燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









いつか、届くだろう
いつか、叶うだろう
そのために
他に何を捧げたらいい
あとどれだけ待てばいい



Night.125 その漆黒を、伏せる









次の任務は、元帥を中心にエクソシストを数グループに組み分けして行うらしい。
その準備のために、エクソシストだけでなく探索部隊員達の多くが本部に集結している。
だからか、食堂はいつもより賑わっているように思えた。
クロウリーが目指す注文口も長蛇の列だ。
列の最後尾にミランダの後ろ姿があったので、声を掛けてすぐ後ろに並ぶ。

「一人であるか?」
「はい。リナリーちゃんが科学班にかかりきりで。私はお茶を零してご迷惑を掛けたので、此方に……」
「そっ、そうであったか……いや、ミスは誰にでもあるであるよ、元気出すである」

会って早々に肩を落とさせてしまった。
しょんぼりするミランダを慌てて励ます。
エクソシストの任務の前には、決まって科学班が忙しくしている。
否、そうでなくとも彼らは激務だ。
リナリーとしては、任務の前に出来るだけ彼らのサポートをしたいのかもしれない。

「そういえば、次の任務は同じ班ですよね……? あのっ、わわわ私、精一杯っ、頑張りますのでっ!」
「そんなに気負わなくても、いつも頼りにしているである、ミランダ」

日頃の感謝を言葉に込めれば、やっと落ち着いたように彼女が微笑んだ。
クロウリーも微笑み返す。

「我々はロシアだったな。……ミランダは、ロシアに行ったことは?」
「いいえ、ありません。やっぱり寒いんでしょうか」
「うむ、北国であるからな。けれど寒さを感じる暇など無いかもしれぬな」
「ひっ……そうですね、なんだか大掛かりな任務のようですし……あと、ソカロ元帥も一緒だとか」

それだ。
それなのだ、問題は。
どう考えても気の弱い自分やミランダが、あの規格外の元帥とどのようにして任務をこなせというのだろう。
まずは自分達が殺されないようにするだけで精一杯ではないか。

「ききっ、緊張するであるなっ……」
「そそそそうですね……」
「腹が痛くなりそうである……」
「ええ……だんだん食欲がなくなってきました……」
「この話題、一旦やめにしよう……」
「そうしましょう……」

互いに縮こまりながら、溜め息をつく。
と、ミランダが「あっ」と声を上げた。

「あ、えっと、いいえ、あの、何でもないです。……この話題はやめにしようって言ったばっかりなのに」

あわあわと口を押さえて申し訳なさそうにするので、クロウリーも慌てる。
次の任務は大掛かりなものだし、不安要素も多い。
ふと、金色の微笑みが頭に浮かんだ。

「(……こういう時、だったら)」

不安でいっぱいのミランダに、あるいはクロウリー自身に。
もしも彼なら、何と言ってくれるだろう。
そう考えるだけで、頭の中のがにっこりと微笑む。
目の前にいない人の顔をこうも鮮明に思い描くことが出来るものか。
不思議なことだ、けれど、実際に今体感している。
彼の笑顔が、ミランダの隣に見えるような気がする。

――不安は吐き出し尽くしたほうがいい。俺でよければ、聞こうか?――

きっと、彼ならそう言うだろう。

「……いやいや、きっと不安は吐き出し尽くして行く方が良い筈である」

どうしたであるか? と先を促すと、ミランダがほっとしたように肩の力を抜いた。
これでよかったのだと、クロウリーも安堵した。

「次の任務は一斉に方舟で出立と聞いたのですけど……誰か、もう先行しているんでしょうか?」
「ん? いや、そんなことは聞いていないが」

探索部隊員はもう現地入りしているメンバーがいてもおかしくはない。
しかしエクソシスト達は皆、本部で束の間の休暇をとらされている筈だ。

「ですよね。私もそう聞いているので、皆さんに会えるかなと思っていたんですが、その……」

ミランダが左右を憚り、口に手を当てクロウリーに身を寄せた。
彼女が背伸びをしているので、クロウリーも少し屈む。

くんを、見かけない気がして。……私だけかしら」

非常に小さな囁き声だ。
話題の進む方向によっては、これは、周囲のサポート派に聞かれてはまずい。
クロウリーも囁き声で返す。

「言われてみれば、私もである。最近会っていないような」

顎に手を当てて、記憶を辿ってみる。
彼と最後に会ったのは第三エクソシストとクロス・マリアンの弟子との間にひと悶着あった日だ。
あれは確か、半月ほど前の出来事だった。
ミランダはあの場にいなかったのだから、なおさら長く会っていないのだろう。
はその後、アレンと共に任務に出たはずだ。
彼らが任務を片付けるのにそう時間はかからなかったようだが、日数の長さと怪我の重さは比例しない。

