燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  












果てない夢 彼方の影に
目を瞑り 耳を澄ます
決して
忘れることのできない
感情
痛みの 悼みの 雨
浮かび上がる 言葉は――



Night.12 零れ落ちる









「彼ねぇ……ものすごく朝に弱いらしくて。悪いんだけど、朝は起こしに行ってあげてくれる?」

コムイにそう言われ、次の日。
ミランダは壁を伝って、廊下を歩いていた。
筋肉が、体の至る所で悲鳴を上げている。

「いたたたた……」

眠れないのは得意なの、とに告げてみたものの、その言葉は早速嘘になってしまった。
昨日は、わざわざ寝ることを意識する間もなく、眠りに落ちていたのだ。
久し振りに熟睡し、気付けばとっくに日は高くなっていて。
ミランダは大慌てで着替えを済ませ、部屋を出たのだった。
辿りついた先、医務室のドアをノックする。
案の定返事は無く、ミランダは恐る恐る扉を開けた。

「し、つれい……します……」

金髪の青年は、まるで人形のように眠っていた。
足音を忍ばせて、ミランダはベッドの脇に立つ。
起きていてくれたら、と思ってはいたが、今では逆に寝ていてくれてよかったと思っている自分が居る。
訓練一日目の昨日、はずっと笑顔でミランダを見てくれていた。
失敗をしても、今までの就職先の店長たちとはまるで違って、もう一度、最初から噛み砕いて説明してくれた。
しかし――出会い頭のことが、気にかかる。
が時折見せる驚きの表情が。
伏せられる瞳が、気にかかるのだ。

、くん」

緊張とともに、声を掛ける。
人形は少し顔をしかめ、ミランダの方へ寝返りをうった。
温かな風が動き、ふとミランダはその頬へ手を触れた。

「(熱、上がってるんじゃないかしら)」

一度そう思うと、不安が止まらない。

「(私のせいだわああああ)」

無音の医務室で一人、床に座り込む。

「(どうしよう、悪くなっちゃったりしたら……私のせいだ、私のせいだ)」
「ん……っ」

不意に聞こえた声に、ミランダはパッと反射的に顔を上げた。
歪められた眉。
僅かに乱れる呼吸。

「(夢を、見ているの……?)」

彼の手が、掛け布団を握り締めた。
ミランダは慌てて、の肩を揺らした。

くん、お、起きて。く……っ」

涙の膜。
開いた瞼の中の、潤んだ瞳を見て、ミランダは手を引いた。
虚ろな眼差しに当てられ、思わず口許を押さえて、顔を背ける。

――見ては、いけない

服を掴まれる感触があった。
硬直したミランダが微かに感じた、小さな小さな空気の震え。

「え……?」

軽い音を立てて、の腕がベッドに落ちる。
ミランダが振り返る頃には、静かな寝息が聞こえ始めた。
安堵の溜め息。
そして少しの間を見つめ、ミランダは再び手を伸ばした。

くん、朝よ、起きて」









ミランダの訓練は、ひたすら運動することから始まった。
腹筋、背筋、腕立て伏せ、だだっ広い修練場をランニング。
慣れないミランダはそれだけで昼の時間を過ぎてしまう。
本来、彼はその師匠に、これら全てを一時間かけずにやるように言われているらしい。
しかしは、わざわざミランダのペースに合わせて一緒に運動してくれている。
遅い昼食を挟んで、昨日は追いかけっこをした。
もっとも、猛然と追ってくるから、ミランダがただ逃げていただけだったが。

「今日は何をしようか」

昨日に引き続き、遅い昼食の後で、修練場に戻りながらが言う。

「銃撃から逃げるのは、まだ早いもんね」

さらりと恐ろしい言葉が聞こえた。
ミランダは青くなって彼を見上げる。
確か昨日、「俺がやるのは師匠の受け売り」だと言っていなかっただろうか。

「そんな修行……したの?」
「したよ。師匠は本当に怖かった。間髪入れずに撃ってきたし」

が、思い返すように遠い目をした。

「酷い修行だったけど、まぁ、実戦向きではあるんだよね」

ミランダの強張った表情を見てか、彼は明るく言った。

「まだやらないから、安心して」
「……や、やるのね……」
「ん? もちろん」

近い未来を思い浮かべ、がっくりと肩を落とすミランダ。
はそんなミランダを見て微笑み、頑丈な扉を押し開けた。
長い間、この修練場は色々な訓練に使われてきたそうだ。
何度も修復されてはいるものの、ところどころが壊れたままになっている。
その瓦礫の一つに、白い団服の男が腰かけていた。

