燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
望んだ結果でなくっても
わたしが其処にいなくても
あなたが、幸せならば
わたしの願いは
もう、叶っている
Night.120 三十年目の夜
倒れた燭台。
壊れた木製の椅子の欠片。
壁や手摺りに掛けられた豪奢な布。
聖堂の中は燃えるものが案外多く、火を消すのはなかなか難しかった。
特に、町の住人達は消火活動が二の次になっている。
彼らは中に入ると真っ先にリーセロットの安否を確認して立ち止まる。
リーセロットの棺が無事だと分かると、次に、誰があの棺を火の手から守るかで紛糾した。
最奥で燃えようとする十字架さえ後回しなので、リーバーは流石に呆れる。
裏の墓にある井戸から水を汲む手間も掛かるというのに。
いよいよ痺れを切らしかけたとき、揉める住人達の背後に立った小柄な白服が、彼らに桶の中の水をぶちまけた。
リーバーとリンクは思わず顔を引き攣らせたが、当のエゴールは、絶句する人々へ冷たい声で言い放つ。
「水でも被って頭を冷やしてはいかがですか」
隣で桶を持つヘルメスも青ざめている。
エゴールは悪びれもせずもう片方の手に持っていた桶を持ち上げた。
自分も頭から水を被り、後輩が持つ桶の一つを取り上げてずんずんと炎の中に進んでいく。
「先輩!」
「行くぞ、仕事だ。リーセロットも、修道院も、この町も、可能な限り守らなければ」
「はっ、はい!」
生真面目な探索部隊員の後を追って、リーバー達も急いで中に入った。
頭から被った井戸水も、聖堂の中に入れば直ぐにその冷たさを忘れてしまう。
驚くべきことだが、住人達が心配するまでもなく、例の棺の周囲だけ火の手が及んでいない。
「こりゃ、ほんとに奇跡かもしれないな」
口を覆った布の中で呟く。
リンクがこちらを向いたので、何でもない、と首を振って返した。
手に持った桶の水は、すぐに無くなってしまう。
裏に戻ろうと踵を返すと、聖堂の入口にはハウゼンがいた。
「先生、お嬢さんは!?」
「ロッテは井戸のところに。今、避難してきた人達が奥から水を持ってきてくれています」
外を覗くと、確かに、医務室に避難していた人々が井戸から列を作って桶を運んでいるのが見えた。
リーバーに気付いた避難民の中の男性が拳を上げて「任せろ」という仕草をした。
「空いた桶は、こちらへ。それと、怪我人が出たら私が対応します」
「助かります!」
エゴールとヘルメスもハウゼンに気付いたようで、駆け足で出口へ戻ってきた。
それを横目で見送り、リーバーは新しい桶を手に中へ戻る。
何度か水を持って往復していると、その頃には住民達もようやく消火活動に身を入れ始めた。
中には、リーバー達が知っている人々もいる。
二十九番通りの宿屋の主人とハンチング帽の友人、それに昨晩の犠牲者の夫と葬儀の参列者達。
住人達の中では、彼らが真っ先に動き出した。
「それにしたって、この火は何だ!? 聖堂もぶっ壊れてるし……神父様はどこ行ったんだ?」
宿屋の主人が、喧騒の中で怒鳴る。茶飲み友達が肩を竦めた。
「さあな! 修道士さん達もいないぞ、……おっ。そこの、教団の! 黒くない兄ちゃん!」
彼らはリーバーに目を留めて、空になった桶を手に駆けてくる。
「こりゃどうなってるんだ、ブラムはあんな所にいるし……あんた達の仲間はどうした?」
「吸血鬼退治の余波が……。そうだ、ハウゼン先生は無実だったんです。吸血鬼の正体は、別の人で」
「へえっ!?」
二人は声を裏返して、顔を見合わせた。
リーバーは近場に水を掛け、二人を連れて引き返す。
「別の人って、だ、誰だよ?」
「ブラムじゃないとしてもだ、……吸血鬼は降って湧いたモンスターってわけじゃない、のか……?」
リーバーは頷いた。
「ええ。吸血鬼は、この町の人でした」
誰だよ……宿屋の主人が力なく呟く。
茶飲み友達が、そっと背後を振り返った。
「アイツらには聞かせらんねぇな」
振り返った先には犠牲者の遺族達がいて、それぞれが桶を持って行き来している。
「なあ、その、住人に化けてた吸血鬼は、今どこで何してんだ」
宿の主人が正義感を目に浮べるが、リーバーは躊躇して、結果的に頭を振った。
言えない。
この修道院が、アクマの巣窟だったなんて。
「仲間があそこで退治しています。……オレ達は、早く火を消しましょう」
「怪我人はこちらへ! 皆さん、煙は吸わないで!」
ハウゼンが扉の傍で叫ぶ。
彼の足元には既に三人、火傷や切り傷で処置を受けている人がいた。
リーバーは桶を交換して、また中へ向かおうとする。
リンクが空の桶を持って出口へやってきた。
「私はしばらく外にいます。それと、ポーラさんが見当たらないので、ついでに探してきます」
「そういえば」
確かに、探索部隊員達に避難させられたポーラは、外で桶を運ぶ集団にも加わっていないようだ。
