燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









ひとつ、ひとつ、またひとつ
手をかけ、目をかけ、心を配り
じっくりと慈しんだから
最後のひとつを灯す頃には
はじまりの蝋燭は死んでいた



Night.117 時間よ、止まれ









片腕に赤髪の子供を抱いたが、大股で医務室に入った。

「ロッテ!!」

ハウゼンの悲鳴に応えるように、彼が微笑む。
ふうっ、と軽い空気が頬を撫でた。
悲嘆に暮れていた医師の恐慌が、一息で鎮まったことが手に取るように分かった。
が床に膝をつく。

「無事です。ほら、ロッテ。着いたよ」

少女は彼の首筋から顔を上げ、服を握り締めたまま不安げに振り返った。
涙でべちゃべちゃに濡れた顔が、ぐしゃりと歪む。
ハウゼンが駆け寄る。

「うびょわああああんっ! パパあぁぁあああっ!」
「ああっ、もう、お前は本当に!」

ロッテはの腕から飛び降りて、今度は父の腕に飛び込んだ。
びょわわわという泣き声が、外からの爆音と重なり合って医務室の窓を揺らす。
ハウゼンが顔を上げた。

くん、どうしてロッテを危険な目に……!」
「ちがうもん、ちがうもん! ロッテだもん! ロッテがおねがいしたんだもん!!」

抱きしめられたロッテが叫ぶ。
小さな拳を握って、少女は父をぽかすかと叩いた。

「ロッテが! きゅうけつきつかまえるの! は、ロッテとたんけんたい、なってくれたの!」
「いいんだ、ロッテ。俺が悪いんだよ。すみませんでした、ドクター」

深く頭を下げたは、けれど速やかにエゴールとヘルメスに目を向ける。
視線を受けて、二人は背筋を伸ばして腰を浮かせた。
まだ何も言わないうちから、既に「はい」と頷いてしまいそうな雰囲気だ。

「結界装置は持ってるよな?」
「はいっ」

ヘルメスの威勢のいい返事に、が穏やかな微笑を返す。

「ベッドの下を真っ直ぐ進むと泉に行ける。そこでポーラさんを保護して欲しいんだ」
「今、彼女は」
「聖典の帳で匿ってる。二人が到着したら解除するから、無線で教えて」
「畏まりました」

エゴールが生真面目に答えた。

「(それって)」

ぱちり、と。
頭の中で泡が弾けるように考えが浮かんで、リーバーは咄嗟にへ手を伸ばす。
その前に彼が身動いで、振り返った。
入口の扉を開けたリンクが、外に向かって手招きをしている。

「此方へ! さあ、早く!」
「ハワード、それで全員なのか?」

が訝しげに問うのも無理はない。
リーバーも思わず首を傾げたほどだ。
リンクに促され駆け込んできたのは、十人、いや、九人の観光客だ。
人数が少ない。
つい先程、聖堂は人でごった返していたはずだが。
眉を顰めて、リンクが頭を振った。

「連れてこられるだけ連れてきました。中でもまだ数人、息があるとは思いますが……」

アクマが複数いる中では、リンクの声にすぐ応じてくれた人だけを逃がすので精一杯だったのかもしれない。
リーバーが庇うまでもなく、は険しい表情をしただけで咎め立てるようなことは言わなかった。
すぐに一つ頷いて、駆け出そうと腰を浮かし、――つんのめるように、かくんと膝をついた。
瞬きの間、時が止まったようにリーバーは息を吸い損ねる。
避難してきた観光客のざわめきも、ロッテの涙も、全て引っ込んだ。

、」

誰より早く動いたのは、直前までと言葉を交わしていたリンクだ。
リーバーはそれで我に返り、屈む。

「おいっ」

覗き込んだ顔面は、蒼白。
僅かに開く唇の隙間から、砕けそうなほどに噛み締められた奥歯の擦れる音。
堪えるように固く固く瞑った目。
全身が強張り、震える手は胸に届かず膝に爪を立てる。
それでも、呻き声のひとつだって彼の口からは漏れてこない。
リーバーは思わずその背に手を当てた。

