燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









もがき苦しむ人の前には決して現れず
持てるだけの絶望を携えて
音もなく幸せを打ち壊す
そして茫然と佇む人の前に初めて
哀しみの結晶となり現れる
だから
愛される神など、居る筈が、ないのだ



Night.11 重なる面影









柔らかな黒い髪が、視線の先で揺れた。
軽やかな一挙一動に、心を奪われる。
隣を歩く瞬間の、あの誇らしい気持ち。
名前を呼ばれる喜び。
一瞬。
後悔の念。
跳ね上がる、心臓。










風が、吹き抜ける。









僅かな視界に、白い団服が飛び込んできた。
誰の物だったろうか。
重く気だるい頭で考える。
唇が、少し乾いていた。

「……コムイ?」
「おはよう、。具合はどう?」

普段よりもほんの少し調子を落とした声。
目の下に隈を作ったコムイの顔をぼんやりと見つめ、呟くように答えた。

「昨日、よりは」

コムイの手が額に触れた。
冷えた手が、思考を明瞭にしていく。
やがて手を離して、コムイはベッド脇の椅子に腰かけた。

「まだ熱あるね」

自分でも額に手を触れ、は苦笑する。
熱い手で熱いものに触っても、よく分からない。

「……でも、多分下がってるから、平気」

そして、悪戯っぽく笑った。

「で? 室長様が仕事もしないで、こんな所に居ていいの? 兄貴が泣くよ」
「その心配は無いんだ。何故なら!」

コムイは眼鏡を押し上げて、どこか自慢げに胸を張る。

「リーバーくんも、ここに来るからね」

多忙なはずの科学班の旗頭までもがやってくるとは、普通ではない。
逆に不安が煽られる。
は目を細めた。

「何か、あった?」
「キミに会って欲しい人が居るんだ」
「……誰?」

ますます不審に思って聞くと、コムイは優しく言った。

「アレンくんとリナリーが見つけてきた、新しいエクソシストだよ」

エクソシスト、と呟き、は少しだけ表情を曇らせた。
しかしすぐに顔中に笑みを広げた。

「へぇ、大手柄じゃん」
「うん。そのエクソシストもね」

コムイが笑った。

「二人の命を、救ってくれたんだ」
「え?」
「二人……いや、三人も、ノアと遭遇したんだ」

脳裏に蝶を従えた男の姿が浮かぶ。
は思わず体を起こした。

「……何、だって?」

その声に重なるように、控えめにドアがノックされた。
コムイがちらりとそちらを見遣る。

「それについては後で話すよ。来たみたいだ」

ドアが開いた。
隙間に体を滑り込ませたのは、濃い隈に白衣がトレードマークのリーバー。
を見て、彼は顔を綻ばせた。

「お、起きれるようになったか。室長、連れてきました」
「入ってもらって」

間を空けずにコムイが返す。
リーバーはドアの外に顔を出し、その人物に呼びかけた。

「おーい、ミランダー?」

コムイがに顔を寄せ、囁く。

「ちょっと気の弱い人でね。キミなら大丈夫だと思うんだけど」

大きくドアが開き、おずおずと黒い髪が覗いた。
彼女はリーバーに背を押され、危なっかしい足取りで転がるように病室に入る。
そして何もない所で本当に転んだ。
気まずい沈黙。
リーバーがしまった、と顔を覆い、コムイが苦笑しながら立ち上がる。
やがて女性が窺うように顔を上げ、それを見たは。
息を、呑んだ。

