燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
あなたの傍に行きたいの
いいえ、あなたはずっと傍にいてくれた
あなたの手を握りたいの
いいえ、あなたはずっと傍にいてくれた
あなたを抱き締めたいの
いいえ、あなたはいつも傍にいてくれた
だからもう、それ以上は要らないよ
Night.122 水平線にあなたはいない
まるで、溺れる魚のようだ。
――お兄ちゃん――
魚こそ水中のスペシャリストだというのに、どうして自分はそんなことを思ったのだろう。
いつだったか、ラビと共に赴いた貴族の屋敷の水槽で、極彩色の魚はパクパクと口を開けていた。
呼吸なんか出来ないだろうに、どうして水の中で口を開けたり閉めたりするのかな。
が熱心に水槽を見つめていたからか、ラビは随分と不思議そうな顔をしていた。
って、魚好きなの?
……いや、別に。
ふーん。
別に、そういう訳ではないのだけれど。
特に、興味もないけれど。
興味もないから、魚の呼吸法も知らない。
ラビに聞いておけばよかった、何かの本に書いてあっただろうか。
あれは溺れていた訳では無いのか。
魚達の中には水面に顔を出したものもあった。
ああして、人間のように空気の中で呼吸をするのだろうか。
それならば、水中で水を食むように口を開けたあれは、やはり溺れていたのだろう。
――お兄ちゃん――
揺蕩う意識の中で、ぼんやりと声が聞こえる。
どうして?
――そんなの、決まってるじゃないか。
「ドクターの、ふるさとだから」
待って。
なら、どうして魚は陸に上がってこないのだろう。
溺れてまでも、水中で過ごしていたいの?
――お兄ちゃん――
いやいや、きっと魚は魚で、何かの手段で。
そうだ、身体の造りが。
きっと、人間とは、違っている。
だから。
そう、呼吸も。
呼吸、が。
息を。
して。
出来て。
だから、きっと。
生きたい場所で。
生きられるんだ。
魚は、水の中で溺れたりはしない。
空だ。
溺れるなら、空だ。
不釣り合いな場所だから。
相応しくない場所だから。
だから、――まるで、空で溺れる魚のようだ。
――お兄ちゃん――
「町は、たぶん、壊さなかったと思う。修道院は、壊しちゃって、ごめん」
一回。
二回。
三回。
一旦休み。
急き立てられるように一回。
一旦休み。
準備して、自分を奮い立たせて、掛け声を掛けるようにして、一回。
吸って、吐く。
「だって、ドクターが、いつか、帰る場所だろ」
自分に相応しい場所ならば、呼吸も満足に出来るのだろうか。
この世界が、この愛する世界が自分には不釣り合いな場所なのだとして。
何処でなら、息が出来るのだろう。
恋しくて堪らない、あの幸せな世界でなら、生きていけたのか。
あの頃の自分はどうやって息をしていた?
野原や、湖、花畑、森や林、村の小道を駆けながら。
胸いっぱいに空気を吸い込んで、そして、振り返った丘の上の家には。
――お兄ちゃん――
溺れるように息を紡ぐ、母が。
――お兄ちゃん――
ふたりめをうまなければ。
ふたりめをうまなければ。
ふたりめをうまなければ。
ふたりめをうまなければ。
ふたりめを。うまなければ。
――お兄ちゃん――
子供には意味など分からないと、大人達は思っていたのだろう。
憐れむ眼差しと微笑み、慰めるように宥めるように頭を柔く撫でる無数の手。
には分かっていた。
――お兄ちゃん――
二人目を産まなければ、きっとグロリアは。
――お兄ちゃん――
ちがう。
違うんだよ。
みんな、なんにも分かっていないんだ。
「……あなただって、たった一人、なんだよ」
分かっていないのはではなくて、「みんな」の方なんだ。
みんな知らないんだ。
母が、の為に二人目を望んだことを。
だから、ねえ。
――お兄ちゃん――
ねえ、お母さんに、そんなことを言わないで。
僕の可愛い妹に、そんな目を向けないで。
僕に向ける優しさと温もりは、全部に与えてあげて。
僕のものはすべて、あの子に。
――お兄ちゃん――
。
僕の世界。
僕の、大切な。
世界。
「ごめん、」
許せないって、分かってる。
許してくれるって、知っている。
許されたくないって、思ってる。
嗚呼、……帰りたいな。
でも、には帰り方が分からない。
墓は荒れ果てているだろう。
家は、朽ち果てているだろう。
もう、誰も居ないけれど。
帰りたい。
帰りたい。
帰り、たい。
――俺が壊した村に、どの面さげて帰るんだ。
「リーバーくん達から聞いたよ。、君らしくもない」
薄く開いた瞼から覗く漆黒は、何も映していないように思える。
目覚めたというよりは、目を開けたという方が正しい。
ベッドサイドの椅子に腰掛けてゆっくり含めるように語りかけるコムイも、無理は百も承知だろう。
それでも、リーバーやアレンからの報告を受けて、室長は早く話をするべきだと判じた。
