燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









暗い、暗い部屋
泣き腫らした顔で訊ねるの
鏡よ、鏡
どうして私は
幸せを幸せと思えなくなったのだろう



Night.119 たとえもう、見えなくても









――アレンは、数日前に教団へ帰ってしまった兄弟子の姿を頭に思い浮かべた。
こんなに早く別れが来るならば、もっと色々なことを教えてもらえばよかった。
確か、そう、何気なくスキップをするような気軽な仕草で、軽く肩あたりの壁を蹴飛ばすのだ。
そもそも、それが難しい。
何気なくスキップだって?
どう考えても肩の高さまでなんて跳べないし、それを助走なしの一歩目で行うのは無理だ。

「よっ! ほっ! うわ、痛っ」

アレンはまたも失敗して、壁に躓くという珍妙な行為の末に地面に崩れ落ちた。
痛い。
次に転ぶ時は、鼻だけはせめて庇うようにしよう。
出血の有無を涙目で確認していると、表通りからクロスが此方を覗いていた。

「お前にそんな趣味があったとは知らなかったな」
「す、好きで這いつくばってるんじゃないです……」

立ち上がると、じろりと睨まれた。
アレンは膝と胸の土埃を払う。
クロスが乱暴にアレンの顔を拭った。

「ぶべべっ。ありがとうございます」
「で? こんな所で稼ぐつもりか」
「それならそれで師匠の借金完済に一歩近づきます」
「言うようになったな」

指で弾かれた額を擦り、アレンは唇を尖らせた。

「兄さんみたいに、やってみたくて」

クロスが振り返る。

?」
「だって、兄さんが壁蹴って屋根に上がるの、凄くかっこよかったから……」

怪訝そうなその顔をきっと睨んだ。

「僕にも、ああいう戦い方、教えてくださいっ」
「無理だな」
「えっ」

答えが早すぎる。
自分には才能がないのだろうか。
いや、それにしても答えが早すぎる。
真面目にとりあってもらえていないような。
目と口をあんぐり開けて固まってしまったアレンを、珍しく困った表情のクロスが見下ろした。
視線を泳がせ、ポリポリと頬を掻いて、ふーっと煙草の煙を吐き出して。

「オレはあんな戦い方、教えてないからな」

呆然とするアレンに、師は重ねて言う。

「アイツには、戦い方なんつーもんは碌に教えてねェんだよ」
「……うっ、そ、ですよね?」
「残念ながら本当だ、馬鹿弟子」

クロスは、着いてこいと言い残して表通りへ戻ってしまった。
はぐれるわけにはいかないので、アレンは慌てて後を追う。

「(そんなの、絶っっ対、ウソだ)」

サーカスにいても通用しそうな軽やかな身のこなしは、相当な修練を積まなければ習得できない。
だからかつてサーカスの団員は、公演以外の時間に必死で練習をしていたのだ。
しかし、言われてみれば、確かにの戦い方とクロスの戦い方は異なっていた。
同じ種類の対アクマ武器を使っているにも関わらず、だ。
体格の違いもある。
が得意としているのは、身軽さに自信のあるアレンでさえ難儀する動き方だ。
それをクロスが教え込めるとはとても思えない。

「たしかに……師匠が同じことしたらお尻から地面に落っこちちゃいますよね……」
「お師匠さまをナメてんのか。そんな無様な真似はしねェよ」

――そう言って、あの日のクロスはアレンの額を叩いたのだ。
額の痛みを思い出しながら、アレンはに正対する壁へと走る。

「リーセロットが、可哀想だろ」

横目で見た兄弟子の微笑みは一見優しげだけれど、纏う空気があまりにも不敵だ。
普段はクロスとは似ても似つかないくせに。
そんな強気な表情をする時、モデルはきっと師匠なのだろう、とアレンには分かってしまう。
アレンは、のそういう表情が嫌いではない。

「(……蹴られたように見えたけど、やっぱ避けてたな)」

兄弟子の戦い方でアレンが最も注目するのは、致命傷を避ける体の動きだ。
体幹に優れ、体勢を崩すことも少なければ、崩れた体勢を立て直すのも早い。
だからか、はとにかく怪我が少ないのだ。
アレンの修行に付き合ってくれたあの一年で、が怪我をして流血した姿を見たことがない。
入団時にコムイにそう言ったことを思い出す。

