燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









いつまでも蹲ったまま
非力と不幸を嘆くのは、やめろよ
覚悟を決めろ、旗を上げろ
好きなようにされて、黙っているのか
この身を捧げて抗うと
そう、誓ったのだろう



Night.123 それでも太陽は世界を望んだ









誰かに呼ばれたような気がして、目を開ける。

「――いいや、きっと大丈夫。起きてただろう?

ドクターの声だ。

「(……うん)」

起きていた、目を瞑っていただけだ。
頷くと、ドクターよりもう少し高い声で「よかった」と聞こえたのでは首を傾げた。
ドクターだけじゃない、霞がかった思考の向こう側にアレンの気配がある。
目を向けると、紙の束を両手で握り締めたアレンが背筋を伸ばしてにっこりと笑った。

「兄さん、こんにちは」

何かあったら呼んで、ドクターがそう言い残して出ていった。
弟弟子は会釈をしてから傍らの椅子に腰掛けた。
紙の束に目をやっているから、すぐ用件を話し出すつもりだろう。
思考が追いつかない。
深く息をして、持っていかれそうな意識を引き戻す。
アレンの背後に見慣れた金の鴉の姿がない。
は空気への感度を上げながら部屋の中の気配を探った。

「報告書を出すのに、兄さんに書いて貰わなきゃならないところがいくつかあって」
「お前、ハワードは、」

リンクの気配は何故か隣の部屋にある。
ドクターやナース達の控え室だ。

「リンクは、ドクターが……話があるから借りるね、って。隣にいますよ、ほら、あそこ」

見ると、確かにガラス窓の向こうでドクターとリンクが話し込んでいるようだった。
ふうんと頷いたら、落ち着いて目を閉じてしまいそうだ。
兄さん、と遠慮がちな声をかけられて、はたと気付いた。
――やっと、二人になれた。
アレンも経緯を自分の口で説明して、ようやく実感が湧いたらしい。

「……二人っきりですね」
「……そうだな」

ティムキャンピーも、存在を殊更に主張せず、大人しくアレンの頭の上で羽を休めていた。
話したいことが、ある。
伝えたいこともある。
アレンもきっと、同じなのだ。
目を見交わして、どちらともなくふふ、と笑い合う。
ずっと、互いに焦燥を抱えたまま、時間だけが過ぎていっていた。
もアレンも、他者の目を完全に切り離すことが出来ない身だ。
だからこそ、まるで修行に付き合っていたあの頃のような、こんな風に過ごす時間を求めていた。
そうだ、しっかりしなければ。
そうだ、これは好機だぞ。
いつリンクが部屋に入ってくるか分からない。
いつ終わるかも知れないこの時間は、しかし、あまりに心地よく、穏やかだ。
話があるから二人になりたかったのではない、二人きりでただ落ち着きたかったのかもしれないとも思う。
報告書の存在を思い出して身を起こそうとすると、点滴やら機械に繋がるコードやらが動きを大きく阻んだ。
鬱陶しくて、思わず指を引っ掛ける。

「取っちゃだめかな、これ」
「ええっ、ダメですよ、ドクターに怒られますよ」
「そんな事じゃ怒らないよ、あの人は」

アレンの手を借りつつ、枕に凭れた。
それだけで息が上がるのを、腹に力を入れて押さえ込む。
クリップボードと紙束を受け取って、それにサッと目を通した。
だんだんと思考がクリアになっていく。

「あれ? そういえば、俺も報告書書かないと。コムイに紙を貰わなきゃ」
「それなんですけど、今回は特別に二人でひとつで良いそうです。その分、休んでくれって」

二手に分かれて調査をしていた時のことや、フランカの遺体を見付けたくだりなどが空欄のままだ。
アレンがそこを指さした。

「そのあたり僕じゃ分からないので、埋めてもらっていいですか?」
「分かった。悪かったな、殆ど書かせちゃって。……ところで、なあ、アレン、」

は報告書に一通り目を通して、それから弟弟子を見つめる。

「字、上手くなったな」
「えっ! ほんとに?」
「うん。途中で聞かなくても、多分読めるぞ。これは……えーっと、……gだろ」
「そうです! いけますか、読めますか!?」
「読める読める」
「やった!」

頷くと、途端にアレンが顔中で笑った。

「クロウリーが教えてくれたんですよ! ペンの持ち方に変な癖がついてるって言われて、そこから直しました」
「ああ、クロウリーか。それは上手くなるわけだ」

修行に付き合っていた頃、クロスと共にアレンに字の特訓をさせたことがある。
その頃は大分スペルミスを減らせたと思ったが、字の形はひどい癖字のままだった。
クロウリーは高度な教育を施されたのだろうし、そもそも彼はとても優しく、親切だ。
基礎基本からきちんと丁寧に教えれば、アレンの長年の悪筆もこんなに読みやすく上達するのか。