「聖典は、そんな無茶な使い方をしてはいけない。どうしてだか、分かっているよね」
聖典の「帳」で作られた大きな箱のことだ。
アレンもあんな大技は初めて見たと言うし、これまで誰の任務報告にもあんなものは上がってきていない。
「いつもの君なら、きっと、自分のことも最低限は考えただろう。だって君は、エクソシストだ」
帰還した際にアレンが手に握っていた紙には、ハウゼンから、の主治医への諌言が書かれていた。
リーバーはその紙に見覚えがあった。
修道院の医務室に駆け込んでしばらく彼の様子を見守っていた際に、ハウゼンが書き付けていたものだ。
カルテに似たメモ書きには、薬を服用させてからの経過も詳細に記されていた。
そういえば、アジア支部のバクが、そのメモの写しを貰ってたいそう感謝していたらしい。
「聖戦に於けるイノセンスとエクソシストの価値を、君はきちんと理解している。そうだね?」
ようやく、が僅かに首を傾けた。
興味を示したように、或いは、初めてコムイに気付いたように。
「なのに、どうして、必要以上の負荷をかけてしまったの?」
コムイが漆黒を逃すまいとするように、彼の手首を掴む。
「小さな子を任務に巻き込んだから? それとも、非戦闘員のリーバーくんがいたから?」
「ドクターの、ふるさとだから」
ぽつり、と。
問いかけに被せるように、彼が呟いた。
じっと脇に佇んでいたドクターへ、言葉を失ったコムイが、そしてリーバーも、視線を向ける。
言われてみれば、確かに町の「クラーセン診療所」は、ヒリスの姓と同じ綴りだった。
「(いや、……だからって)」
絶句していたところから捻り出すような声音で、ヒリスが呻く。
「私、の?」
ヒリスの声に喜色など一欠片も含まれていなかったのに、はそっと微笑んだ。
「町は、たぶん、壊さなかったと思う。……修道院は、壊しちゃって、ごめんね」
「(そんな事のために?)」
多分、リーバーだけではない。
コムイも同じように、寸でのところで言葉を飲み込んでいた。
二人の視線は一瞬かち合って、どちらともなく互いにそれを逸らす。
一回。
二回。
三回。
肩で息をしたと思ったら、は眠るように目を閉じた。
伸ばそうとした自分の手が震えている事に気付いたヒリスが、手を引っ込めて数回拳を握る。
その間に、急き立てられるようにが喘いだ。
「だって、ドクターが、いつか、帰る場所だろ」
五日経っても呼吸も儘ならない、そこまで自らを追い込んだ理由がよりによって「それ」なら。
「(こんなの、自殺と何が違うってんだ)」
「町よりも、キミが無事でいる方が、ドクターは嬉しい」
団員達には滅多に向けない硬い声でコムイが言った。
が瞼を上げようとして、下ろす。
鬱陶しそうにコムイの手を払い、腹の辺りで上掛けをくしゃりと握り締める。
「迷惑、だった?」
仕草に似合わぬ怯えを孕んだ声色。
手が、胸元を握り直す。
ぐしゃり、同じだけの切迫でもって、彼が眉間に皺を刻む。
堪えるように、は身動ぎ、体を丸めた。
後悔を顔中に滲ませたドクターが、彼にしては珍しく躊躇いがちにの背を擦る。
「……そういうわけじゃ、ないんだ」
それを見ていられなくて、リーバーはコムイを押し退けるようにしての顔の傍に手を着いた。
「町なら、立て直せるだろ」
床に膝をついて、顔を寄せる。
「例え元通りとはいかなくても、思い出と違う形になっても、町は直せるんだ、」
リーバーの声が突然近くなったからだろう、が目を見開いた。
普段なら深く深く相手を引き込む漆黒が、落ち着きなく恐怖に揺れる。
「お前はモノじゃない。お前は、たった一人しかいないんだぞ」
「……あなただって、たった一人、なんだよ、リーバー班長」
が首を振る。
――頼むから、来ないで。
たのむから、お願いだから、と繰り返す声はまるで譫言。
懇願するように彼は目を閉じ、喘ぐ。
ドクターが無理矢理に調子を取り戻し、リーバーの手を押し止めてきっぱりと首を振った。
「今日は、この辺で」
「……分かりました」
コムイがようやくいつもの彼らしい眼差しで、息をついて立ち上がる。
「無理をさせてごめんね、」
行こう、リーバーくん。
後ろから肩を叩かれ、リーバーは渋々立ち上がる。
「また、来るからな。しっかり休めよ」
大切なのだ。
絶対に見捨てやしない。
そう、いくらでもいつまででも彼の無意識に刷り込みたい。
夢現ならば尚更、手をとって、こちら側に引き寄せたい。
後ろ髪を引かれる思いで部屋を出ようとした。
「ごめん、」
小さな声が背後から聞こえて、リーバーはハッとして振り返る。
「……守るから、ゆるして」
彼は、まだ「神様」ではない時分から科学班に出入りしていた。
初めはリナリーをコムイに会わせる為に。
いつしかリナリーと共に細やかな手伝いをするようになり、やがて彼は戦力の一つとして机を構えた。
暇さえあれば顔を出し、朗らかに輪に加わって、一緒になって笑い、頭を抱える。
