燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
根が叫ぶ
その罅割れた泣き声を
耳にした人はどれだけいるの
生命を摘み取られた花に
目だけを奪われて
Night.115 今、行くよ
「ロッテが、のことつれてったげる!」
言うや否や彼女は素早くベッドの下に潜ってしまった。
「は? ――おい、ロッテ、」
慌てて膝をつき、ベッドの下を覗き込む。
思わず目を瞠った。
流れる風。
床板が一枚開いている。
後ろ向きになり足から穴に入ったロッテが、にっこり笑ってを手招いた。
「こっちだよっ」
少女は瞬く間に穴の中に降りていく。
逡巡は一瞬だった。
はベッドの上に置きっ放しになっていたベルトと福音を掴んだ。
「! まぁーだぁー?」
「今行くよ!」
反対の手で赤いクレヨンを掴み、絵が描かれた紙に走り書きを残す。
ベッドの下には然程の苦労もなく潜り込めた。
こうして見ると、床板が一枚、スライド式になっているようだ。
地下へ繋がる階段を、ロッテと同じように後ろ向きに降りる。
ひやり、空気が冷たい。
少し考えて、床板だった天井の扉は完全に塞ぐことにした。
残り数段がもどかしく、飛び降りてロッテの隣に着地する。
「ぴょんってしたー! ロッテもやるロッテもやるぅーっ!」
「いや、危ないからやめとけ」
「むーっ、もパパとおんなじ! ダメダメだっ」
めっ! と顰め面で此方を指さすロッテに苦笑いを返した。
「むんっ。……あっ、それなに? なに?」
「うーん、探検隊の道具かな」
「かっこいいー! いいなー、ロッテもそれほしいなー」
ロッテはの脚の周りをくるくると回っている。
彼女に触れさせないように拳銃付きのベルトを取り付けるのはなかなか大変でもあった。
「ロッテねぇ、たいちょーさんだから、のことまってたげる。ロッテやさしい?」
「うん、どうもありがとう。――よし」
「ひょわっ」
はロッテを左手で抱き上げ、微笑みかける。
「お待たせ。さあ、隊長さん、どこに行ったらいいのかな?」
ロッテの指がぴっと通路の先を指し示した。
「まっすぐだよ!」
地下通路はどこか洞窟にも似た寒さと静けさを持っていた。
緩やかに下る道、無骨なセメント造りの壁。
二、三歩助走をつけてジャンプをしたら、天井に指先が届くだろう。
ロッテはまっすぐと言うが、道なりに行くと通路は途中で大きく右に曲がる。
いく筋かの分かれ道、壁に掛けられたぼんやりとしたライト。
床はところどころ土と埃で汚れていた。
人の足跡らしきものもある。
どうやら、日常的に使用している人があるらしい。
床に残された足跡はの靴よりやや大きく、当然だがロッテのものでは無いようだ。
肩越しに振り返り、医務室への出入口を見遣る。
そしてまた視線を前へ。
「ロッテ。あの左の道はどこに繋がってるの?」
「おはかだよっ」
間髪入れずに答えは返された。
は空いた右手で通路の先を指差す。
「そのもう一つ先の道は?」
「あの子のとこ!」
「あの子って誰?」
ロッテはの目を覗き込んで、びっくり! と言いながら目と口を限界まで開いた。
「もしってるよ? ガラスでおねんねしてる子だよ?」
「硝子……リーセロットのことか?」
「そう、ロッテ! したのゆかからね、入るんだよ!」
続いて右側の通路を指差したロッテは、「あれはー、神父さまのおうち」と教えてくれた。
「(じゃあ、……当然、マルテン神父はこの道を知ってるんだよな?)」
左の壁の下に空いた穴は「くうきのとおりみち」に繋がっているらしい。
通気口のことだろうか。
探検隊を自称するだけあって、ロッテは修道院の内部構造にかなり詳しい。
また、予想より遥かに活発な少女であった。
「すごいね、隊長さんは何でも知ってるんだな」
「えっへんっ」
抱かれたままで胸を張るロッテは、の肩を掴んでいない左手をぶんぶん振り回す。
「だってね、あのねあのね、ないしょなんだけどねっ、……には、おしえたげるっ」
ロッテが珍しく声を潜めて、の耳に口を寄せた。
「ロッテね、たんけんたいになって『きゅうけつき』さがしてるの」
囁く声がかなりくすぐったいが、はそのままの姿勢で聞き返す。
「どうして?」
「パパがね、げんきになるの。あのね、ママね、いなくなっちゃったの。きゅうけつきのせいなの」
思わず目を瞠る。
ロッテの顔をまじまじと見つめてしまった。
「(ブラム先生の奥さんも、犠牲者だったのか)」
そんな素振りはなかったように思える。
この子には母親がいないというのは、そういう意味だったのか。