「――ッ!」

バシ、と音を立てて、手は振り払われる。
潤んだ目を見開いた彼は、リーバーを振り払った右手をそのまま腰のポーチに突っ込んだ。
取り出したのは小瓶。
バクが作った薬だ。
栓を親指で弾き飛ばすと、ハウゼンの制止も聞かずに上向き、その中身を煽った。
錠剤が瓶の中で暴れる音がする。
上下する喉仏。
リンクの背後にあるドアを睨み据えるのは、一切の隙がない鋭い漆黒。
下ろされた手から転がり落ちる小瓶。
立ち上がった彼は、一歩目を殊更強く、音を立てて踏み出した。
空気が引き締まる。
背を平手で引っ叩かれたような衝撃と、悪寒が走る。
足を止めてしまっていたリンクの脇をふらりと通り抜けた彼の姿は、気付けば扉の元にあった。

、待て!」

リーバーの声は、避難してきた観光客達のざわめきにかき消される。

――どこに行くんだ!
――待って!
――置いていかないで!!
――たすけて!!

右手に携えた漆黒の銃、福音の存在で、彼らはが戦闘員だと気付いたのだろう。
人々のその声に、彼が振り返る。
リーバーの目を見て、それから部屋中を見渡し、微笑んだ。
もう、ふらついてなどいない。
風が吹く。
声が、静まる。

「大丈夫」

まるで此処が祭壇にでもなってしまったかのように。
開け放たれた扉から入る光が、まるでステンドグラスを通したように輝いて見える。
外からは、アレンがレベル4と戦う音が確かに聞こえるのに。
聖堂に残された人の悲鳴と轟音が聞こえるのに。
此処だけは、まるで下界から切り離された楽園のように。

「――貴方達は、死なせない」

言葉が、空気を渡る。
その余韻を切り裂くように、彼は身を翻してあっという間に外へと駆けていく。
ロッテが虚空に呟いた。

「うん。ロッテも、いっしょ」

それに解き放たれたように、人々が顔を見合わせる。

「彼は、……何者なんだ……?」
「さ、さあ?」
「ここの修道士では無いようだったけど」
「あなたは、彼を知っているの?」

聖堂から彼らを誘導したリンクへと詰め寄る人もいた。
リンクは少し乱れていたスーツの襟を整える。

「我々はヴァチカン所属、黒の教団の者です。黒服の者は戦闘員でして――」
「班長、我々は地下へ行きます。結界装置を一揃え持っていきますので」

エゴールが言う後ろでは、既にヘルメスがベッドの下に入り、床板を開いていた。

「……ああ。気をつけろよ」
「班長こそ。決して外に飛び出したりなさいませんように」
「あっ、それロッテのひみつのみちぃー! だめえええっ」

父に抱えられたロッテがじたばたと暴れるが、ハウゼンは娘から手を離さない。
リーバーは手を伸ばして、が地面に転がしていったままの小瓶を拾う。
最初から五錠しか入っていなかった小瓶の中身は、今では一目でその個数を把握することが出来た。

「(気付いたのに)」

ポーラを守るため、ロッテと地下から脱出するため、聖典を発動し続けていたのだろう。
けれど実際どのタイミングで発動したのか、経過した時間も、かけた負荷も、正確には分からない。
確認するべきだった。
気付いたのに。
折角、手を伸ばしたのに。
確認さえとれていれば、通信越しにでも本部のドクターへ報告出来るのに。