そんな彼を、科学班員は同僚のように、気安い友人のように、時に弟のように扱ってきた。
だから科学班は、教団本部のサポート派の中でも特に「教団の神様」への信仰が薄い。
探索部隊などに言わせれば「不敬」な程だ。
アジア支部の支部員達からすればその距離感は羨ましくて堪らないものだろう。
けれど、こればかりは他の部署にはとても真似出来まいとコムイは思う。
「確かに、あれは堪えるね」
「問題起こして帰ってきて、すみません……」
「いやいや、別に謝るような事じゃないよ」
コムイの目の前で項垂れるリーバーとの親密な関わり。
それが科学班と「彼」の関係性の下支えになっているのは確かだ。
年齢や階級の上下を気にせずに他人を呼ぶ彼が、唯一「兄貴」と呼びかける相手。
以前、どうしてリーバーばかり、とふざけて拗ねてみせたことがある。
あの時、は事も無げに「敬う気持ちを素直に表しただけ」と答えた。
それに照れ臭そうな顔をするリーバーの表情がまた新鮮で、微笑ましいと思っていたのに。
の声で「リーバー班長」と聞くのは違和感がある。
誰もが使う呼び名なのに、彼が言うとやけに他人行儀に聞こえるし、不自然だった。
「『心配』、しちゃったの?」
複雑な表情で顔を上げたリーバーが、首を傾げた。
「……あれは、アイツの言うことを信じろって方が無理だと思うんですよ」
「まあね。ボクもその場にいたら叱り飛ばしただろうと思うよ」
「室長でも、そうですか?」
室長ならもっと上手い対応ができると思った、と言うので、コムイは眉を下げる。
「ボクでも、だよ。上手い対応なんてさ、考えてる余裕なかったんでしょう?」
「オレも冷静じゃなかったというか……仮病になんて、見えなかったんですよ」
「なら、きっとボクも見破れないさ」
励ますつもりで微笑みかければ、リーバーが小さな声でぽつりと呟いた。
「……あれは、怖かった」
コムイはコーヒーのカップを手に取った。
「なにも間違ってなんかいないよ、リーバーくん」
もう底が見える程度しか中身の入っていないカップを傾けて、苦い雫が降りてくるのを待つ。
その沈黙の間に、リーバーが顔を上げた。
コムイは中身を啜り切って、自然な音を立てカップを置く。
「誰かが心配し続けてあげないと。そうでなきゃ彼の思い込みが正しいって認めるようなものだ」
神妙な顔で頷いた頼れる部下の肩を軽く叩いて、コムイは努めて明るい声を出した。
「は暫く本部に留め置くからさ。また顔を見に行ってあげて」
頷きかけたリーバーが、僅かに目を丸くした。
体から余計な力が一気に抜けて、いつもの科学班班長の顔をしている。
その唐突さに「キミも根っからのワーカホリックだなぁ」とコムイは内心で苦笑した。
「……留め置く、って言うと、エクソシストをいくつかに分けて派遣する計画はどうなりますか?」
「それは実行するよ。元帥を中心にして、各地に向かってもらうことにした」
「だから今、エクソシストが本部に集まってるんですね?」
そういうこと、と頷く。
「アレンくんには悪いけれど、彼にもすぐ出てもらうことになる」
「とアレンは臨界者ですし、寧ろそれぞれ一隊組めますよね。留め置いてる余裕なんて……」
「確かに、これっぽっちも余裕はないねぇ」
「任務のこと知ったら詰め寄ってきそうですよ。あーあー、ヘソ曲げるだろうなぁ」
コムイは肩を竦める。
想定問答集を作るとしたら、そのやり取りは冒頭に書かれるべきだ。
「けどほら、文句を言うならせめて、部屋を抜け出せるくらいまでは回復してもらわないと」
「それもそうか。……婦長に追いかけられるくらいじゃないと」
「そうそう。――彼は、本部の守りに留め置く。援軍の要請が来てから、動いてもらうことにするよ」
黒の教団は一世紀にわたり聖戦を続けているけれど、戦力はいつだって足りないままだ。
そしてその戦力が「人」である以上替えはきかないし、一方で「人」としての権利を尊重することも忘れてはならない。
コムイは、リナリーだけでなく、全てのエクソシストに対してその態度を貫きたいと思っている。
ルベリエやヘブラスカの様子を見ていれば分かるが、教団の歴史の中で、自分のような室長は稀だ。
稀有だとしても、共感してくれる者がいないわけではない。
リーバーが長い長い溜息をついた。
と思ったら、無造作に両手を上げ、自らの頬をバチンと勢いよく引っ叩く。
それから、の「兄貴」は力を取り戻した頼もしい瞳でからりと笑った。
「了解です。……よし、室長、真面目に仕事してくださいね。オレ、明日も明後日も見舞いに行きたいんで」
「ボクはいつでも真面目だよーん……ウソウソウソ、その顔やめて、怖いから!」
彼はきっともう、伝えることに怯んだりしないだろう。
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201114