「コムイ?」

やあ、とコムイが立ち上がる。
手に持ったファイルを、軽く持ち上げた。

「任務の説明したいんだけど、ちょっとお邪魔してもいいかな?」

は頷き、扉を体で押さえる。

「どうぞ、ミランダ」
「でも、任務の説明なら……」

そんな大事な話を、自分が邪魔するわけにはいかない。
恐縮したミランダは首を左右に振ったが、少し真剣な調子のコムイにそれを制された。

「ミランダも一緒に聞いてくれる? キミにも現状を知っておいてもらいたい」









促されるままに、二人は瓦礫の上に座った。
コムイと向かい合うように、その隣がミランダだ。
室長はファイルを手にしているが、いまだ開く気配はない。
軽く息をついて、がタイを緩めた。
一瞬隣に向いてしまったミランダの意識は、直後に目前へ引き戻された。
コムイが口を開く。

「ミランダの為に説明するね。エクソシストの上には、五人の元帥が居るんだ。
ケビン・イエーガー、ウィンターズ・ソカロ、クラウド・ナイン、フロワ・ティエドール、そして、クロス・マリアン。
彼らはそれぞれ異なる任務につき、その途で新しい適合者を捜している」

一人だけ名前を聞きとどめ、ミランダはを見た。

「えっと、クロス元帥っていうのが……」
「そう、俺の師匠」

ミランダが頷くと、コムイはに向き直った。

「本題に入るよ、。――イエーガー元帥が、殺された」

ミランダは、思わず口を覆った。
が呆然と声を漏らす。

「まさか……!」
「本当のことだ」

手元のファイルを開き、軽く目を走らせて、コムイは再びそれを閉じた。

「彼は『体を開かずに内臓を奪われ』、背中に神狩りと彫られて、教会の十字架に裏向きに吊るされていた」
「……っ」

顔を逸らしたミランダの隣で、硬い声のがコムイの言葉を繰り返した。

「……体を、開かず……」

の拳が、震えるほど強く握りしめられた。

「あの時、俺が――」


俯く彼の肩に、コムイが手を置く。

「キミのせいじゃない。自分を責めないで」

脳裏に、の言葉が甦った。
「失敗」は、誰かの「死」に繋がるということ。
の深呼吸で、ミランダは我に返った。
話は、まだ終わってはいない。

「……イノセンスは?」
「うん。元帥のイノセンス、それと、所持していた八つのイノセンスが奪われた」
「もう……壊されてるんじゃないかな。ノアは多分、そんな力を持ってる」
「キミも、そう思うかい?」

頷いたを見て、コムイが再びファイルを開いた。
中の書類に書き込みをしていく。
ふと、がその一節に目を留めた。

「コムイ、『神狩り』って?」

コムイが資料から顔を上げる。

「イノセンスのこと、だろうね。伯爵は、エクソシストの中でも特に力のある者に、ハートの可能性を見たんだろう」

おずおずとミランダは手を挙げた。
話についていけない。

「あ、あの……」
「ん?」

がミランダに目を移した。

「ハ、ハートって、何ですか……?」

コムイとが目を合わせる。
アイコンタクトの末に口を開いたのは、だった。

「イノセンスの中には、一個だけ核になるものがあるんだ」
「それが、『心臓(ハート)』?」

尋ねるミランダに、彼は真剣だが優しい表情で頷き返す。

「ハートは全てのイノセンスの力の源で、逆に全てのイノセンスを無に返すことが出来ると言われてる」
「すごい……」

呟きに、コムイが付け加えた。

「伯爵もボクらも、それを捜してるんだよ」

手元のファイルを閉じて、コムイはへ顔を向けた。

「と、まあそういう訳で、各地のエクソシストを四つに分けて、それぞれ元帥の護衛についてもらうことにしたんだ」
「それが、任務?」
「うん。キミはアレンくん、リナリー、ブックマン、ラビを率いてクロス元帥のもとへ」
「師匠の……」

