燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









大切なものは、いつも目の前で奪われる
――何が
遠い記憶に伸びていく路地でも
――誰が
終わりと始まりの黄昏の中でも
――『神』だなんて
大切なものは、いつも目の前で奪われる
――だから、資格など無いと、言ったのに
いつも、いつも、間に合わない



Night.10 手は空を掴む









腕が上がるのを合図に、血で作られた釘が、一斉にティキへと飛びかかる。
その過程で、何匹ものティーズが破壊された。
ティキは両手のティーズを盾にして、釘を壊す。
固体になった液体がぶつかる、硬い音。
しかし四方八方から来る攻撃は避け切れず、防げなかった釘が左肩を貫いた。

「っ!」

骨も砕けそうな嫌な音がする。
そこに気を取られて、右足にも釘を掠めてしまった。
さほど大きくない割に、この釘の威力は強い。
間断なく襲いくる攻撃を受けて、右手のティーズが甲高い悲鳴を上げた。
羽根にヒビが入っている。

「マジかよ……っ」

ティーズが四散する。
その向こう、地上では、が険しい顔で銃を構えていた。
血を吸ってか、黒くなった右手の手袋と、白いままの左手の手袋。
黒を、白が包む。
銃口が真っ直ぐにティキを捉えた。

――連射弾――

高速で撃ち出される弾丸が、ティキを襲う。
左手のティーズだけでは防御は不十分で、上着にはいくつもの穴が開いた。
足にも腕にも掠り傷が増えていく。
何カ所か体にも当たり、ティキの赤い血も地面に滴った。

――銃口がぶれた、一瞬

その隙にティキは攻撃範囲から脱出する。
銃撃が止んだ。
刺さった釘を力任せに引き抜くと、来ていた上着が地上に落ちた。
息を切らせて、ティキは頬の傷を拭う。
下を見ると、が銃を下ろし、膝に手をついていた。
体中で息をしている。
ティキは冷や汗を拭いながら、薄く笑った。

「どうした? スタミナ切れか?」

は答えない。
胸に手を当てて、荒く息をついている。
ティキは宙をゆっくりと歩いた。
自分自身も、足元がおぼつかない。
舌打ちをひとつ。
それに気付いたが顔を上げるより前に、ティキは彼の首を掴み、壁に叩きつけた。

「――っ!」









衝撃で息が止まる。
の左手は、本能的にティキの腕を掴み、力を緩めようとする。
しかし右手は理性的に、ティキの左胸に銃口を押し当てていた。
ティキが掠れた口笛を吹いた。

「普通、この状況で武器は出さねーだろ」

持ち上げられる形になっているは、ティキを見下ろした。
引鉄を引こうにも、指に力が入らない。
手を動かさずに、意識だけで血液を宙へ持ち上げる。
それを知ってか知らずか、ふとティキが力を緩めた。

「赦しを導く神、ね……」

ティキが呟く。
遠くで爆音が響いた。

「ただ赦すだけじゃねぇんだな。贖罪、か。いいねぇ、好きだよ、そういうの」
「……るせぇ」
「つれないな」

笑ったティキは、に掛けていた手を放し、後ろを向いた。

「向こうのアクマが全滅したみたいだ。援軍は相手出来ねぇし、またな」

一歩、二歩と、足音がから離れていく。
そして、立ち止まった。



咳き込むだけの力も無く、ずり落ちたはただティキを見上げる。
ティキが、後ろを振り返るように、僅かに首を巡らせた。

「オレに傷をつけた人間は、お前が初めてだよ」

ふ、と微かに笑みを漏らすティキ。

「いや、神なのか」

嘲りとも哀れみともとれる呟きと共に、ティキは姿を消した。
の前に広がるのは、薄暗い道と燻る家。
アイザックの亡骸。

「(いつも、こうだ……)」

頭が重く、朦朧としてきた。
息が苦しい。

――お兄ちゃん――

締め付けられるように、胸が痛んだ。
イノセンスの副作用なのか、想い出に共鳴したものなのか。
胸元を握る手から力が抜け、意識が遠のきかけた時、声が聞こえた。

!!」

崩れそうな体を、傍らで膝をついたラビが支える。
ラビが息を呑んだ。

? お前、なんでこんなに……」
「ラビ」

その言葉を途中で遮り、は固く目を瞑った。

「ごめん……」
「え?」
「……ごめん……」

ラビが、家だったものを、その前に転がった「モノ」を、振り返った。









暗い廊下を渡り、目的のドアを肩で通り抜ける。
テーブルの周囲だけが明るい。
傘が、叫んだ。

「キャー! ティキたまが! ティキたまがー!」
「おやおや、随分やられてきましたネェ、ティキぽん」
「それ、ぜーんぶ神サマにやられたのぉ?」

ティキは長く溜め息をつく。

「傷口に塩塗るようなこと言うなよ、ロード。今、自己嫌悪中だから」

痛ェと言いながら、ティキは椅子に座った。

「正直あんな強いとは思わなかった。ティーズが壊られるなんてなぁ……」

ロードが頬杖をついてティキを見る。

「ティーズがぁ?」
「ティーズがー」

繰り返し答えて、襟元を緩める。
ロードの前にあったジュースを勝手に呷った。

「にしても千年公、アイツのもう一つのイノセンスって、何だったんスか? 血?」

千年伯爵は、頬に手を当てて言った。

「彼のイノセンスは、銃と心臓ですヨ?」
「心臓か! ああクソッ、最初に殺っとけばよかった……!」

ティキはテーブルに突っ伏した。
その背中を、ロードがレロでつつく。
むくりとティキは起き上がった。

「ヒィィ! ティキたま、怒ってるレロ?」
「あ? あー……怒ってない怒ってない。ちょっとオレ、ミザンのとこ行ってくるわ」

伯爵がティキを目で追う。

「珍しいですねェ、自分から彼の所に行くなんテ」
「マジで肩痛いんですよ。解剖(バラ)されない程度に診てもらおうと思って」

部屋を出て、先程は通り過ぎたドアの前で立ち止まる。
一応ノックをして、ティキは部屋へ入った。

「おーい、ミザン? 居……ないわけねぇよな?」

部屋に入った瞬間、ティキは肩の痛みなど忘れてしまった。
それほどに、寒かった。
彼が荒れているときはいつもそうだが、部屋中が凍りついている。
そして、その部屋の中心の回転椅子に、彼は座っていた。