「あといくつ残っていますか」

握り締めた拳を、ハウゼンが指さす。

「二錠です」

答えると、思案するように医師は扉の向こうへ視線を投げて呟いた。

「帰り道の分を考えると、心許ないな」

――無事に帰れる保証だってありませんよ

昼間の会話が頭を過る。
嫌な想像ばかりが頭に浮かぶ。

「……あれは、戦うから、余計に悪化するんです」

狂言だと本人が宣ったあの時でさえそうならば、今は。

「なのにオレは、戦うなって、アイツに言ってやれない」

声が震えた。
ハウゼンが、リーバーをじっと見つめる。

「もどかしいんですね、ウェンハムくん」

静かな声だった。
そう、そうなんだ。
もどかしいんだ。
大事にしてやりたいのに。
大切な弟分なのに。
自分が、兄貴と呼ばせたのだから。

「言葉に出来なくても、きみの本心は伝わっていますよ。彼、きみの事ずっと見てきたんですから」

ハウゼンは励ますように笑ってくれるけれど。

くんはね、きみの事が大好きなんです」

そんなことは、痛いほど知っているんだ。









『ハワード、一般人の誘導を』
「承知しました」

リンクが此方に頷く。
それを見て、アレンも頷き返す。
悲鳴、怒号、アクマの奇声。
この聖堂の中にいては、リンクとて命が危ない。

『聖堂には俺が行く』

兄弟子の声がアレンの背筋を叩いた。

『アレン、悪いけど少しの間、レベル4の方を頼む』

――方舟では、神田とラビが羨ましかった。
に、肩を並べて話してもらえる彼らが。
力を認められている彼らが。
に、彼が大切だと思うものを託してもらえる彼らが。
その声が今、アレンに向けられた。
息を飲む。
空回りしそうなほど逸る心を必死に抑えて、声を張る。

「っ、はい!」

と場所を入れ替わるまでに、せめてなるべく多くのアクマを破壊してしまおう。
アレンは一息ついて、足に力を込め、なぎ倒された木の椅子を踏み台に跳び上がった。
この場所は戦いにくい。
尖塔の天辺を打ち壊し、結界の最後の礎を壊したまではよかった。
見下ろせば聖堂内にアクマがひしめいていたのだ。
左目は軋むほど痛んだが、それでもアレンには分かった。

「(リーセロットは、アクマじゃない)」

何故死体が朽ちずに残っているのか、それは今問題ではない。
それよりも。なればこそ。

「(この遺体には、傷をつけてはいけない)」

三十年も硝子で遮られてしまったポーラに、この遺体を傷一つなく返してあげるべきだ。
修道院それ自体もなるべくなら損害は少なくしたい。
何せ、ヒリスの故郷だ。
帰る場所があるのなら、守ってあげたい。
――今までだって、本当はそうだった筈なのだ。
任地にはその土地の生活があって、生きている人がいる。
奇怪は、アクマは、災厄だ。
人命が優先だとしても、出来ることなら守りたい。
けれどそう思うと途端に、戦闘も救命も救済も困難になる。
アレンの手の届かないところで何人が死んだのか。
そしてどれほどの魂がアレンにしか見えない姿で嘆いただろうか。
上空へ上がる足場への進路に立ち塞がるアクマを爪で抉り、破壊する。
死臭は崩壊した天井から抜けていく筈だ。
そうであって欲しい。
息のある人を先導するリンクが、聖堂を駆けて出ていった。
頭上から影がさす。
見上げれば、空中には謎のレールが敷かれていた。
その艶やかな漆黒には覚えがある。
聖典の「黒」だ。

「すぐに、助けが来ますから!」

聖堂の中に声を響かせる。
そこかしこから呻き声が聞こえる。
救いたい、でも上空のレベル4を逃すわけにはいかない。
歯を食い縛り、破った天井の端に道化ノ帯を巻き付け、反動で空中に飛び出す。
レールの上を滑走して下りてくるは、赤毛の少女を抱き締めている。
目を見交わす余裕はなかったが、すれ違いざまにの吐息が聞こえた。
それが微笑みを孕んでいたようだったから。
アレンは背中を押された気になって、ぐっと前方を睨み据えた。
無線を切る。
腕を握り、退魔ノ剣を出現させる。
漆黒の霧の向こう側から、レベル4が顔を出す。
まだ攻撃態勢に入っていないその隙をついて、剣を霧の中に突き立てた。

「これは『あれん・うぉーかー』のけん……」

手応えがない。
否、剣を掴まれた。
霧が晴れる。
現れたアクマの視線が、アレンの背後に向いた。

「ッ、行かせない!」

道化ノ帯を伸ばして、レベル4を捕らえる。
そのまま相手を空中に放り出した。
アレンは近場の樹を足場に立ち上がる。
宙に留まったアクマは、舌なめずりするように笑った。