「兄さん、僕が!」

叫びながらよろめき後退るアクマの背中へ、アレンは斬りかかる。
アクマは振り返りもせずに回転させた腕を背後のアレンへと向けた。
途切れのない発砲。
アレンは退魔ノ剣を盾にして避ける。
が軽く壁を蹴り、宙に躍り出る。
福音の弾丸に応じるのはレベル4の口から生えた銃だ。
がくるりと身を翻して、アクマの血の弾丸を避けた。
その動きは先程アレンの目の前でレベル4がしてみせたものによく似ていた。

「(兄さんには、羽なんか、生えてないのに)」

アレンは軽く腰を落とす。
脳裏に黒髪の剣士を思い浮かべる。
刀やら剣やらの戦闘において、頼りになるのは彼の動きだ。
踏み込む時の神田は普段より少し目線が低くなる。
腰が引けていては、剣を上手く扱えない。
先日、神田と向かい合ってアクマを倒したあの時を思い返し、アレンは真っ直ぐ剣を突き出した。
手応えがある。
レベル4の左腕を捕らえた。
そのまま真横に剣を振り抜く。
アクマの悲鳴が脳を揺らす。
頭が痛い。

「目を開けろ!」

の声が、アレンの瞼をビクリと震わせた。
目を見開くと、そこにレベル4がいた。
左足をぶら下げたままの状態で、内部の歯車をいくつも零し、血走った目を剥いて。
アレンの顔面に、口の中の銃が向けられている。
咄嗟にしゃがんだ。
重たい銃声が鼓膜を震わせる。
盾にした剣の振動を必死に抑える。
レベル4の右腕が凍りついて砕けたのは、きっと福音の銃弾だ。
アレンは傾いたアクマの左足を狙う。
ぶら下がる左足を剣で捻り切ると、レベル4はまたも上空に逃げた。
が向かいで舌打ちをする。
彼の福音は、アレンの退魔ノ剣とは異なり、アクマ以外の物も破壊してしまう。
恐らく今はアレンとアクマの距離が近すぎて羽を狙えなかったのだろう。
敵の狙いを分散させるために常に向かい合うような位置取りをしたためだ。
上空のレベル4は、もはや言葉ではない奇声を発しながら口を大きく開けた。
人間なら目を回してしまう程、縦横無尽に回転しているから、きっと福音では狙いを付けきれないだろう。

「(――兄さん?)」

だからか、が動かない。
否、壁に背をつけたまま、右手に銃を提げて上空のレベル4を見上げている。
避けてもいない。
この巨大な箱を作り出したから、聖典で盾を作る余力が無いのだろうか。
一瞬そうして思案するうちに、降り注ぐ弾丸の向こうでがアレンを見据えた。
左手でアクマを指差して、彼は真っ直ぐアレンの足元に銃口を向ける。

「兄さんっ」

言い終わる前に、床が凍りつく。
氷の山が目の前に築かれる。
これは、アレンのための足場だ。
察した瞬間に足をかけた。
凍結弾の氷は直ぐに砕ける。
駆け上がり、レベル4に肉薄する。
もう個人が判別できないアクマの魂が、泣いている。

「(分かるよ)」

ただ、傍にいたかった。
それだけだ。
フランカは、妹の傍に。
マルテン神父は、フランカにもう一度会いたかっただけ。
たったそれだけのシンプルな願いが、この町を三十年も悪夢に浸らせた。

「(分かるよっ……)」

きっと、兄さんも分かるんだ。
アレンは納得する。
アクマは、みんな、なんら不思議でない願いから生まれるのだと。
兄さんは知っている。
アレンも知っている。
だからそのこと自体を責めたりしない。
分かるから、決して責めたりしない。
だけど。

「(生かしておく訳には、いかない)」

氷の足場を駆け上がったアレンの刃は、斜め上から敵を貫いた。
ずるり、と抜け落ちたボディはもう動かない。
見開いて涙を零したあの表情が、焼き付く。
でも、もう、どうか安らかに眠って欲しい。

「……哀れなアクマに、魂の、ぉっ!?」

呟いていると、足場が急に崩れた。
咄嗟に剣を床へ突き立てようとして、寸でのところで思いとどまる。
上手く着地することが出来ずに傾いた体が、脇から伸びてきた手に抱えられ、支えられた。