どこか安心した表情で、が呟く。
しかし目を伏せ、再び開いた時には、彼はやや苦笑気味に笑っていた。

「了解。にしても……随分長い任務になりそうだ」
「そうだね。特に、キミらのところは」

乱暴に髪をかき上げる

「あの人、どこにいるか分からないからなぁ……」

続く大きな溜め息に、ミランダは笑みを漏らす。
そんなミランダとは反対に、コムイが真剣な表情でを見つめた。


「何?」
「元帥が狙われるってことは、勿論、その候補にも手が及ぶってことだよ」

の纏う空気が、ガラリと色を変えた。
柔らかく穏やかだったものが、突如冷たく、重く垂れ込める。

「ましてキミは『神の寵児』。伯爵にも目を付けられている」

の瞳が、揺れる。

「俺、なんか……」

言葉を遮って、コムイが首を振った。

「キミにばかりこんなに依存するのは、申し訳ないと思ってる。
でもボクらは、正直キミが寝込んでいるだけでも不安で堪らなくなるんだ」

眼鏡の奥の瞳が、漆黒を真摯に見つめる。

「キミにはやっぱり『神』で居てもらわなきゃ、困るんだよ」

何も聞かなかったかのように目を逸らし、しかし口許には嘲るような笑みを浮かべて、が立ち上がった。

「……神、か」
……くん……?」

退廃的なその雰囲気に、思わずミランダは声を掛けた。
が横目でこちらを見た。
一瞬。
見つめ合う、二人。
やがて、の瞳はミランダを透かした。
思い及ばない遠い誰かと、ミランダを重ねたのだろう。
痛々しいほどに悲しい表情で、彼はミランダから目を離す。
そのまま此方を見ることなく背を向けた。

「ごめん。俺、少し寝てくる。戻ってくるまで、休憩でいいから」

過ぎる風が、弱々しい。

くん……」
、待って!」

ミランダの伸ばした手も、コムイの声もすり抜けて、はドアに手を当て、立ち止まる。

「コムイ」

俯いてドアノブを握ったまま、憤るでも嘲るでもなく、彼は言った。

「大切だと思う人すら守れない人間が、『神』なんて呼ばれる資格は、無いんだよ」
……」

重い音を響かせて、扉が閉まる。
残された二人はしばらく黙ったままだったが、コムイが肩の力を抜いたのを機に、ミランダも肩を落として俯いた。

「しくじったなぁ……ごめんね、ミランダ。本当に邪魔をしちゃって……」
「室長さん」

ミランダは彼をそっと見上げる。

くんは、どういう人なんですか?」

コムイが不思議そうにこちらを見た。

「とても悲しそうな目で、私を見るんです」

喉に、目の奥に、熱いものが込み上げてきた。
自分から物事に関わるのは、怖い。
けれどそれでも、あの悲しい眼差しの、意味を知りたくて。

「何に……あんなに、囚われているんですか……」

鼻を啜るミランダを、コムイがじっと見つめる。
彼はゆっくり口を開いた。

「――ボクらが彼について知っていることは、実はとても少なくて、そのどれもが断片的なものなんだ」

ぽつり、と零された言葉は悔むような響きを伴って、修練場に落ちる。

「何か言う前に口を閉ざすことが多い子でね……本人から話を聞けたことは、一度だって無い」

ミランダは驚いて目を瞬いた。

「もっと、その……人懐こいかと……」
「うん。いつも微笑っていてくれるから、ボクらはいつも、その姿に、存在に縋っちゃうんだよね」

苦笑しながら、コムイがミランダから視線を外す。

が居るだけで安心するし、この世界にも希望が持てる。
ボクだって例外じゃないんだよ。団員達もきっと、もっと深い所で彼を頼りにしていると思う」

外された視線が、縋るように宙を見つめた。

「だけど、いざ自分が教団の中を見回した時。皆が希望に縋っているその場で……彼だけが、ひどく孤独に見えるんだ」

その言葉に、はっとする。
彼の悲しい表情が抱く、感情の一つは。

「……キミになら、教えてもいいかな」

逡巡の後、コムイは慎重に言葉を選びながら続けた。

「クロス元帥が昔、話してくれた。
の二つのイノセンスはどちらも……彼の大切な人の命と引き換えに、発動したものらしいんだ」









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