「おい、ミザン。寒いんだけど」

キィ……と椅子が回る。
不機嫌そうな紫の瞳がティキを見つけた。

「チッ……ティキですか」
「あからさまに舌打ちをしない。って、いつものことか」

諦めたティキを、ミザンがフフンと鼻で笑う。

「いつものことですよ、何を今更。これはもう学が無いんじゃなくて、学習能力が無いんだと思いますけど?
いっそ私が解剖でもしてみましょうか。少し混ぜた方が頭良くなるんじゃないですか?」
「混ぜるって何を!?」
「さぁ……?」

三歩以上後ずさったティキを見て、ミザンが不気味に笑った。
そして急に興味が無くなったように、傍らの本を手に取る。

「それで? 何の用です? その様子じゃ、伯爵様に呼ばれているわけでもないんでしょう?」

ティキは言うか言うまいか、少し迷った。
ミザンが不機嫌に漂わせる冷気が、傷口に氷の膜を張っている。
実は、今はあまり痛くない。
そう、それ以上に、寒い。

「いや……さっきアイツと戦ってきたんだけどさ。ほら、神のエクソシスト」

ミザンが本を取り落とした。

「神、の……?」
「あれ? 覚えてねーの? この前千年公が言ってたじゃん、赦しの……」

ティキは驚きで言葉を無くす。
立ち上がったミザンが、ティキの襟首を掴んでいた。
いつも冷めている瞳が、熱く揺れている。
いつも余裕を感じさせる声が、震えている。

「その人、本当に、神なんですか」
「いや、まぁそう言われるくらいには強かった、けど、」
「でも人間なんでしょう!? っ、ティキ! 私は、『神』かどうかを聞いているんです! だって」

ミザンが突然言い募る。
ティキは圧倒されて、眼前の紫を見ていた。

「人間が……人間ごときが、同じ人間を赦すなんて、出来るんですか!?
裏切ることしか能のない、あの愚かな人間共が……! 愚者が、どうして愚者を裁けるというんです!?
裁くことも出来ないのなら、赦すことだって、出来る筈が無い! 
人間の罪を、人間が贖うなんて、出来る訳が無い! それは、あくまでも神の領域だ!!」

声の限りにミザンが叫ぶ。
息を切らせ、やがて彼はティキから手を離した。
周囲に漂う氷を、更に薄い氷の膜が覆う。
呆然と立ち尽くすティキの前で、消え入るようにミザンが呟いた。

「私は、認めない……」









コムイの机の電話が鳴った。
話をしていたブックマンと顔を見合わせ、コムイは受話器を取った。

「はいはーい、誰?」
『室長、ブックマン・ジュニアからお電話です』

交換手が慌てた声で言う。
コムイは一度ブックマンを見て、言った。

「ラビから? 繋いで」

ブックマンがコムイを注視している。
回線が、繋がった。

「ラビ?」
『悪ィ、コムイ。アイザック……殺されちまった』
「何だって!?」

思わず大きな声が出てしまった。
立ち上がったブックマンに、口の動きで「適合者が死んだ」と伝える。

『ごめんさ……オレら、間に合わなくて……』
「あっ……」

いつも明るく振る舞う青年の暗い声を聞いて、コムイは我に返った。

「分かった、ありがとう、ラビ。アイザックはアクマに殺されたの? 彼のイノセンスは?」
『声帯ごと壊されたみたいさ』
「イノセンスが壊された?」

コムイはブックマンを見下ろし、ブックマンはコムイを見上げた。

『ああ。オレら、バラバラに戦ってて……』
「続けて」
『オレらが寝てた宿にアクマが来て、オレはそこに残って、がアイザックの様子を見に行ったんさ。
そしたら……の話では、着いた時、アイザックはもう死んでたらしい』
が……」

そう呟いて、コムイはもう一人のエクソシストを思い出した。

は今……」
『そうなんさ、なぁどうしよう、』
「ちょっと落ち着いて、ラビ」
『凄い熱なんさ。少し喋れたんだけど、もう意識もなくて……
ここんとこ任務被んなかったけど、「聖典」の副作用って、こんなに酷かったんだっけ?』

顔から血の気が引いた。
ブックマンが耳を澄ませて、会話を全て聞き取ろうとしている。

……何、したの……?」
『分かんねぇ。でも、ってピンチのときは自分で腕切ったりしてたろ?
それ、やったっぽい。右の手袋なんかもう真っ黒さ。血の散り方も、多分「霧」か……「磔」だと思う』
「『霧』の方なら、まだ良いが……」

受話器の反対側に耳を付けていたブックマンが、小さく呟いた。
コムイは眉根を寄せる。

「『牢獄』以外に手を出すなんて……相手は一体……」
『ノア』
「!?」

コムイとブックマンが息を呑む。

「室長!」

リーバーとジョニーが、そこに駆けこんできた。
電話機を抱えて、こちらも慌てている。

「巻き戻しの街が、正常化したそうです」

二つの通信の狭間で、コムイとブックマンは呟いた。

「ああ、忙しい」
「全くだ」









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