燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









ねえ、
もうたくさんだ
あんまりだ
気の毒で、気の毒で、
こんなことならいっそ
こんな、世界は、



Night.124 黄昏色に塗りつぶす









「貴方がこんな愚行を犯すとは」
「恩を仇で返すようで、申し訳ないです」

そう言いつつにこりと微笑んだドクターは、内扉の前から一歩も動く気がないようだった。
リンクは長い溜息をつく。

「当然、我々がウォーカーと彼の接触を最も危険視していることを分かっての行動でしょうね?」
「勿論です。上に報告して頂いて構いませんよ」

朗らかな笑顔から、ふん、と顔を背けた。
報告したところで、ヒリス・クラーセンがの主治医という立場から解任されることは無いだろう。
これまで「教団の神様」を器用に手懐けてきた実績は、強い。
ルベリエも零していたが、今では一皮むけたと言うべきか、なかなかの曲者になった。
に報告書を書かせる必要があるので、リンクとアレンは今日もこの病室を訪れた。
昨日はこの控え室から中を覗くことしか出来なかったが、今日はアレンだけが病室に入ることを許された。
一方、話があるという名目で、リンクはスタッフルームに留め置かれている。

「患者の安静のためですから、長官も否とは言いませんよ。多分」
「それとこれとは話が別です」
「まあまあ。中の様子は見えるでしょ、それで勘弁してください」

確かにこの部屋には病室の様子を窺うための窓がついていた。
先程から兄弟弟子は報告書を覗き込んでいる。
真面目に職務をこなしているようだが、リンクにはそれしか分からない。
これでは監視の役目は果たせないのだが。

「……出来るだけ、プライベートな空間を作ってやりたいんです」

今更なんですけどね。
そう言って自嘲する相手のこれまでの献身や葛藤を、知らない訳では無いので。

「ウォーカーに異変があれば、貴方の意識を奪ってでも中に押し入りますからね」
「是非そうしてください。君が踏み込むまでの時間は、が稼ぐでしょう」

二人は今のところ穏やかに談笑しているように見える。
アレンは、兄弟子と科学班班長のことを気に病んでいる様子だった。
その話もするのだろうか。
進展があれば、きっとアレンが打ち明けてくるだろう。
気安く期待をしてしまう。
それくらいには、監査対象と親しくなっている自覚があった。

「(気を引き締めろ、ハワード・リンク監査官)」

あの少年の内側に潜む「14番目」が、いつ片鱗を見せるか、分からないのに。









「……お前、なんでそんなに格好いいんだ」

泣いていなかったけれど、の声は濡れていた。
アレンは、触れていただけだった兄弟子の右手を握る。
そうすればいつだって彼は嫌がらずにアレンの手を握ってくれたが、今は。
嫌がられている訳では無い、けれど今は、握り返してはくれなかった。

「俺にも兄さんらしいこと、させろよ」

それでいて、そんなことを言うので、アレンは小さく笑った。

「兄さんが格好良いからかな」
「馬鹿、適当なこと言うな」

怯えた表情で震える姿も、苛立ちを露にした瞳も、アレンにはずっと隠されていた。
出会ってから今まで、彼の傍ではいつも同じ空気が流れていて、それに触れるだけで安心できていた。
揺らいだのはクロスが襲われたあの時くらいのものだ。
だからこそ、いつもの空気の端々からちらちらと違う顔が見えるたび気になった。
空気の向こうに隠されているものがあることも、分かっていた。
彼から愛と温もりを授かった一人として、彼が愛を受け取れないのも我慢がならなかった。
だから、意を決して今日、来たのだ。

「……お蔭で、思い出した」
「何を、ですか?」
「神様の目の前で、誓ったばっかりだったのに」

声色は優しくて、少し疲れが滲んでいて。
けれど、宙を睨むように見据える漆黒は戦闘のさなかのような厳しさを湛えている。

「すっかり忘れてた。……俺はまだ、覚悟が足りないな」

彼の右手が、アレンの手を柔く握り返す。

「思い出させてくれて、ありがとう」

瞳に戦場の気配を纏わせながら、それでもがアレンに微笑みかける。
一瞬、アレンは途方もない不安に襲われた。

「班長とも、……話してみる。勇気が出たら」

けれどその不安は本当に一瞬のことだった。
彼のはにかんだような笑顔は心からのものだと分かって、胸を撫で下ろす。

「兄さんなら、きっと出来ますよ」
「……そうかな」

微笑んで、はいつの間にかすっかり起こしていた体を枕に凭れかけた。
はぁ……、と聞こえたのは溜息のような、磨り潰されるような軋んだ吐息。

「兄さん、」

目を閉じた彼の肩が大きく上下していて、アレンは慌てて腰を浮かす。
必要なこととはいえ、話しすぎた。
部屋に入った時から、時折彼の意識が揺らぐのには気付いていたのだ。