――ありえないと、心が叫んだ









見ていた夢が、見ている現実を覆い尽くす。

くん』
『行きましょう、くん』

心が、叫んだ。

『待ってるわ、未来のエクソシストさん』

破滅へと踏み出した小さな自分への
声にならない、絶叫
喉を詰まらせる、あの「一瞬」――









?」

コムイに声を掛けられ、は我に返った。
頬を冷や汗が伝う。

「どうしたの、大丈夫? どこか痛む?」

震える息を押し戻すように、口許に手を遣って、は首を横に振った。

「あ……いや、ううん……何でも、ない……」
「いやああああああああ!」

静かな病室に響き渡る悲鳴。
予期せぬ出来事に、とコムイは揃って肩を揺らした。
ミランダと呼ばれた女性が、床にへばりついて頭を抱えていた。

「やっぱり私なんか認めてもらえないのよぉぉぉぉ、いやぁぁぁ」

すっかり困り顔のリーバーが、彼女の背を軽く叩く。

「おいミランダー、誰もそんなこと言ってないって」

しかしミランダは髪を振り乱し、首を左右に振り、顔を両手で覆った。

「だって、彼に認めてもらえなかったら、私、私……」

しばし呆気にとられていただったが、なんとか自分に言い聞かせる。

「(違う。忘れろ。ジレーアじゃない)」

僅かに、目を伏せた。
久し振りにベッドから降り、ミランダの前に膝をつく。

「ミス……ミランダ?」

声を掛けると、ミランダが指の間から恐る恐る顔を覗かせた。
その両手には包帯が巻かれている。
は微笑んだ。

「不安にさせてごめん。貴女が知り合いに……よく似てたから、驚いちゃって」

優しく手を取って、震えるミランダを立たせる。

「そそそそ、そう、だったの……」

はベッドに座り、手近に掛っていた団服を羽織った。

「コムイ、この人が?」
「うん、ミランダ・ロットー。ミランダ、彼がさっき話した、だ」

順番に互いの紹介をしたコムイ。
ミランダが目礼をした。
胸の前で両手を握り締め、体を強張らせている。

「よ、よろしく、お願いします……」

消え入るように言って、ミランダは申し訳なさそうに肩を竦めた。
は柔らかく微笑んで、よろしくと返す。
コムイを見上げて、首を傾げた。

「次の任務、一緒なの?」
「そうじゃなくてね」

人差し指を立て、にこやかにコムイは続ける。

「彼女、まだイノセンスの訓練してないんだ。でもほら、元帥たちは今、みんな出払ってるだろ?
で、キミが本部に戻っていることを知った大元帥方が、ここぞとばかりに指令を出したってワケ」

殊更に「大元帥」と「ここぞ」を強調するコムイ。
の頭を、嫌な予感が掠めた。

「……つまり?」
「『元帥候補者を、ミランダ・ロットーの指導役に』」

リーバーがミランダの傍らで頷く。
ミランダは震えながら、上目遣いでを見ている。
は呆然とコムイを見た。

「そういう訳で」

再びコムイが口を開き、は焦って彼の団服を掴んだ。

「ちょ、ちょっと待てよ、俺なんかじゃ無理だって。
イエーガー元帥とか、場所分かってる人、居るだろ? そっちに行ってもらったほうが……」

コムイが、それまでと打って変わって苦い顔をした。

「そういう訳にもいかないんだ」
「何で?」
「ちょっと、ね。ほら、第一ミランダを送る時間も惜しいし、それは彼女にとって危険すぎる」

まだ上手くイノセンスを使えないから、とコムイは付け加えた。

「ボクもリーバーくんも、キミの体調を考えて反対したんだ。けど、冷静に考えれば状況的にもこれがベストでね。
大丈夫、キミの指導力はアレンくんやリナリーを見れば一目瞭然だから」
「でもっ」
「頼むよ、

は腕を組んだ。
最初ほどの衝撃は無いものの、いまだ目の前の彼女が脳裏の彼女と重なる。
重なってはブレて、また重なってはまたブレる。
固く、目を瞑った。

「(どうして……ここに……)」

目をあける。
ミランダは死刑宣告でも受けるかのように、震えたままだ。

「……ミス・ミランダ。聞いても、いいかな?」

静かに声を掛けると、ミランダが顔を上げ、不安そうに頷いた。

「え、ええ……」
「――本当に、エクソシストになる気が、ある?」

コムイとリーバーが、揃ってを見た。
ミランダも、聞き返した。

「どういう……」

包帯の巻かれた手が、震えている。

「ノアなんかに遭遇して、そんな傷まで負って、それでどうしてこの道に? 怖くないの?
あいつは……アレンは、言わなかったかもしれないけど。
エクソシストになったら、いつ死ぬかも分からない戦場に、一人送られることだって、あるのに」