はロッテの額をそっと撫でた。
肩に回された彼女の右手が、きゅっと団服を鷲掴みにする。
「ロッテね、パパをげんきにしたげるんだ。……そしたらロッテもね、もっとげんきになるの!」
胸を過ぎる切なさに気付かないふりをして、は小さく笑ってみせた。
「ふふ、そっか、もっと元気になっちゃうのか」
「うんっ!」
ロッテが拳を突き上げる。
「ロッテ、がんばる! はたいいんさんだから、おてつだいねっ」
「勿論だよ。……ロッテ、俺の他には隊員さんはいないのかな? お友達とか」
「んーん。みぃんな、おはなししないの。ロッテとおしゃべりしてくれないの」
嫌なことを聞いてしまったかもしれないと、は眉を下げて彼女の頭を撫でる。
しかし本人はあまり落ち込んだ雰囲気ではない。
にひひと笑いながら、手に頭を擦り付けてきた。
ふと、左の通路に影が差した。
「(この、気配は)」
は右手を腰に回し、しかし何も掴まずに手を下ろす。
どうやら、敵意は無い。
「でもね、ロッテね、まいにちおしゃべりしてるの! おともだち、なるんだー」
「偉いなぁ、ロッテ。毎日頑張ってるんだな」
「うんっ! ……あっ」
左の通路、リーセロットの棺の下から繋がるという道を通って現れた人物に、ロッテが歓声を上げた。
「おばあちゃんだーっ!」
現れたのは、ポーラだった。
昨日と同じ服で、けれど目だけが爛々と光と意志をたずさえている。
敵意はない。
けれど意図が見えない。
とポーラは、互いの動きを制するようにじっと相手を見据える。
「みてみてみてっ、おばあちゃん! ロッテのたんけんたい! ね、たんけんたいなった!」
「そう……探検隊、お友達が増えて良かったわね、ロッテ」
「うんっ! おばあちゃんも? たんけんたい、はいる? ロッテとする?」
腕の中の少女は、に抱かれてさえいなければ駆け出していただろう。
ポーラも少女に微笑みかけて、頷いた。
「ええ。おばあちゃんも一緒に探検させてちょうだい」
いいよーっ! とご機嫌なロッテをちらと見下ろして、はポーラに向き直る。
「貴女がどうして、」
「泉に行けるんでしょう?」
言葉は遮られた。
「ここを通れば、泉に行けるって。少し前にその子が教えてくれたのよ。さあ、歩いて」
ポーラが急かすように手を動かす。
「まっすぐだよ、!」
「ずっと、泉の場所を探していたわ。神父様が何処から泉に行ったのか、知りたかったから」
「……それで毎日、聖堂へ?」
「おばあちゃんとロッテ、おともだちっ」
るんるんたったーるんたったー!
ロッテの新作メロディが通路に響く。
そうよ、とポーラが頷いた。
「せめて、フランカだけでも取り戻すの」
せめて。
ポーラが繰り返す。
「悲しくて、悔しくて、フランカまでいなくなってしまって、……そうしている間にロッテは、」
振り返る幼子の髪に手を伸ばし、老女はそれを指先で揺らした。
「私のリーセロットは、奪われた」
「フランカだけで、良いんですか?」
違う。
取り返そうと思わなかった筈は、無いのだ。
彼女は聖堂で、娘を見世物にする全ての人への怒りを煮詰めて、煮詰めて、煮詰めていた。
ポーラがを睨めつけた。
黄金色の髪を映した彼女の眼差しは、けれど途端に、ぐらつく。
「……修道院がつくったこの町で、どうして神父様に逆らえるというの」
私ひとりで、どうして信仰に抗えるというの。
喉の奥から絞り出す声。
俯けた顔、力の篭もった瞳で床をじっと、ただじっと、彼女は見つめる。
ロッテがポーラを見つめ、の団服を握った。
「いいえ、……いいえ、違うわ。私が悪いのよ。……こんなことなら、あの人が父親だと、教えておけばよかった」
ポーラが頭を振る。
「生きている間は、抱き締めてもやらなかったくせに……どうして、マルテン……」
吸い込んだ息を唾と共に飲み込んで噎せそうになりながら、は目を瞠った。
「フランカとリーセロットは、……貴女とマルテン神父の……?」
首肯と共に、拭いきれない彼女の涙が零れる。
掌で必死にそれを受けながら、ポーラはから顔を背けた。
彼女が一歩先に歩いたのを見て、自分の足が止まっていたことに気付く。
「……ロッテには、まだ早いと思ったのよ」
それは娘であろうと、口には出しづらい筈だ。
下手をすれば神父の信仰にも関わる。
「では、フランカは知っていたんですね」
「ええ。もう、大きくなったと、思って」
頷いたポーラは、袖で顔を乱暴に拭い、道なりに右へ曲がった。
「あの頃、ロッテは妙に機嫌が悪かった」
道の先に階段がある。
「私達が隠し事をしていると、気付いてしまったのかもしれない」