「っごめんなさい、今ドクターを呼んできます」

それなのに、が手を離してくれない。

「いいから」

殆ど唸り声のような低い声で、吐息のついでに彼は言う。

「眠くなるまで、聞かせてくれるんだろ……」
「でも、」

――あっちに気付かせるな、普通にしてろ。
それは言葉ではなく、空気が、彼の目がそう言ったのだ。
は、貴重なこの時間を少しでも長く引き延ばしたいのだ。
そうしたいと思ってくれているのだと、分かって。
心がほつれてしまいそうになる。
アレンだって今が心地良いから、このままずっと二人で喋っていたい。
けれど兄弟子を休ませたいし、元気になって欲しい。
彼が、握った手を揺らして急かす。
早くしろよ、とその眼差しが悪戯っぽく笑っていたから、アレンは観念して肩の力を抜いてしまった。

「……分かりました。本当に疲れたら、言ってくださいね」

それでいいと言うように、が頷く。
しょうがない、望む通りにしよう。

「僕の見た目って、結構目立つじゃないですか。髪は白いし、顔に傷はあるし」

アレンが振った話だ、求められるならいくらでも話せる。

「でも、それに気付いたのって、貴方が教団に戻ってからなんですよね」

そう打ち明けると、が少しだけ頭を傾けた。
漆黒がぼんやりと此方を見上げる。
先を促されたのだと理解した。

「目立ちたくなくて、せめて髪だけでも隠そうと思って、バンダナとかを巻いたりもしてたんですよ」

話しながら、壁に掛けてあるの団服にも目がいった。
今のものとはデザインが違うけれど、彼の団服が、アレンにとっての「教団の団服」だった。
クロスも団服を着ているというのに、印象はまるで違う。
あちらは「師匠」と認識しているからか、「黒の教団のエクソシスト」というイメージは後から出てくる。
そして、兄弟子こそアレンにとって馴染み深い「黒の教団のエクソシスト」だ。

「教団に来て最初に作ってもらった団服も、あの頃の兄さんと同じでフード付きにしてもらったりして」

そういえば、アレンは髪を隠す意味もあってフードを求めたのだが、は何故あのデザインだったのだろう。
覚えている限り、彼がフードを被っている姿を見たことは無い。

「……今はもう、フード、付けてないよな」
「はい。最近は注目されてもそこまで気にならなくなったので」

再会した時には既にの団服からも、フードが無くなっていた。
教団に来てから、見覚えのない団服を纏う彼を見ていて、アレンはようやく分かったのだ。

「僕の修行の時、兄さん、周りの人の視線を自分に向けさせてましたよね。僕が、注目されないように」

この人は、それが出来るのだ、と。
は目立つ人だ。
誰もが自然と目を向けてしまう人だ。
けれど、それだけでは無い。
彼は視線を集めることも逸らすことも、息をするように容易くやってみせる。

「守られてたんだなぁって、分かったんです。……今更で、申し訳ないんですけど」
「そんなの、気付かないままで、良かったんだよ。俺が、勝手にやってる事なんだから」
「それじゃあ、僕、優しくされてばっかりじゃないですか」
「いいよ、優しくされとけ」

アレンはしばらく唇を噛み締めて、それから小さく首を振った。
いつだって、はそうなのだ。
人間に優しくて、アクマにも優しくて、家族に優しくて、アレンやクロスには殊更に優しい。
でも、アレンは。

「僕は『14番目』の宿主ですよ」

そしては、アレンの兄弟子だけれど、兄弟子なだけでは無い。
胸を張って兄の隣にいられる自分でありたい。
そう考えるほどに、願うほどに、アレンは自分に首を振る。
彼に甘やかされる訳にはいかない。
――「教団の神様」を、咎落ちにする訳には、いかない。

「……お前は、クロス・マリアンの弟子だろ、『アレン・ウォーカー』」

息を抑えた静かな声が、空気をゆっくり押し割いた。

「言ったろう、『お前』がいる限り、俺はお前の味方だ、って」

まるで、さっきとは真逆だ。
アレンは自然と俯いて、拳を握る。

「覚えて、います」
「忘れたのかと思ったよ。……なあ、アレン。――に譲ってやる気はないんだろう?」
「今、何て?」

聞き慣れない名前を、が口にする。
何と言ったのか、聞き逃した。
彼は軽く、緩く首を振って言い直す。

「『14番目』の好きなようにさせるのか? 誰かにいいようにされて、黙ってるって? マリアンの弟子が?」
「いいように、って、そんな……僕だって、好きでそうしてるんじゃないです」

アレンは思わず言い返した。
そうだ、アレンだって、好きでそうするわけでない。
いくらでも、その言い方は酷いじゃないか。
息をするのもやっとというような様子で、それでいては畳み掛けるようにアレンを挑発する。
言葉だけでなく横目で送られる視線が、嘲るように、侮るように、煽ってくる。
腹の中がふつふつと熱くなる。

「しょうがないじゃないですか! だって、師匠は、……師匠はっ、」

クロスは言った。
いつかアレンは、「14番目」になる、と。
大切な人を殺すことになる、と。
事情を知るクロスがそう言うのに、アレンに、どう抗えというのか。
握り締めた拳を、の冷たい手が上から包んだ。