「アレンくんと任務に出ていたのは知っているんですけれど」
「ああ。でも、アレンはもう戻っている……この間、食堂で見かけたであるよ。次の任務は神田と組むそうだが……」

数日前のアレンは食堂で頬袋をパンパンにしたリスのような顔で食事をしていた。
思えばあの時、彼は肩を包帯でぐるぐる巻きにしていたはずだ。
アレンがそうして怪我を負ったなら、が損傷を負ったのは身体の内側だろう。

「あの時アレンは怪我をしていたし、も体調が優れないのかもしれない」

まあ、と息を呑んだミランダは、口許に手を当てて俯いた。
考えてみれば、修練場で会ったあの日も本人は鍛錬に参加せず見学をしていた。
万全でない中で任務に出たのならば、今頃は病室に軟禁させられているかもしれない。

――そうだ、見舞いに行こう。

その提案を持ちかけたのは、二人同時だった。

「行ってくれる!?」

そして、それが聞こえたのだろう、ジェリーがカウンターから身を乗り出してきた。

「ひえぇっ!?」
「なななっ!?」

二人揃って声は裏返り、飛び上がるほど驚いてしまった。
動悸が激しい。
ミランダは半分腰が抜けたような姿勢でカウンターにしがみついている。
気付けば、話しているうちに注文口まで進んでいたようだ。
二人の後ろにはまだまだ長蛇の列がある。
それをちらりと見てから、ジェリーは二人の服を掴んで強引に引き寄せた。

の話でしょっ、そうよね!?」
「そそそ、そうであるぅぅっ」

小声で早口の切羽詰まった問いかけ。
クロウリーは上擦った声で答え、ミランダは頭が吹き飛びそうなほど必死で頷く。
それを受けて、ジェリーも激しく二人を揺さぶった。

「ありがとう! 是非行って! ついでに、探してきて!」









ジェリーはもともと、病室に食事を持っていこうとしていたらしい。
しかし、準備を終えたところで食堂は大変な混雑に見舞われた。
そこにコムイからの通信である。

「八方塞がりだったのよー!」

半泣きで頼まれてしまっては、断ることなど出来ない。
クロウリーは両手に二種類の水筒を、ミランダはバスケットを腕に抱き、食堂を出た。

「ミランダ、そちらの方が重いのではないか?」
「大丈夫です、見た目よりは軽いんですよ」

ミランダはそう言ってバスケットを掲げてみせる。
クロウリーはひとまずそれを信じることとして、周囲を見回した。
話によると、が抜け出したのは数十分前のことらしい。
彼を探すスペシャリストである婦長は、聖堂も修練場も既に探し終わったという。

「行き先に心当たりはあるか? ミランダ」
「いえ……で、でも、婦長さんが見つけられないとなると、わわわ私なんかではとても……」
「ううむ……私にも当てがないのだから、それはお互い様である……」
「でも、よかった。部屋を抜け出せるくらいには良くなっているんですね」
「確かにそれは良い知らせである。この差し入れも、喜んでくれるといいのだが」
「ええ。できれば、冷める前に食べてもらいたいわ」

本人の部屋か、談話室なども捜索範囲に入れたほうがいいだろうか。
それとも、その辺りはとうに探し終わってしまっただろうか。
しかし、相手も動き回っていた場合、もう一度同じ場所を見るというのも悪くはないかもしれない。
そう話しながらも真逆の医務室の方向へと、何気なく足を向けて――









もう、ぜんぶ、おわりでいい









――言葉を失うほどの、悲しみ。
何かを取り零したような喪失。
途方もない、孤独。
突然世界に一人放り出されてしまったような。
ミランダが隣にいるのに。
奇妙な感覚に、思わず足を止める。

「クロウリーさんっ」

その時、極めて小さな声でミランダが叫んだ。
クロウリーの服を引いた彼女の指差す先には、建物を囲む植込み、その隙間から、黄金色が見える。
クロウリーは目を丸くした。