「(それなら、フランカの書置きも理解出来る)」
「あのかいだんのぼるの!」
ロッテがの服をぐいぐいと引いた。
は腕の中を見下ろして頷く。
あと少しだ。
ふと、ポーラが立ち止まった。
先に階段へ足を掛け、は振り返る。
空いている手を差し伸べると、彼女の震える手がそれを掴んだ。
――頭上から流れ込む風が、水面に弧を描く。
禁域の森に冷やされた空気が下りてくる。
その場所は、地上の大聖堂と似た広さの空間だった。
足元には泉が広がり、その向こうに土壁が見える。
土壁には、人の片足をやっと乗せられるような土の突起が幾つもあった。
それは恐らく階段なのだろうが、半ばで一部が崩れている。
見上げた天井は、やはり聖堂のように高い。
「(助走が出来ない。帳で駆け上がったとして、――五枚は欲しいな)」
天井は、外から見たら地面だ。
階段があることからも、そこが本来の出入口なのだと分かった。
人が通るのに十分な穴が空いていて、光はその穴から差し込んでいる。
「フランカ……!」
繋いだ手を振り払って、ポーラが駆けた。
視線を下ろしたは思わず息を飲む。
彼女の向かう先に、金髪の少女が座り込んでいる。
一瞬さえも惜しんで駆け寄りたいだろうに、ポーラは泉の外周を大きく回り込んだ。
それもその筈、澄んだ泉は水底までも見通せたが、余りにも深い。
「、あの子、だぁれ?」
ロッテが腕の中でもぞもぞ動いた。
は彼女を抱き直す。
泉に落としたら一大事だ。
「リーセロットのお姉さんだよ」
「ふぅーん?」
――待てよ、あの土壁の階段はいつ崩れた?
はっと視線を壁に戻す。
仮に、地上からあの階段を下りている最中に土が崩れて体が宙に放り出されてしまったら。
泉に真っ逆さまに落ちてしまったら。
きっと、溺れて助からない。
「おばあちゃん、ないてるねぇ」
「うん? ああ、そうだね」
フランカが座り込んでいるのは、泉の奥の窪みだった。
まるで祭壇のように誂られた窪み。
凭れて座り込んだ少女の両脚は泉に浸かったままだ。
声を上げて泣きながらポーラが娘を抱き締める。
けれど、とうに生気を喪った少女はされるがまま、少しも動きはしなかった。
「おねえちゃん、もう、からっぽだもんねぇ」
――フランカは、何故あのままなのだろう?
死体の扱いがちぐはぐに思える。
「(例えば、先にリーセロットがあの階段から落ちたのだとして)」
フランカは、自ら身を投げたのだろうか。
リーセロットを引き揚げたのは神父だとして、フランカを引き揚げてあの場に安置したのは誰か。
そして尚更、なぜ彼女はあの場に留めたままで、妹だけをあれだけ丁重に祀ったのか。
「あっ! ロッテもおねがいしなくっちゃ! でも、ロッテのおねがい、きいてもらえるかな?」
ママ、とりかえせるのかな?
ロッテが泉を覗き込んだ。
瞼を見開いて、大きな瞳を顔から零れ落ちそうにさせながら、唇を尖らせる。
「ママ、おみずのなかにいなーい。んむー、きゅうけつきもいなーい。ここじゃないのかなぁ?」
心臓が不意に早足で続けざまに脈打って、暴れる。
胸に抱き寄せたロッテの耳には届く筈もない音だが、は強く唇を噛んだ。
どうか、聞こえていませんように。
唇に血の味が滲む。
――お兄ちゃん――
ロッテがを見る。
どうか今少し、自分さえ欺けますように。
――お兄ちゃん――
背後から足音が聞こえる。
敵意。
害意。
殺意。
天井の穴から、地上から、爆音が聞こえる。
耳元で無線がザザザ、と鳴った。
――お兄ちゃん――
はロッテをきつく抱き締め、右手で福音を抜いた。
『聖堂にアクマ多数!』
無線から、アレンの声。
振り返る。
「――この結界を破壊したということは、聖堂の屋根を破壊したということでしょうか」
『聞こえますか、兄さん! 禁域にアクマの反応があります!』
腕の中のロッテが、の耳元から聞こえるアレンの声に目を白黒させている。
少女が無線機に興味津々になってしまう前に、は、彼女の両手を自分の首に回させた。
「禁域のアクマは、今、目の前にいるよ」
無線機にそう応じると、驚愕を示す声が耳に返ってきた。
の首に手を回したまま、ロッテが身動ぎ、首を巡らせる。
そうして相手を目にした彼女は、わざとらしく「はあーあ」とため息をついた。
「またしんぷさまにみっかっちゃったー」
「まったく、黒の教団というものはどこまでも野蛮で困りますね」
泉の入口で、マルテンが言う。
唇を笑みの形に引き攣らせながら。
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