燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
予定調和を織り込んで
誰かの願いに染め上げたドレスを
身に纏った姫君は
約束された幸せを夢に見て
硬い硬い硝子を履いたのだ
Night.118 空の箱と憐憫の包装紙
「しね!!」
上空からはアクマの罵声が、聖堂の方からは劈くような悲鳴と爆音が響いた。
降り注ぐ弾丸を避けて聖堂へ走りながら、は頭上に水平な帳を張る。
大きく、出来うる限り大きく。
なるべくならこの修道院全体を覆ってしまうほど、大きく。
自分が帳を踏みつけた時のような衝撃が体に返ってくる。
これで恐らく、上空で戦うアレンの足場くらいにはなっただろう。
それくらいは出来なければ、此処にいる意味が無い。
は、駆ける。
駆ける。
駆ける。
「(……それくらいは、やらなきゃ)」
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――
「(ごめんね、)」
罪を贖うことが、疎かになっていた。
何故、自分の痛みごときで膝をついたのか。
ふざけるなよ。
何故そんな余計なことを考えていられるんだ、このタイミングで。
そうして気を弛めたから、痛みに飲まれたのだ。
その間に何人が、聖堂で為す術なく亡くなったのだろう。
たとえば呼吸が出来ないとして、それが何だというのだ。
たとえば胸を穿たれたような痛みがあったとして、だから何だというのだ。
自分が我が身可愛さで立ち止まった一瞬があって。
それは、その時死んだ人の命より優先すべきことだったのか。
なあ冗談だろう、分かっているだろう。
そんな当たり前のこと、誰に言われずとも。
「(分かり切ってる)」
は割れた窓から、聖堂の中に飛び込んだ。
昨日は整然と並べられていた木製の長椅子が、それこそ木っ端微塵に吹き飛ばされている。
視界に霧のように巻き上がる砂は、いったい何人分の肉体だったものだろうか。
倒れた燭台の火が、あちらこちらで燻っている。
見上げれば、割れたステンドグラスが橙色の夕陽を受けて輝いていて。
その光に照らされ、硝子の棺がただ一つ無傷で佇んでいた。
「うう、……うう……」
見回さなくても、聞かなくても、生存者の人数は窺えた。
六人。
そのうち五人の気配は、あの棺の周辺にある。
「聖典、――磔」
の視線に合わせて、漆黒の釘が舞う。
上空に飛び立とうとしていたアクマを、或いはを視界に入れたアクマを、一息に刺し貫く。
それで破壊できたのは十二体のレベル1だけだ。
リンクもよくここから無事に逃げてきたものだと思う。
は一人離れた場所にいる生存者の女性の元に屈んだ。
「よく生きててくれた」
埃まみれでこちらを見上げた額から、血が流れている。
ステンドグラスの破片が、右の瞼に刺さっている。
涙に濡れた左目を大きく見開いて、巻き毛の女性は恐怖に震えながら叫ぶ。
「あ、あああっ!」
彼女が指差したのはの背後で、けれどは心配するなと軽く微笑んでみせた。
振り返り、標的を見定めて引鉄を引く。
レベル2のアクマが二体凍りつき、一拍置いて粉々に砕け散った。
そのまま立ち上がる。
残りは、四体。
全てを視界に収めて、息を止める。
血の釘が列を成す。
視線を右へ払うと、釘はアクマ達へ横薙ぎに襲い掛かる。
「……主よ、彼らに赦しを」
小声で唱えた。
修道士達は、マルテン神父の導きで千年伯爵を呼んでしまったのだろうか。
神父もなかなかに手のかかることをしたものだ。
全員殺してしまうことも出来たろうに、その手段を選ばなかった。
進化への欲求よりも余程リーセロットを守りたかったとみえる。
は振り返り、生存者の女性へ手を伸ばした。
「どうぞ、掴まって」
彼女はわなわなと唇を震わせ、の手を掴む。
立ち上がり、そこで気力が途切れてしまったらしく、彼女はふらりと倒れ込んだ。
は女性を抱き上げて、声を張った。
「もう大丈夫だ! さあみんな、顔を上げて。此処から逃げよう!」
割れた椅子の背凭れを被って身を隠していた女性も、柱の影で額を床につけ蹲っていた男性も。
硝子の棺に張り付いていた子供も、腕と脚を血塗れにした夫婦も。
棺のそばの五人全員が、震えながらを見る。
涙を零し、誰かの名前を口々に呟いて。
「(嗚呼、)」
この人達だけでも、生きていてくれて良かった。
彼らだけでも、神様が見逃してくれて良かった。
――彼らの大切な人が死んだのは、のせいだ。
あの一瞬のせいなのだ。
それでも、だからこそ、は微笑んだ。
「生きていてくれて、ありがとう」
あなた達の生を、赦すよ。
言葉を空気に浸しきる前に、耳許でザザ、と音がした。
『到着しました! アクマはいません。結界装置、展開できます!』
ヘルメスだ。
「ありがとう。道を引き返してくれ」
ふ、と息を吐いて、ポーラの周囲に張った帳を解除する。
は膝をつき、抱えていた女性を下ろして棺の真下に手を差し入れた。
床の一部分に窪みがある。
そこに指を掛けて引くと、医務室と同じように床板がスライドした。
生存者達を振り仰ぐ。
「この階段を下りると、白服の二人組がいる。彼等と一緒に医務室へ逃げるんだ」
「もう、あのこわいの、こない?」
椅子を被っていた女性が、ロッテと同じ年頃の男の子を抱き上げた。
は微笑んで頷いた。
「来ないよ。俺達がやっつけるからね」
「ママね、あのね、おすなになったの」
どこいっちゃったの?