「ジョニーとかは、僕がクロウリーから教わってるのを知ってるから……報告書は綺麗に書きたくて」
「そうだな、折角教えてくれたのに、恥をかかせる訳にはいかないもんな」

アレンが強く頷く。
練習の成果が出ていないと第三者に言われれば、きっとクロウリーは気に病むだろう。
そして、アレンはそれを気にするたちだ。

「だから、これでも一応丁寧に書いたつもりです」
「ん、伝わってるよ。かなり読みやすくなった、頑張ったな」
「えへへ、ありがとうございます」

はにかんで頬をかく弟弟子を励ますつもりで、は力強く頷いてみせた。

「この調子で練習していったらもっと上手になると思う」

アレンの文字を解読しながら、不足している事柄についてペンを走らせる。
泉に関しては、アレンは見もしていないので、が書くしかない。
どこに重点を置いて報告すべきか少し考え込んでいると、アレンが横から口を挟んだ。

「一番書いて欲しいのは、遺体が置かれていた状況についてだ、ってコムイさんが言ってました」
「……なるほど」

それは確かに、探索部隊の二人も知らない情報だ。
フランカを発見した経緯を箇条書きで書き連ねていく。
確か、遺体は両脚、膝下が水に浸かったままだった。
リーセロットの遺体と同じようにまるで眠っているだけのように見えたこと。
それと、壁の階段はが見た時既に崩れていたこと。
ある程度書いたらペンが止まった。
他には……と顔を上げると、アレンがやたら畏まった様子でを見ていた。

「兄さん、今回の任務、付き合ってくれてありがとうございました」
「なんだ、いきなり」
「……兄さんは知らなかったかもしれないけど、今回の任務って、本当は僕が行くやつだったから」

言いながら、弟弟子は少し俯いて膝の上で拳を握り締める。
は首を傾げた。
何の話だ。
付き合うもなにも、はエクソシストなのだから、任務に出るのは当たり前だ。
アレンが気に病むことは一つも無いし、感謝などされる謂れはない。

「調査も絡むようなああいう任務は、単独で回されることは少ないんだ」

アレンはそもそも教団に所属してそう経たないうちに元帥探索の任務に回された。
通常任務の経験は一年分も無いのだ。
だから教団の「普通」をあまり知らないのかもしれない。
それに、そうだ、今回は当初、エゴールがアレンを厳しく警戒していた。
そのことか。
は気負わせないように微笑んだ。

「たまたま俺が空いてたから選ばれたってだけで、礼を言われるようなことじゃない」
「ううん、それでも、今回は同行者選びに苦労したそうですから」

お前も頑固だな、と思わず呟く。
気にしなくて良いと言っているのに。
溜息をついたら、ふと胸が重くなったように感じて、は枕に凭れた。
気取らせてはならない、まばたきを利用して浅くなった呼吸を深くするよう努める。

「他にもね、いっぱいあるんですよ、兄さんにお礼を言いたいこと」

目を開けると、いつの間にかアレンがペンと報告書を回収していた。
ぱちり、ぱちり、まばたきで鈍痛を散らす。

「まだあるのか」
「多分兄さんが思ってるより、たくさんあります。眠くなるまで、聞いててもらっていいですか?」

どれだけ褒め殺しにするつもりだろうか。
はつい吹き出した。

「しょうがないな。言っとくけど、最近寝すぎて眠くないから、そう簡単には寝ないぞ」

きょとんと目を丸くしたアレンが挑戦的に笑う。

「あはは、じゃあ全部聞いてもらわなきゃ。あのね、まずは、今回の任務の時の事なんですけど」

言いながら、彼は紙の束を脇に置いて改めて拳を握った。

「僕を心配するのは当たり前だ、って言ってくれたでしょう?」
「言ったな」
「それが本当に嬉しかったから、僕、あの時貴方になんにも言えなかった。ありがとうございました」

そんなこと、嘘偽りなく本心を述べただけなのだから、やはり礼を言われるようなことでは無い。
そう返そうとしたのに、は言葉を挟めなかった。
アレンの目が強い意志を持ってを見据えていたからだ。

「兄さん、リーバーさんと仲直りしましょう」

そうして向けられた言葉の文脈が掴めなくて、戸惑う。
戸惑う、否、それは言い訳だ。
言いたいことは分かっている。
アレンは報告書を利用してその話をしたかったのだろうと、察するのは難しくなかった。
けれど。

「(守らなきゃ)」

は、口の端に笑みを浮かべる。

「別に、俺とリーバー班長は喧嘩してるわけじゃないよ、アレン」
「でもギクシャクしてるでしょ。……ねぇ、兄さん。あれは本当に狂言だったんですか」
「そう言っただろう。信じないのか?」
「僕、凄くびっくりしたし、心配しましたよ。外で待ってる間も気が気じゃなかった」