「――うん」

昂った気持ちが、見る間に凪いでいく。

「……師匠はああ言った。けど、お前だって、そんなことは望まないんだろ」

アレンは息を整えて、頷いた。

「ん。なら、遠慮なんてするな」

手の冷たさが心地良い。

「吐き出していい。吐き出せばいい。……あの人の弟子が、そう聞き分けよくいるもんじゃない」

いいか、アレン。
温かな声が、うなじに降ってくる。

「俺は、黒の教団のエクソシストだ。ノアの味方には、なれない」

やろうと思えば、空気でアレンの視線を操作することも出来るだろうに、彼は、そうしない。
アレンは自分の意思で、前髪の隙間からを見つめる。

「だけど、俺は、クロス・マリアンの弟子だ。『お前』の兄さんだ。『お前』の味方だ」

彼の指に、震える程の力が込められていて。
苦しそうな呼吸に、燃え立つような熱が込められていて。
それは、彼が祈りを捧げる時に生まれる空気に似ていた。
だから、やっと気付いた。

「(そうか)」

兄さんは、ずっと、神様に――?

「頼れ。甘えろ。たとえお前が、『14番目』に負けそうになったとしても。いつでも逃げてこい」

大丈夫だ、アレン。
強い言葉が胸を打つ。
顔を上げて正面から見た彼の笑顔は、今日もいつものように、優しかった。

「『アレン・ウォーカー』が帰ってくるまで、ノアの一人や二人、兄さんが押さえ込んでいてやるから」

優しくて、あまりにもいつも通りだったから、悔しくなった。
まるでアレンの苦悩なんて何でもないことのようで。
簡単に、吹き飛ばされてしまうみたいで。
大丈夫なのだ、と根拠もなくそう思えてしまったから。
嗚呼、本当に、さっきとは真逆だ。

「兄さん、……なんでそんなに、格好いいんですか」

呟けば、が機嫌よく笑った。

「弟が格好いいからかな」
「そうやって、適当なこと言って……」

涙が出そうだったけれど、兄が泣かなかったから、アレンも堪えた。
そうやって、僕を甘やかすだけ甘やかして、優しくて、大事にしてくれる。
そうして貰える僕がいる。

「――兄さん、それでも。いいえ、……きっとそんなことは、絶対に僕が、食い止めてみせますけど、」

それだけで、勇気になる。

「もしも僕が負けて、『14番目』が教団の仲間を傷付けるようなら……その時は僕を、殺してくださいね」

の指が、ぴくりと動いた。

「それで、『教団の神様』には、僕を殺した人のことを赦してあげて欲しいんです」

甘えさせて、兄さん。
恐る恐る彼を見れば、漆黒は瞼に覆い隠されていた。
じっ、と身動ぎもしないが、大きく、浅く、深く、細かく、呼吸をして。
呼応するように、空気が震える。
揺れる。
揺れる。
揺れる。
揺れる。
揺れる――

――呑まれた。

弾ける。
叩きつけられる。
喉が塞ぐ。
脳を引き絞られる。
胸を、締め付けられる。
焼けるように熱いアレンの視界を、黄昏色が覆って――

――うばわれる、

否、そんな筈は無い、黄昏は――

――うばわれる、

違う、そんな筈は、――

――すべてを、
――すべてを、また、
――また、うばわれる



歯止めが利かない。
体が震える。
肌がびっしりと粟立つ。
臓腑を握り締められて、揺さぶられる。
千切り、毟り取られそうな痛みが。
吐き気が。
口から、悲鳴が、嗚咽が零れそうになって。

!」
「ウォーカー!」

ドクターとリンクが青ざめた顔で一歩駆け込んで、そのまま動けず硬直している。
それを頭の片隅で認識しながらも、アレンはから顔を逸らせない。
全て吐き出してしまう寸前まで溢れて弾け飛びそうになって。
そうして、渦巻き荒れ狂う空気を全て捩じ伏せた彼の漆黒に、再びまみえる。
光源は何の変哲もない、他の部屋と同じ照明なのに。
その光が彼の黄金色を受けて、滲み出る透明な雫を彩った。
彼が微笑む。
光の玉を決して、零さぬままで。

「……分かった」

どっ、と体の力が抜けた。

「約束だ、アレン」

座っているのにへたり込みそうになる。
はそっと微笑んでいて、今はアレンの方こそ肩で喘ぐように息をしている。
ドクターとリンク、二人の靴底がまろぶように床を打つ。

、……少し休もうか。疲れただろう」

兄弟子は小さく頷いて、アレンの拳をしっかりと包んだまま、眠り落ちるように目を閉じた。
ドクターが小声で言う。

「しばらく居てやってくれるかい」
「では、その間に報告書をチェックしてしまいましょう。ほら、ウォーカー、貸しなさい」

アレンはぼんやりと頷いて、顔も見ずにリンクへ報告書を差し出した。
空いた右手で、の手を上から包む。

「(ごめん)」

言わせてしまった。
頷かせてしまった。
微笑ませてしまった。

「(ごめん、兄さん)」









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