まだ医務室でフランカを抱いているのだろうか。
アクマの逃げ道は達が塞いでいるとはいえ、気にかかる。
「じゃあ、そっちは頼む」
リンクが頷く。
リーバーは消火作業に戻るため、一歩踏み出した。
背後から軽い足音が聞こえる。
「みーぃつっけたー!」
「うわっ!?」
リーバーの脇をすり抜けていったのは、ロッテだ。
「あっ、ロッテ! お前はまたそうやって!」
ハウゼンが怒鳴るのもお構い無しで、ロッテは聖堂にするりと駆け込んだ。
幸いにも、大勢の人手があったからか、大きな炎は粗方消されている。
けれど、だからこそ、少女が小さな火に気付かない可能性もある。
「危ないぞ! こっちにおいで!」
「やだーっ! ひゃっほー! !」
リーバーは片手の桶を置いて、彼女を追いかけた。
目線を上げて、ようやくロッテが此処に来た理由を知る。
漆黒の盾を階段のように使って、上空から、がアレンを支えながら降りてきた。
気付けば、頭上の大きな四角い箱は消えている。
穏やかに笑いながら降りてきた彼は、そこでロッテに気付いたようだった。
ロッテも、の目が自分に向いたことを察知してぴょこぴょこ飛び跳ねた。
「ね、ね、! あのね、ロッテね、ロッテ、いいこだった? いいこだったでしょ?」
が眉を下げる。
「うん、とってもいい子だった」
「ほんとに!?」
「本当だよ。ロッテが一緒にいてくれて助かったんだ。どう、怪我はない?」
「うんっ! ほら、みて!」
彼女が両腕をばっと広げてみせる。
兄弟子に肩を借りているアレンが、吹き出して笑った。
「さっき言ってたハウゼン先生のお子さんですか?」
「ああ。この子が禁域までの地下の道を全部知ってたから、泉まで行けたんだよ」
「へぇ、大活躍じゃないですか! 兄さんを案内してくれてありがとね、ロッテ」
「ぴゃっ?」
ロッテがピタリと固まる。
「なんでロッテのおなまえ、しってるの!?」
あはは!
兄弟弟子が揃って笑う。
なんでなんでなんで? とまとわりつくロッテを捕獲しようと、ハウゼンが彼らの元へ駆け寄った。
リーバーは燻る木片に水をかけて、念の為に足で踏み砕いて火を消し、歩み寄る。
「こら、ロッテ! 危ないから外にいなさい!」
ハウゼンがロッテの脇の下を掴もうとする。
ロッテはそれよりも素早くの後ろに隠れてその脚にしがみついた。
「やだもーん! ロッテ、とあそぶもん」
「後にしなさい!」
「やーだーぁー!」
まあまあ、と二人を宥めるが、憤るハウゼンに弟弟子を押し付ける。
「へっ? 兄さん?」
「先生、弟の肩、診てもらっていいですか。血が止まらなくて」
ハウゼンはアレンを受け止めて、その左肩を目にすると顔を顰めた。
「これはひどい。此処ではまだ火が燻っていますから、扉のところまで……歩けるかい?」
「は、はい、すみません」
「くん、きみも……」
医師が伸ばした手は、に届かない。
リーバーが遅れて伸ばした手も躱して、彼は微笑む。
「まだやることがあるから。ロッテも来る?」
「ロッテもくるー!」
「うん、おいで」
は、低いところにある赤毛をそっと撫でた。
それから凛とした表情で、すいと顔を上げた。
――空気が、呼んでる。
空気に、呼ばれたので。
リーバーは顔を上げる。
視線は金色に捕らわれる。
彼の漆黒が聖堂をゆっくりと一周する。
日は暮れかけ、残り火はたまに爆ぜて、空からの月明かりが濃淡を示している。
彼の着ている団服の基本色は黒なのに、どうしてか、下りてきた夜の闇の中で彼の姿はよく見えた。
黄金が、それ自体が、彼自身が「見える」。
彼の光の粒子に、割れ残ったステンドグラスと無傷の硝子の棺が淡く照らされる。
――空気が、呼んでる。
静まった聖堂の中で、誰もが、彼を見ていた。
柔らかで伸びやかな声が、告げた。
「もう、この町に吸血鬼はいません」
え、と誰かが呟いた。
彼が、それに微笑みを返した。
「街灯を新調しても、大丈夫ですよ」
空気は言葉よりも雄弁に訴えかける。
其処には嘆きがあった。
悲しみがあった。
怒りがあった。
憐れみがあり、痛みと、悼みと、慈しみがあった。
――空気が、呼んでる。
空気が呼吸をするように、膨らんでは萎み、そしてまた膨らんだ。
そうするたびに静寂が心の奥へ染み入って、意識を優しくまろやかに馴らしていく。
焦りが溶ける。
不安が解ける。
自分の感情の境界線が曖昧になる。
彼の空気が、心を鎮める。
「(――あ、)」
ふと、その漆黒と視線がかち合って、リーバーは我に返った。
見回すと、不思議な光景が広がっていた。
誰もが一様に金色を見つめて、動きを止めてしまっている。
が、リーバーに笑いかけた。
困ったような笑顔だ。
見つかっちゃった、とでもいうような。
ロッテが彼を見上げる。
それを契機に、或いは「もう十分」と思ったのだろうか。
がそっと息を吐いた。
刹那、空気が一気にざわめいた。
――怪我人は?