「……灯台下暗しとは、この事であるな」

思わず呟けば、ミランダも呆然と頷く。
この距離だ。
は近くに人がいることを、それが誰なのかということまで、気配だけで察せるはずだ。
こうして二人が傍でひそひそと囁き合っていることにも、彼は気付いているのではないか。
彼が本当に隠れたいと思っているのなら、すぐにでも逃走を図るだろう。
その割に、彼は一向に動こうとしない。
植え込みの陰に隠れた陽だまりの中で、金色は建物に背中を預けて無造作に座り込み、項垂れている。
気を失っているわけでも苦しんでいるわけでもない。
その姿勢は、自然なだけにかえって不自然でさえある。

「(さっきの「感覚」は、このせいか)」

クロウリーは躊躇した。
立ち止まった足を、僅かに引く。
他者からどう見えているかということに、は敏感だ。
自分の振る舞いには明確な理由をつける人だ。
鍛錬をするでもなく、弔いをするでもなく、病室からただ抜け出すなんて。
崩れ落ちたように、そのまま沈み込むように、ただただ小さく背中を丸めて座り込む姿なんて。
まるで。

「(逃げ出したかったみたいだ)」

投げ出したかったみたいだ。
放り投げて、捨て去ってしまいたかったみたいだ。
――嗚呼、そう、この場はとっくにの空気に支配されていた。
呑み込まれていた。
肌が粟立っていることをようやく自覚する。

「(……いいや、それでも、)」

彼は、神様などではない。
このまま冷たい風の吹く屋外に放置するのは確かに心配だ。
けれど彼が一人になりたいと思っているのなら、そうさせてやりたい。
クロウリーは彼が何に追い詰められているのか分からないが、逃がしてやりたいとも思う。
しかし同時に、寄り添いたいとも思う。
心を侵食してきた彼の孤独を、喪失を、和らげてやりたい。
どうするべきか迷って動けないクロウリーの傍らで、ミランダが意を決したようにすっと大きく息を吸い込んだ。
気丈に、努めて朗らかに、彼女は微笑む。

くん、こんにちは」

彼が、顔を上げる。
クロウリーは唾を飲み込んだ。
――彼の領域に、踏み込んでしまった。
眩い金色の前髪が作る暗い影の奥で、深い深い漆黒が、底のない穴のように見えて。
漂う空気はあまりに殺伐としていて、一瞬、この場所が戦場のようにも処刑場のようにも思えた。
けれどその空気を打ち消すように、ミランダは明るい声で続ける。

「一緒にピクニックでもどうかしら?」

ミランダは何を気にする素振りも見せず、ただ、抱えているバスケットを彼に示した。
いいや、気にしていない筈はない。
この「空気」を、無視できるわけがない。
それでも彼女は不安も恐怖も、そんなものは微塵も感じさせなかった。
降り注ぐ陽の光の温もりをそのまま頬と声に乗せて、微笑む。
だからクロウリーも意を決した。
持っていた二本の水筒を掲げてにっこり笑う。
まさに先刻食堂で思い起こした、彼自身の笑顔をなぞるように。

「ジェリー料理長から色々貰ってきたのである。ちょうど、君を誘いに行くところだったのだ」

微睡むようなとろりとした動きで、金色が、漆黒に帳を下ろす。
張り詰めた空気が、表情が、霧のように嘘のように散らされる。
瞼を縁取る金色が持ちあがり、漆黒を露わにする。
ふと周囲を見回したが、きょとんとした顔で二人を見上げた。

「……俺?」

ミランダが頷いた。

「ええ。病室の方にいるって聞いたんだけど、外で会えちゃったわね」

ぱちぱちと瞬きを繰り返したが、僅かに開けた唇を引き結んではにかんだ。

「外が暖かそうだったから……たまには日向ぼっこもいいかな、って」
「分かるわ、いいお天気だもの」

が左右を見て、地面に自分の肩掛けを敷こうとする。
ミランダが座る場所を作りたいのだ。
クロウリーはを制し、ポケットを探ってハンカチを敷いた。

「さ、ミランダ。こちらに」
「ああありがとうございます、わざわざすみません……」
「流石だよ、クロウリー」

恐縮しながら座り込むミランダの隣で、が満足そうにうんうんと頷いている。
クロウリーはミランダとは反対隣に座ろうとして、しかし思い直した。
ミランダを男二人で囲むように座る。
どうしても、今、の隣に座る勇気が出なかった。
けれどこの位置ではかえって彼の顔がしっかり見えてしまって、なおさら緊張する。
今更位置を変えたら不自然だろうから、腹を括ってここに座り続けるほかないだろう。