「あ、ありがとうございます」
「お疲れ、アレン。よくやった」

微笑むの手に導かれ、流れるように座らされる。

「もうアクマはいないと思います」
「ああ、俺もそう思う。発動も解いていいだろう」

アレンの前に膝を着いた兄弟子が、腰のポーチからタオルを取り出した。
言われるままに神ノ道化の発動を解くと、が身を乗り出してアレンの左肩に強くタオルを押し当てる。

「痛っ!」
「自分で押さえられるか?」
「は、はい……すみません」

そういえば、撃たれていたのだ。
戦闘中は気にも留めなかったのに、今は痛みで左肩にばかり注意が向いてしまう。
出血も多い。

「……なあ、アレン」

兄弟子の声に顔を上げる。

「フランカは、救われたかな」

漆黒は真摯な光を灯して、正面からアレンを見ていた。
レベル4にまで進んでしまえば、アレンには混ざり合う魂一人一人の判別が出来ないけれど。
それでも、彼女がもう誰も殺さなくていいのは確かだ。
だから、アレンははっきり頷いた。

「ええ」









――誰か、聖堂の火を消して――

無線からの声が途中で途切れたように聞こえて、リーバーは即座に駆け出した。

「班長、待ってください!」

医務室でリンクが叫んでいる。
がむしゃらに医務室から飛び出して、途端に聞き覚えのある甲高い悲鳴に脳と耳を貫かれた。
地面には影が落ちている。
見上げれば、半透明の黒い膜がむくむくと形を変えて、大きな立方体を作り上げたところだった。
漆黒の壁越しに、アレンが赤子のような姿のレベル4へ肉薄する様子が見える。
が壁を背にしているのも確認できた。

「(何だ、これ……)」

が福音を使うところは稀に見るが、本部で聖典を目にする機会はまずない。
こんな使い方があったのか、と思わず立ち止まるリーバーの耳に、背後からの足音が聞こえる。
そんな微かな音が聞こえるということは、あのレベル4の悲鳴はほぼ遮断されているということだ。

「自分達ごとレベル4を閉じ込めたのでしょう。さあ、我々は消火を」
「あ、ああ」

呆れ顔のリンクに背を押されて、リーバーは再び駆け出す。
走りながら、宙を振り仰ぐ。
二人はあの中で戦うつもりなのか。
確かにリーバー達のいる医務室を守り、町に被害を出さないためには妙案かもしれない。
しかしアレンはまだしも、の武器は近接戦闘向きではない。
逸れた銃弾は、あの狭い箱の中では向かいの壁に当たって止まるだろう。
二人がアクマの攻撃を避ければ、彼らが背にした壁にそのまま直撃するだろう。

「あの、馬鹿っ……」

歯痒さを隠さず吐き捨てる。
独り言のつもりだったが、リンクが素っ気なく応じた。

「その馬鹿については私にも考えがあります」
「えっ」

相槌が返ってくることも、そんな答えも想定外で、リーバーは驚きに目を見開いた。

「ですから、今は走って!」

けれど、リンクの方はこれ以上の問答は無用とばかりにリーバーを急かす。
リーバーは上空から目を離し、彼の背を追いかけた。
回廊の向こう側、修道院の入口に町の住人達が集まっている。

「何だ、あの箱は!?」
「聖堂が崩れてる……!」
「リーセロットは無事か!?」
「神父様! 修道士さま!」
「火だ! 火事だ!!」

リンクが走りながら、皆さん! と呼び掛けた。

「あれは、教団の」
「お前達がやったのか!」
「おいやめろ、突っかかってる場合じゃねぇ!」

そうざわめいたのは昼間、町の出入口で揉めた現場にいた人達だろうか。
気色ばむ若者を、年配の人々が押しとどめた。
駆け寄って注目を集めた中央庁の監査官は、人々のやり取りを一切意に介さず、声を張る。

「水はどこですか!? 井戸は!?」

そうだ。
今はまず、聖堂の火事をなんとか小火に留めなければ。
それにもしも、中にエクソシスト達が見逃した生存者がいるなら、助けなければ。
リーバーも上着を脱いで、袖を捲った。

「皆さん、今はとにかく消火を手伝ってください! ……リーセロットを、燃やしたくなければ!」









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200711