仰ぎ見られた女性が、潤んだ瞳で首を振る。
夫婦が先に階下に下り、続いて柱に隠れていた男性が気絶した女性を抱えていった。
最後にその子と女性が通り過ぎるとき、はつい、少年の頭に手を伸ばした。
「……ごめんな」
急いで、と女性を急かす。
は無線でヘルメスへ呼びかけた。
「上から六人下ろした。それと、誰か、聖堂の火を消して……」
言葉と共に床板を閉じ、無線を切る。
せり上がる痛み、込み上げる血の臭い。
力任せに、否、力なんてどこにも入らない。
突き上げられるように咳き込んで、顔を上げる。
「……っ、アレン」
たった一人の弟なんだ。
後にも先にも、たった一人の弟なんだ。
――お兄ちゃん――
「(分かってる)」
――お兄ちゃん――
「(うん)」
――お兄ちゃん――
「(分かってるよ)」
棺に縋って立ち上がる。
宙を漂う血液が、に先んじて上空へと舞い上がった。
前触れは無かった。
唐突に出現したその「床」に触れたアレンは、即座に体を捻った。
跳ねるように体勢を整えて床を蹴る。
一瞬前まで自分がいた場所に、無数の弾丸が降り注ぐ。
笑顔のレベル4の背後へ跳び、横面から殴りつけるように剣を振るう。
レベル4はそう簡単には斬らせてはくれず、吹き飛ばされてもくれない。
がっちりと歯で刃を噛み締められた時には思わず呻いた。
「(こないだもこんなことあったな!)」
「なにこれ、きみのちからですか」
言わんとすることは分かった。
アレンは向けられた銃口を避けながら、ちらと足元を見下ろす。
見覚えがある、半透明の漆黒の「床」。
アレンではない、だ。
彼の聖典がアレンを支え、下界を守っている。
改めて見渡せば、修道院の敷地より一回り小さいくらいの足場が空中に形成されているのが分かった。
「(こんなに大きく……)」
血の量と強度に関係はないと以前聞いた。
しかしこんなに大規模な帳を生み出せるほど、彼は出血していたのだろうか。
すれ違った一瞬では、互いの怪我の状況までは判らなかった。
「ま、いっか。きみをころせばきえるでしょ」
足場があっても、状況確認のためにと通信を再開させる余裕はない。
呟いたと思ったら瞬きの間にギュンと距離を詰めてきたレベル4が、指でアレンの額を弾こうとする。
咄嗟に仰け反った。
その速さに肝が冷える。
あの指から生まれる空気の弾丸で、アレンは以前に肋をやられた経験がある。
一挙手一投足の破壊力が段違いなのだ。
まともに食らったら立ち上がれないかもしれない。
「(まだ、一太刀も浴びせてない)」
教団でレベル4と戦った時はリナリーと、先日のパリでは神田やマリと。
レベル4は、一人ではとても相手に出来ない。
でも。
「……それじゃダメだって、決めたじゃないか!」
自分を鼓舞するために、跳ね起きながら口にした。
レベル4は笑う。
腕に新たな銃弾を補充して、構えて。
「むだなゆうきだね。このまちは、わたしとあのこのまちなのだから、」
高らかに叫ぶ。
「そのけついごと、みんなみんなみんな、きえてしまえばいい!」
その言葉にハッとした。
アレンはアクマの凶暴な腕を斬り落とすように懐に飛び込む。
レベル4には行動を予見できる程度のスピードだったはずだ。
撃たれるかもしれない、それでもアレンは構わず囁いた。
「キミは、本当に妹が大事なの?」
アクマが片眉を跳ね上げる。
「僕にはそうは見えないな。……ほら、見て。キミ、他のアクマを呼んだだろう?」
漆黒の床の下を指差してやると、怪訝な顔をしたレベル4も素直に視線を移した。
床の上からは、下界の様子は明瞭には窺えない。
もくもくと煙の上がる聖堂の中は、此処からではよく見えない。
だから、アレンは言った。
「硝子の棺、とっくに壊れちゃってたよ」
「――そんな、」
一拍置いて降下しようとするアクマを刃で阻む。
「キミが傍を離れたせいだ。他のアクマは、あの棺を壊してしまった。僕は、この目で見たんだ」
「そんなはずはない! めいれいは、ぜったいだ……はくしゃくさまも、やつらにそうめいじた!」
そこをどけ!
