってしまったとしても、人間の可能性はまだ、信じてくれるだろう?」

笑顔を向けてから立ち上がったクロウリーが、ミランダに目配せをした。
一歩離れた彼は、今度こそ無線に手を掛けている。
ミランダはそれに首肯を返して、僅かに座り直した。
今、金色はいつもの輝きをすっかり失っているから。
いつ彼が体勢を崩しても支えられるように、自分のバランスを取り直す。

「目の前の、ほんのちょっとの事しか出来ないとしても、……それでもね、」

人を元気づけるなんて大それたことは、普段の自分なら躊躇ってしまう。
強気を貫くことも難しい。
けれど、励ましたいと思うから。
隣にいることなら、出来るのだから。

「出来ることからコツコツやっていったら、きっと……少しは、何かを変えられるんじゃないかしら」

彼が、悲しみに溺れて孤独に立ち竦むなら。
その手を取って、あなたは一人ではないと教えたい。
寄り添う、そのための勇気なら、振り絞りたいと思える。

「……変わるかな」
「ええ。信じていれば、大丈夫よ」

にっこり笑って言ってみたものの、強気と思い切りは唐突にエネルギー切れを起こす。

「ええっと、今のはアレンくんの受け売りなんだけど……任務に行く前にたまたま会えて、その時にね、」

ミランダが慌てて弁解をすると、が小さく笑った。

「(あ、)」

引き止めることが出来た――ふと、そう確信する。

「だからね、その……今は体を休めましょ。元気になってからでも、きっと、遅くなんてないから」

クロウリーが無線で話しながら、虚空に向かって手を振った。
それから此方を見て、頷く。
恐らくコムイや医療班に状況が伝わったということなのだろう。
の肩に置いていた左手を、彼の右手が掴む。

「……でも、困ったら、呼んでね」

声は、擦り切れたようにざらついて掠れていた。

「手遅れになる前に。俺、助けに行くから。……必ず、お願いだから、」

抑揚は殆ど無くて。
余計なものは全て削ぎ落として。

「お願いだから。……二人とも、生きて帰ってきて」

懇願だけに研ぎ澄まされた、祈りのような言葉に。
大袈裟だ、とはとても言えない。

「ええ。約束ね」

息の上がった体を抱きとめて、ミランダはしっかりと頷いた。









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