アレンが食い下がる。
舌打ちしたい気持ちで、はそれを寸でのところで踏みとどまった。
――守らなきゃ。
神様の視線から、如何にして弟を隠すべきか。
焦りと不安と苛立ちが、脳みそを焼き切ろうとする。

「……お前には作戦だって言わなかったしな。悪かったよ。でももう、今は分かってるだろ」

分かってるだろ、だからもう、この話は終わりでいいだろ。
話を切り上げたいのに、アレンにそのつもりは無いようだった。

「分かってますよ。だけど信用できません、兄さんは辛いこと、絶対僕には見せないでしょう」

真正面から見据えられて、逃げ場がない。
そんなことない、思い過ごしだよ、と言えない。
逃げるだけの力を振り絞ることが出来ない。
足が竦む、体が竦む、声が、喉が、息が、竦む。
頼むからもう何も言わないで。

「心配しました。今も、心配してます」

そんなこと、言わないでくれ。

「……俺の事なんか、そんなふうに気遣う必要は無い」

みっともなく震える声を、やっとの事で絞り出したのに。

「いいえ」

それを、強く拒まれたから。
は思わず、がむしゃらにアレンを睨みつけた。
空気はいつだっての側にある。
それも一緒に、加減せずに叩きつけた筈なのに、アレンは一歩も引かないのだ。

「気にしますよ。兄さんだって、リーバーさんが十日も徹夜してたら心配するでしょう?」

やめてくれ。

「お前もリーバー班長みたいなことを言うんだな」
「嫌ですか? じゃあ、僕のことも『弟』じゃないって、言う?」

は息を飲んで唇を噛んだ。

「(やめてくれ)」

突き放しても、追いつかれる。
返す言葉がない。
言えるわけないだろ、言うわけないだろ、でも、言わなければ。

「絶対そんなこと言えませんよね。だって、師匠から僕のこと頼まれているから」
「師匠に言われてなくたって、放り出さないよ」

咄嗟に口をついた、言葉が、全てだ。
――嗚呼、そうだよ、誰が言えるかよ。
あの日、夕焼けの中で、汽車から降りたの前で小さくなっていた白色の少年。
その子が、気後れしたようにおどおどとを見上げるので。
安心させてやりたくて。
怖くないよ、と言いたくて。
気兼ねせず甘えていいのだと、教えてやりたくて。
嗚呼、そうだよ。

「兄さんって、呼べって言ったのは、俺なんだから」

リーバーに言われた言葉が、自分に返ってくるなんて。
けれど違うんだ、そういう事じゃないんだ。
声が、体が震えるのを、もう止められない。

「……そういう事じゃないんだよ、アレン」

呼吸が、苦しい。
アレンが、今、目の前で死んでしまったら。
手の届かないところで、リーバーが死んでしまったら。
それが怖くて、顔を上げていられない。
息が出来ない。
が死んだら、神様はアレンを助けてくれる?
が死んだら、神様はリーバーを助けてくれる?
それなら、いいのに。

「覚えてますか? 修行中に、僕が教会の屋上から落ちそうになって、兄さんが助けてくれた時のこと」

左手で枕元を探ると、丁寧に置かれていた金のロケットにすぐに触れられた。
鎖を手繰り乗せ、握り締める。
燃え尽きそうな頭を、拳の中の冷えた金色が冷ましてくれると、期待して。

「あの時、僕が手を離そうとしたら、兄さんは『それなら俺も一緒に落ちる』って言ってくれたんです」

覚えている。
アレンが、アレン自身を諦めようとしたあの時のことだ。
相手が落ちてしまうくらいなら自分が、と。
その気持ちが、分かったから。
分かったけれど。

「(やめてくれ)」

は、アレンに生きていて欲しかったから。

「(やめてくれ)」

だから。

「僕が諦めようとした僕のことを、貴方は諦めなかった。……リーバーさんも、僕も、兄さんとおんなじですよ」
「(同じじゃないよ)」

でも、同じなのかもしれない。
駄目だ、惑わされるな、迷うな、揺れるな。
挫けるな。
そうやって、もしも、二人が、神様に攫われてしまったら。
投げ出していた右手に、アレンの手がそっと触れた。
やめろよ。
もう、息が出来ない。

「僕の大切な人を大切にできる僕でいさせて。リーバーさんにも、貴方を大切にさせてあげてよ」
「……お前、なんでそんなに格好良いんだ」

俺にも兄さんらしいこと、させろよ。
呟くと、アレンが誇らしげに笑った。

「兄さんが格好良いからですよ」
「馬鹿、適当なこと言うな」

どうして分かってくれない。
何度言えばいいんだ。
なぜ自分から危険に踏み込んでくるんだ。
嗚呼、どうしてこうも、愚かしく、愚かしく、愚かしく、けれど優しくて甘やかでどこまでも愛おしい。
嗚呼、



――神になど、くれてやるものか。









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201228