ミランダが息を呑んだ。

「誰の助けも借りられない。助けを待っている人の中で、黒服は、立ち続けていなくちゃいけない」

とミランダの視線が交錯する。

「何十人、何百人、何千人――数えきれない生命を、全てを、ひとつ残らず守る」
「いのち、を……」
「そう。それが、エクソシストになるって事だよ」

震える声。
揺れる視線を、の瞳が捉えた。

「俺達の失敗は、そのまま誰かの『死』に繋がる。それに恐れをなしても、入ってしまったら、もう逃げられない」

コムイとリーバーが顔を見合わせる。

……?」

呟くようなリーバーの言葉が、宙に漂った。
無に支配された、静寂の空間。
声が、形を持ちそうなほどに研ぎ澄まされたこの場所で。









「耐えうるだけの覚悟が、貴女には、あるのか?」








の言葉は、明確に存在した。

「――ミス・ミランダ、引き返すなら今だ」

脳に直接響いているような、感覚。
誰もがに釘づけになっていた中で、コムイが我に返った。

、何を……!」
「大丈夫、責めたりしない。逃げるなら手を貸すよ。
誰にも見つからずに、貴女を教団の手の届かないところまで連れて行ってあげる。どうする?」

コムイの、リーバーの、そしての視線が、ミランダに集中した。
ミランダは俯く。

「わ……わた、し……」
「うん」

その声の響きが柔らかくて、ミランダは少しだけ顔を上げた。
こちらを見ているのは、優しい漆黒の、瞳。
まるで、包みこまれるような、錯覚。

「……私、今までずっと自分に自信が無かったの。で、でもね」

教団に来て初めて、微笑むことが出来た。

「このイノセンスが、チャンスをくれた。アレンくんとリナリーちゃんが、私に勇気をくれたの。
ありがとうって言葉が、あんなに嬉しいなんて、知らなかった。私は……」

彼の瞳を、受け止めた。

「二人の、助けになりたい。十月九日を覚えている限り、私は、どんなものでも乗り越えるわ」

ベッドの枕元で、彼の物と思われる漆黒の銃が、鈍く光っている。
が厳しい表情を崩した。
哀しげに、微笑った。

「……貴女のイノセンスは、幸せだ」
「えっ……」

にっこりと、青年は笑う。

「コムイ、引き受けるよ」

ミランダの視界の端で、コムイとリーバーが顔を見合わせる。
そして、歓声を上げた。

「本当かい!? !」
「うん。――偉そうなこと言って、ごめんなさい。改めて、よろしく、ミランダ」

ずっと張り詰めていた緊張の糸が、その一言でほどけてしまった。
呆けて彼を見る。
ふと、親しげに名前を呼ばれたことに気付いた。
熱いものが、こみ上げてきた。









三人に苦笑される中、ミランダは泣きながら何度も頷いた。
彼女の背を、リーバーが軽く叩いている。
コムイがこちらに笑顔を向けた。

「じゃ、。詳しいことはリーバーくんに聞いてね。
ミランダ? あーもう鼻水まで垂らしちゃって……話があるからこっちに来てくれる?」

ミランダはコムイに手を引かれて少し離れた所へフラフラと歩いていった。
の隣に、リーバーが座った。

「お前も、生やさしいこと言ってるだけじゃないんだなぁ」

しみじみ言ったリーバーに、は苦笑した。

「俺だって、思ってることくらいあるよ。……ちょっと、言いすぎたけど」
「ま、ともかくサンキュー」

リーバーによって、髪の毛がかき回される。

「じゃ、本題に入るか」

片手で髪を直しながら、はリーバーの手もとのファイルを覗いた。
文字や式、加えて図が並ぶ書類が示される。

「これがミランダのイノセンスだ。置時計に宿ってて、どうやらコイツには、時間空間を操作する力があるらしい」
「すっげ……」
「だろ? そもそも、ミランダの住む街で、十月九日が繰り返される奇怪が起きたのが始まりだったんだ」

は先程ミランダに言われたことを思い出した。

「そういうことか……。にしても、凄い。時間を巻き戻したり、出来るの?」
「ああ。ただ、発動を止めたら、全てが元に戻っちまう」

もう一度書類を覗き、は顔をしかめた。

「……酷だね」

リーバーも頷いて、ファイルを開いた。
そして幾分か明るい声で言う。

「今、イノセンスは科学班で預かってんだ。改良は俺が担当するよ。
時計の文字盤だったから、殆どそのままの形で作ろうと思ってる」
「何日で出来る?」

リーバーは腕を捲くった。

「三日で作ってみせるよ」
「別に、そんな急がなくても良いんだけど」

焦って言うに、リーバーが笑いかける。

「詳しくは明日以降に話があると思うんだけどな。
実は一週間後には、お前に長期の任務についてもらわなきゃなんねーんだ」
「……何? 今日二人とも変だ」

リーバーが、の肩に団服を掛け直した。

「今日は我慢な。そうだ、訓練どうする? 三日はイノセンス使えないけど」
「使うより前に、やること山積みだと思うな」

ちらりとミランダに視線を走らせ、は苦笑する。

「確かに。ま、メニューはお前に任せるよ。修練場も貸し切りで使えっから。
けど、それ以外の所壊したら、お前らに直してもらうからな」
「はは、おっけ」
「あと、ミランダの部屋はもう用意してあるけど、お前は寝るときここな」
「えっ、部屋戻っちゃいけないの?」

驚いて聞き返すと、頭を軽く小突かれた。

「バカ、熱あるだろーがお前は! ……つーのはまあ、オレと室長の意見。
大元帥の本音は、副作用の経過観察とお前の保護」
「保護?」
「わり……全部まとめて、明日話してやるから」

再び髪をかき回され、は手の下からリーバーを見上げた。

「……ちゃんと教えてくれる?」
「当たり前だろ」
「なら、いい」
「ごめんな。室長、行けます」

リーバーの声に、いつの間にか部屋を出ていたコムイが顔を覗かせた。
いくらか落ち着いた様子で、ミランダが控えている。

「じゃあ、。一応施設の説明はしてあるけど、他全部任せるから」

は頷いて、ふと尋ねた。

「了解。ねぇ、ところで今、何時?」
「そろそろ八時かな」
「まだそんなだったんだ……道理で、日が低い訳だ。ミランダ、朝食は済んでる?」

ふるふると彼女が首を横に振る。

「い、いいえ。……そういえば緊張してて、昨日から何も食べてないわ」

おっけ、と頷いて、はベッドを下りた。
リーバーが伸ばした手を丁寧に断り、立ち上がる。

「じゃあまず食堂に行こうか。腹が減っては戦は出来ぬ、ってね」









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