激情に駆られて、魂の輪郭が一人の少女を朧げに形どる。
かつての写真にあった姿とはもう似ても似つかないけれど。
鎖に絡めとられ乱れた金の髪は、確かに兄弟子のそれに似た色をしていた。
「じゃまをするな!」
アクマはアレンの刃を躱して宙へ飛び退る。
アレンはそれを追って刃を振るった。
漆黒の床がアレンを助け、アクマを阻む。
苛立ったように床を撃ち壊そうとするレベル4の腕を、アレンも執拗に狙う。
「りーせろっと……わたしの、ろって……!」
グギギ、と歯を軋ませてアレンを振り切り、レベル4はガパッと大きく口を開けた。
甲高い悲鳴。
今までに見たどの個体も、効果的にこの叫び声を使用していた。
アレンは思わずたたらを踏んで、顔を顰めた。
足が止まる。
剣をこの床に突き立てて体を支えるなんてことは、断じて出来ない。
となると、アレンにはただただ踏ん張るしか術がない。
レベル4の叫び声は脅威だ。
一瞬で形勢逆転されてしまう。
初めて相見えた時から、頭蓋を戦慄かせ、脳を軋ませるこの悲鳴には苦しめられてきた。
視覚を歪まされ、聴覚を奪われ、けれど触覚が首元で身動いだゴーレムの羽根の感触を伝えてくる。
襟の中に隠れていたティムキャンピーが、器用に尻尾で無線のスイッチを入れた。
『――アレン、いけ』
「にいさん、」
耳に聞こえた彼の声が強くアレンの背を押す。
『突っ込め!』
アレンは大きく刃を振るい、力を振り絞って駆けた。
あの悲鳴の直後で立ち向かってくるとは思わなかったのだろう。
逆に反応の遅れたレベル4へ向かって、アレンは強く床を踏み切った。
「そのまま突っ込め!!」
下方から声が聞こえる。
どんな喧騒も、彼の声を妨げることは出来ない。
アレンがレベル4に肉薄し、その腕を刃で掠めた瞬間、周囲の景色が一変した。
頼みにしていた黒い床がむくむくと起き上がり、壁のように聳え立つ。
四方を壁に囲まれ、天井には蓋が下りる。
瞬く間に「床」は大きな箱に様変わりしていて、アレンはレベル4と共に中に閉じ込められていた。
否、二人きりではない。
「一人で戦わせて、悪かったな」
この箱を作った張本人が、壁に背を凭れて立っている。
ただ唇を噛み切ったような痕跡だけを拵えて、他には掠り傷一つ負わずに、が微笑んだ。
「お待たせ」
嗚呼、来させてしまった、間に合わなかった――自分への落胆をなんとか内に秘め、アレンは訊ねる。
「兄さん、……聖堂の人達は」
「ハワードが連れてきたのと合わせて、二十はいない。……お前たちはよくやったよ」
「おい、これはなんだ」
退魔ノ剣で左肩を抉られたレベル4が、銃口を此方に向けて問う。
「何だ、だって? 笑っちゃうな……少しは感謝してくれていいんだぞ、フランカ」
も油断なく福音を突き付けて、笑う。
「これでようやく聖堂の火を消せるんだから」
「あっ」
まずい。
アレンが硝子の棺に関して嘘をついたことがレベル4にバレてしまう。
焦ったアレンだったが、はきょとんと此方を見て、何か悟ったように肩を竦めた。
「それとも、折角消火してくれる俺達の仲間を殺して、リーセロットを燃やしてしまう?」
ひとつ、ふたつ、みっつ……壁と同色で分かりにくいが、宙には漆黒の釘が舞っている。
そのひとつが、素早くアクマの右目を刺し貫いた。
「ギャアッ」
「俺はおすすめしないけどな。見世物にされて、挙句燃やされるなんて、」
「アアアぁぁっ、あああああああああああ!!」
再び悲鳴を上げるアクマだったが、アレンの向かいにいたはずのは、既にそこにいなかった。
金色は背を凭れていた壁を蹴りつけて、飛ぶようにアクマへ迫る。
悲鳴を迸らせる大きな口に、いつの間にか銃身が差し込まれている。
予備動作なんて、殆どない。
至近距離で受けている悲鳴さえまるで聞こえていないような動きで、がアクマを捩じ伏せ発砲する。
レベル4もタダでやられはしない。
発砲の瞬間、身を捩ってを蹴り飛ばし、逃れた。
しかしその顔面には大きな亀裂が入り、悲鳴も攻撃的で狂気じみたものから苦痛に耐えるものへ逆戻りする。
後退るレベル4へ、団服の汚れを払ってが微笑んだ。
「――そんなの、リーセロットが可哀想だろ」
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200508