「それにあれは、カミサマ……わたしはずいぶんと、ひきがいいようですね」
「お前の相手は僕だ! 絶対に兄さんとは戦わせない」
「おや、かれがしぬのがこわいのですか? くろのきょうだんは、なにもしらないのでしょうか」

うふふ、と笑うアクマには、マルテン神父としての個性は見られない。
レベル4は総じて、低レベルのアクマよりも個性に乏しい。
どれも同じような見た目で、同じような喋り方をする。
アクマは、重さも感じさせない動きでくるりと器用に宙で回り、腕を銃器型に転換させた。
無線から聞こえたやり取りによれば、このアクマの正体はフランカの筈だ。
妹を大切にしすぎて、彼女を失い、それを嘆いて身を投げた姉。
そして、父に喚ばれて父を殺したアクマ。
今、どんな顔をしているのか、それを知るにはレベル4では進化が進みすぎていた。
ぐちゃぐちゃに混ざり合った魂。
三十年の殺戮の歴史から、目を逸らしたい。

「ほうっておいてもあれはすぐにこわれると、はくしゃくさまはおおせだというのに」

けれど、アレンはキッと睨み返し、そして彼女の魂を正面から見据え、吼える。

「――ッ、だからだ!!」

アクマへの憐れみとは別だ。
嘲笑うようなその声は許せない。
いや、許せないのは自分なのかもしれない。
この任務は、アレンに回された任務だ。
だから、には絶対にこれ以上の無理をさせたくない。
絶対に迷惑なんかかけない。
絶対に。
もうこれ以上、彼の生命を零してしまいたくない。

「こわいんですか?」
「怖いに決まってるだろ!!」

こんなやり取りは、誰にも聞かせられない。
アレンは剣を振りかぶり、右の上段から斬りつける。
斜向かいの樹を蹴り、刃を返した。
アクマはくるりくるりと宙を舞い、イノセンスの刃をすり抜ける。
アレンはその後を追った。
帯を伸ばし、距離を縮める。
師匠はいなくなってしまった。
たった一人の、兄さんなんだ。
あの人は、アレンの為なら何だってあっさりと手放してしまうだろう。
ドクターの故郷であるこの街の為ならば、何だってあっさりと擲って救ってしまうだろう。
でも、それでは駄目なんだ。
たった一人だけの、僕の兄さん。
失いたくない。
これ以上は。
これ以上は。
絶対に失わない。
彼が此方に合流する前に、アレンだけで決着をつけてやる。

「きみもしんじゃえばいい。そしたらこわくなんかないよ」

アクマの腕から、マリの指を奪ったのと同じ弾丸が放たれる。
退魔ノ剣を盾にして、アレンは隣の樹へ飛び移った。
先程まで足場にしていた樹が、銃弾を受けてあっという間に半分の高さになった。
次へ、次へと飛び移る。
退避する方向には気を付けなければ。
民間人が避難した医務室を狙わせてはいけない。
それに。

「だいじょうぶ。カミサマも、すぐにきみのあとをおうことになるんだから」

修道院の敷地の外には、町が、あるのだ。
街灯の少ない町。
迫る夜の暗がり、人々の支えでもあるこの修道院から、尋常ではない音が聞こえている現状。
通りにはランプの明かりがちらほらと見えている。
人が、集まってしまう。

「(来るな、来るな、こっちに来ちゃダメだ)」

アレンがどれだけアクマの気を引けるかが、町の住民たちの安否を左右する。
けれどどうしてだろう、アレンがそう念じれば念じる程に、アクマは修道院の境界に近付いていくのだ。

「このっ……!」

道化ノ帯を伸ばしてレベル4の片翼を巻き取り、反対方向に放る。
即座に帯は銃弾によって千切られ、アレンに銃口が向けられた。
足場に出来る樹木がない。
退魔ノ剣で隠せなかった左肩に被弾する。
足場に出来る樹がない。
アクマが笑う。
十もある銃口が、落ちるアレンを狙う。

「しね!!」









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200209