「そういえば、水筒の中身は何かしら。紅茶ですか?」

訊ねられたので、蓋を開けて中身を確かめる。

「ふむ、こちらはダージリンである。で、こちらは……」

もう一つの水筒は、香りと温度からして林檎ジュースのようだ。

「私は紅茶をいただくが、二人はどちらがいいであるか?」
「迷っちゃいますね。くんはどっちにする?」
「……ジュースにしようかな」
「じゃあ私は紅茶でお願いします」

二人のリクエストに応えて、ミランダが持っていたバスケットからカップを取り出した。
それぞれに飲み物を注いでいると、ふとがバスケットを覗き見る。
気付いたミランダが、彼が見やすいように籠を傾けた。
「ジェリーさん、たくさん入れてくれたのよ」
「そうだね。……あはは、全部林檎だ」

カップを手渡したクロウリーも、バスケットを覗いた。
アップルパイ、パウンドケーキ、焼き林檎にうさぎ形の林檎。
温もりと共に良い香りをたっぷり吸いこんだ。

「さすが料理長、どれも美味しそうである」
「ん……あ、このパイはカスタード入りのやつ」
「形だけで分かるのであるか?」
「俺、ジェリーの林檎料理に関しては、世界一詳しいから」

ふふん、と笑うの声は、先程までと比べて随分と軽やかだ。

「そっちのケーキは、凄くお酒効かせたやつ。ミランダ、食べてみたら?」
「えっ、私? 美味しそうだとは思うけど、くんは? 私が食べてしまっていいの?」
「この重そうなの持ってきてくれたんだから、一番に選んでよ。それに、林檎好きが増えるなら俺は嬉しい」

言いながら、彼はさっとパウンドケーキを取り出してミランダに手渡した。

「ありがとう……いい香りだわ」
「ね。好きだろ、こういうの。……クロウリーは? どれにする?」

今度はこちらに話が剥けられる。
肩肘を張らないリラックスした様子に安堵しながら、改めて中身を覗く。

「パイも気になるが……む、焼き林檎も捨てがたいであるな……」

焼き林檎は紙に包まれているが、形状からして恐らく丸のまま焼かれているのだろう。
がジュースを一口飲んで、言う。

「焼き林檎は、中にレーズンが入ってる時とそうじゃない時があるよ」
「そうなのか、バリエーションも豊かなのだな」
「ふふ、気になるなら開けてみましょう」

ミランダが包みを開いてくれた。
まだ熱を保っていた林檎から、甘い香りが立ち上る。
思わず三人揃って「いい匂い」と言葉が漏れた。
すかさずが断言する。

「これは、レーズン入りだ」
「どうする。私はどれでも良いのだが……」
「いや、俺はこっちでいい」

きっぱり言ったが、手を伸ばしてうさぎ形の林檎を取り上げた。

「そんなに腹減ってないんだ。温かいうちに食べてよ、クロウリー」

気遣う言葉も、表情も、何を向ける間もなく、が眉を下げて肩を竦める。

「わざわざ持ってきてくれたのに、ごめんね」
「いいのよ、私達こそ、連絡もしないで押し掛けちゃったんだから」
「うむ。謝るようなことではない、お互い様であるよ」

ほんの少し首を傾けて、彼はにっこり微笑んだ。

「……ありがとう」

よし、じゃあ、食べよう。
そう言って、彼はミランダにパウンドケーキを食べるよう促した。

「いただきます……あら、本当、ブランデーが効いてて美味しいわ!」
「ミランダ、お酒の効いたお菓子、好きだもんね」
「えっ、そ、そうかしら」
「そうだよ、……あはは、自分では気付いてなかったの?」

クロウリーは焼き林檎にナイフを差し込みながら、微笑んだ。
思ったより元気そうで、本当によかった。
コムイや婦長に連絡を取らねばならないとは思うが、この時間くらい、彼を自由にさせてやろう。
折角、こんなにも機嫌よく、楽しそうに笑っているのだから。









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