――ブラムが診てくれるらしい。
――ハウゼンが吸血鬼じゃないのか?
――こんな時に、神父様はどこへ?
――やっと吸血鬼が、いなくなった……
――砂になったのか?
――出来ることなら、俺が殺したかったのに!
――でも、これでもう誰も悲しまない
――これまでの犠牲者のために、皆で祈りを捧げるのはどうだろう
――修道士様達は、いったいどこに行ったんだ?
一度鎮められた混乱が、動揺が、徐々に盛り返していく。
けれど、爆発するほどの緊張感はなかった。
彼が、膝をついたからだ。
リーバーからほんの数歩離れたリーセロットの棺の横で、彼が膝をついて、手を組み、深く頭を垂れたからだ。
たったそれだけで、壊れた聖堂の煤けた床は、供物を載せた祭壇へと生まれ変わる。
彼から滲み出る、溢れ出す、祈りが、落ちて、満ちる。
傍らに立つロッテは、きょろりと周りを見てからと一緒に目を瞑った。
決して押し付けがましい祈りではなかった。
だからか、人々の声は止まない。
止まぬままで、けれど決定的に壊れてしまう前に、彼の祈りがそれを塞き止める。
誰かが、叫んだ。
「誰が、俺の妻を、殺したんだ……!?」
それはこの町の住民達、全員の声だったかもしれない。
「……誰もが、被害者だったんです」
エゴールが、硬い声で言った。
ハウゼンが振り返り、彼に支えられ出口の方へ歩くアレンも同じように振り返った。
聖堂の片隅で、生真面目な探索部隊員が言った。
「誰かを殺したいと思って吸血鬼になった人は、いない筈です。……そうなのでしょう、ウォーカー」
アレンがぽかんと口を開けて、それから大きく頷いた。
「はい」
しっかりした声だ。
アレンが聖堂を見渡す。
「誰もが被害者だったし、ここにいる誰もが、これから吸血鬼になる可能性があります」
人々がざわめいても、アレンの声は揺らがない。
「貴方達にも、貴方達の大事な人にも、誰も殺して欲しくない。だから今、本当のことを伝えているんです」
「ハウゼン町長はご不在でしたよね。東西南北の町内会長さんはいらっしゃいますか? 宿屋の組合長さんは?」
エゴールが呼びかけると、数人の男女がそれに応じて手を挙げた。
小柄な探索部隊員は、きびきびと歩き出す。
「事情をご説明しますので、外へお願いします。あなた方から皆さんに伝えて差しあげてください」
「先輩!」
呼び止めたのはヘルメスだ。
「オレは、町の人達と消火を続けます!」
振り返ったエゴールが頬を緩ませる。
「頼む」
「?」
ぽつり、幼子の声がした。
リーバーは振り返る。
ロッテが立ち尽くしている。
その足元で床に伏す黄金色を、目にする前に数歩を駆けた。
「」
膝をつき、彼の口元に手を翳す。
呼吸は速くて、吐息が殆ど分からない。
頭は打っていないだろうか。
頬に手を当てると、どろりとした漆黒が此方を見上げる。
諦念から、俄に恐怖が浮かび上がる。
リーバーは昼間よりも遥かに冷静な自分に気付いた。
きっとこうなると、予感があったからか。
それとも、自分が怒っているからか。
いいや、きっとどちらでもない。
「、」
血の気のない頬はひやりとして、微かに湿っている。
「お前が嫌がったって、何度だってオレは、心配してやる」
の視線が、ぶれる。
アレンの声が聞こえる。
ハウゼンの足音も聞こえる。
どうして、と問う彼の声は音になっていなかったけれど、それでもリーバーにはきちんと聞こえた。
「──兄貴だからだ」
もう片方の手で、団服のチェーンを外す。
きちんと着込まれた襟元を弛めてやる。
そうしていると、わだかまりなんかどこかへ行ってしまった。
「お前はオレを突き放してもいい。でも、オレはそうしない。……呼べって言ったのは、オレなんだから」
だから、お前が気負う必要は無いんだ。
がリーバーの膝に手を伸ばした。
押し返そうとしたのか、触れようとしたのか、それはリーバーには分からなかった。
BACK NEXT MAIN
200808